11 きっかけは突然に
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時刻は18時を少し回ったところだった。
開演まで、あと三十分。
ステージ袖に立つ〇〇は、暗い客席の向こう側に広がる光景を見つめたまま、しばらく言葉を失っていた。
さっきまで、会場には誰もいなかった。
空っぽの椅子が規則正しく並び、巨大なステージが静かに照明を待っていたはずなのに。
今は違う。
視界の果てまで、人、人、人。
何千、何万という人間が、それぞれの席で開演を待っている。
客席には紫色の光が少しずつ増えていた。
一本、また一本。
やがてそれは点ではなくなり、無数の紫が波のように広がっていく。
深川麻衣のサイリウムカラー。
今日という日を待ち望んでいたファンたちが、彼女のために灯している光だった。

〇〇「……すげー……」
気づけば、〇〇の口からそんな言葉が漏れていた。
隣にいた櫂も、しばらく何も言わなかった。
普段なら真っ先にくだらない冗談を飛ばす男も、今日はただ客席を見つめている。
櫂「……こんなスゲーんだな」
ようやく出てきた言葉も、それだけだった。
慶太も同じだった。
慶太「こんな中で……演るんだな……」
三人とも、まだステージには立っていない。
それなのに、すでに何か大きなものを背負わされたような感覚があった。
〇〇は無意識に自分の胸元へ手を当てた。
心臓が速い。
緊張している。
当然だった。
これまで自分が立ったことのある場所といえば、小さなライブハウスばかりだった。
客席との距離が近く、ステージに上がれば観客の表情まで見えるような場所。
それだって毎回緊張した。
けれど、今目の前にあるものは、その何倍、何十倍なのか。
自分たちの音を待っている人が、こんなにもいる。
しかも今日は、ただのライブではない。
深川麻衣の卒業コンサート。
乃木坂46にとって、大切な一人を送り出す一日。
そして、その最後の一曲を、自分たちが演奏する。
そう考えた瞬間、胸の奥がきゅっと締まった。
スタッフ「そろそろスタンバイお願いします!」
スタッフの声が飛んだ。
三人「「「はい!」」」
三人は返事をして歩き出す。
青い制服風の衣装が、歩くたびにわずかに揺れる。
今日のために用意された衣装。本来ならバックダンサーのために用意された衣装だったが、急遽〇〇たちが着ることになった。
まだ自分たちには少しだけ場違いに思える。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ今は、この衣装を着ていることそのものが、自分たちがここにいる証のように感じられた。
そのときだった。
「〇〇くん」
背後から声がした。
柔らかな声。
振り返る。

そこに立っていたのは、ステージ衣装に身を包んだ深川麻衣だった。
さっきまでのリハーサル着とは違う。
髪も整えられ、衣装も本番仕様。
これから大勢のファンの前に立つ“乃木坂46の深川麻衣”そのものだった。
けれど、その笑顔だけはいつものままだった。
深川「その服、かっこいいね。似合ってる」
〇〇は自分の服を見下ろした。
〇〇「ほんとですか?」
深川「うん。すごく似合ってるよ」
〇〇「……なんか、ちょっと恥ずかしいです///」
思わず苦笑すると、深川は小さく笑った。
深川「ふふ。大丈夫だよ」
その笑顔を見ていると、不思議と肩の力が抜けていく。
まるで、そこにいるだけで周囲の緊張を少しずつ溶かしていくような笑顔だった。
これが、聖母って呼ばれる理由なのかもしれない。
〇〇はそんなことを思った。
すると、深川の表情がほんの少しだけ変わった。
深川「……本当にありがとう」
〇〇は静かに聞く。
深川「〇〇くんたちのおかげで、心残りなく卒業できそう」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
嬉しい。
それは間違いない。
けれど同時に、言葉にできない寂しさも込み上げてくる。
今日で、この人は乃木坂46を卒業する。
その事実が、急に現実味を帯びた。
〇〇は少しだけ笑って答えた。
〇〇「……まだ、これからですよ」
深川「え?」
〇〇「ありがとうの言葉は、コンサートが終わってからまた聞かせてください」
一瞬、深川は目を丸くした。
そして――
深川「うん!」
子どものような、明るい笑顔を見せた。
その笑顔を残して、深川は自分のスタンバイ位置へ向かっていく。
〇〇たちはその後ろ姿を見送った。
小さくなる背中。
それが通路の向こうへ消えていく。
〇〇は服の袖を握り直した。
〇〇「……最高のコンサートにしような」
隣で櫂が頷いた。
櫂「ああ」
慶太も力強く答える。
慶太「もちろんだ!」
三人は顔を見合わせた。
それ以上の言葉はいらなかった。
やることは決まっている。
最高の音を鳴らす。
それだけだった。
--
やがて
会場の照明が落ちた。
客席から一斉に歓声が上がる。
その瞬間、空気そのものが震えた。
衛藤『皆さん今日は一緒に、まいまいとの素敵な時間を過ごしましょう!』
衛藤の声が響く。
影ナレが終わる。
ほんの一瞬、会場全体が息を止めた。
そして――
OVERTURE。
イントロが流れた瞬間、会場が爆発した。
無数のサイリウムが一斉に揺れる。
紫一色。
まるで巨大な光の海だった。
その光の向こうから、乃木坂46のメンバーたちが姿を現す。
歓声がさらに大きくなる。
続いて始まったのは『ハルジオンの咲く頃』。

今日という日のために用意されたような曲。
深川が笑う。
メンバーが笑う。
客席からも笑顔が溢れる。
その一方で、何度も涙を拭うファンの姿も見えた。
曲が進む。
MCが入り、メンバーたちが笑いを誘う。
深川が話すたびに客席から大きな声援が飛ぶ。
時間は驚くほど速く過ぎていった。
〇〇はステージ袖から、そのすべてを見ていた。
自分たちが参加するのは最後の一曲だけ。
それでも、このコンサートを見ているだけで胸がいっぱいになる。
そして――
とうとう最後の時間が近づいてきた。
ステージの中央。
深川が立ち、その隣に奈々未が立った。
奈々未は一枚の手紙を手にしていた。
奈々未「今回は、みんなを代表してお手紙を書いてきました」
会場が静まり返る。
奈々未の声は、いつもより少しだけ震えていた。
奈々未「最年長は関係なく、誰よりも大人でした」
深川が微笑む。
奈々未の目には、すでに涙が浮かんでいた。
奈々未「今まで恥ずかしくて言えなかったけど……尊敬してました」
そこで一度、言葉が止まった。
会場のあちこちから、すすり泣く声が聞こえる。
奈々未「大好きでした」
深川の目にも涙が浮かんだ。
奈々未「まいまい……お疲れ様でした」
奈々未の頬を、大粒の涙が伝った。
深川はそんな奈々未を見ながら、泣き笑いのような表情を浮かべる。

周囲のメンバーも、もう涙を隠そうとはしなかった。
白石も。
飛鳥も。
桜井も。
みんなが、この瞬間を噛みしめていた。
そして――
最後の曲。
『乃木坂の詩』。
ステージが暗転する。
〇〇はギターを握った。
暗闇の中で、客席の紫色だけがぼんやりと見える。
無数の光。
深川麻衣を送り出すための光。
〇〇は一度、深く息を吸った。
そのときだった。
暗闇の向こうで、深川と目が合った。
彼女が――
ニコッと笑った。
〇〇も微笑み返す。
そして奈々未。
白石。
飛鳥。
桜井。
そして、ほかのメンバーたち。
一人、また一人と目が合っていく。
不思議だった。
さっきまで感じていた緊張が、少しずつ消えていく。
代わりに、身体の奥から熱が湧き上がってくる。
――大丈夫。
――俺たちは、一人じゃない。
――みんなで最高の音楽を奏でるんだ。
〇〇は櫂を見る。
櫂もこちらを見ていた。
慶太とも目が合う。
三人が、ほんのわずかに頷き合う。
言葉は必要なかった。
その瞬間。
音が消えた。
いや。
正確には、世界から余計なものがすべて消えたように感じた。
歓声も。
照明も。
スタッフの声も。
客席の存在すら。
残ったのは、自分の呼吸と、指先に触れるギターの感触。
そして、周りにいる仲間たちの感覚だけ。
〇〇は目を閉じた。
一秒。
二秒。
そして――
目を開く。
その瞬間、ギターの弦を弾いた。
ギターの音が、最初の一音を鳴らす。
その瞬間だった。
まるで、それまで会場を満たしていた空気そのものが、音楽へと姿を変えたようだった。
〇〇は指先に全神経を集中させていた。
弦を弾く。
一音。
また一音。
いつもなら何気なく流れていくはずの音が、今日はひどく鮮明だった。
ピックが弦を捉える感触。
指先から腕へ伝わる微かな振動。
アンプやスピーカーを通して巨大な空間へ放たれていく、自分のギターの音。
そして、その音を追いかけるように――
ドン。
櫂のドラムが響く。
ズン……。
慶太のベースが低く地面を揺らす。
そこへ乃木坂46のメンバーたちの歌声が重なった。
一人ひとりの声が重なり、ひとつの大きな旋律になっていく。
〇〇は思わず息を呑んだ。
――すごい。
そう思った。
けれど、その言葉すら今の自分には足りなかった。
いつもの三人で演奏している。
それなのに、まるで別の音楽を奏でているような感覚だった。
櫂のドラムが自分の背中を押している。
慶太のベースが足元を支えている。
二人の音が身体の奥まで入り込んできて、それが自分のギターと混ざっていく。
そして、その上に乃木坂の歌声が乗る。
音と音の境目が、少しずつ消えていく。
ギター。
ベース。
ドラム。
歌声。
本来なら別々のものだったはずなのに。
今はもう、そんな区別すら必要なかった。
――ひとつだ。
〇〇はそう感じた。
自分が音を鳴らすたびに、会場全体が少しずつ動いていく。
それがたまらなく楽しかった。
怖さはなかった。
緊張も、いつの間にか消えていた。
ただ、もっと弾きたい。
もっとこの音の中にいたい。
もっと遠くまで届けたい。
そんな純粋な衝動だけが、身体の奥から湧き上がってくる。
ふと顔を上げる。
視界の先には、無数の紫色の光が揺れていた。
ひとつ、またひとつ。
それが波のように揺れ、次第に大きなうねりになっていく。
やがて客席からも歌声が生まれた。
一人。
二人。
それが十人になり、百人になり。
気がつけば、会場いっぱいの人たちが歌っていた。
ステージと客席。
演者とファン。
そんな境界線さえ曖昧になっていく。
〇〇はギターを弾きながら、目の前の景色を必死に記憶へ刻み込んだ。
紫の光が揺れるペンライト。
笑顔。
涙。
そして、何よりも楽しそうに歌うメンバーたち。
――これがライブなんだ。
今まで知らなかった。
音楽を聴くことはあった。
楽器を弾くことも、何度もあった。
けれど、自分たちが生み出した音楽が、これほど大勢の人間の感情を動かしている。
その事実が、信じられないほど嬉しかった。
やがて曲が終盤へ向かう。
演奏にも、歌声にも、最後の力が込められていく。
そして――。
最後の音が、会場へ溶けていった。
一瞬の静寂。
次の瞬間。
「まいまーい!!」
「まいまーい!!」
「まいまーい!!」
地鳴りのようなファンのみんなの歓声が巻き起こった。
深川麻衣がマイクを握ったまま、客席を見渡す。
頬には涙。
それでも、その顔には誰よりも幸せそうな笑顔が浮かんでいた。
深川「今この瞬間、世界で一番幸せです!」

その言葉に、会場がさらに大きく沸いた。
〇〇はギターを抱えたまま、深川の姿を見つめていた。
――よかった。
心の底から、そう思った。
今日、自分たちがここに立った意味。
この一曲を任された意味。
その答えが、今目の前にあるような気がした。
けれど。
深川はそこで終わらなかった。
涙を拭いながら、ふとこちらを見る。
そして――。
ニヤッ。
ほんの一瞬、悪戯っぽく笑った。
〇〇は思わず目を瞬かせる。
深川「みなさん……まだ曲、聴きたいですか?」

ファン「「「聴きたいーー!!」」」
会場が一斉に叫ぶ。
深川は嬉しそうに笑う。
深川「最後にもう一度――『ハルジオンの咲く頃』を聴いてください!」
会場が爆発したように沸いた。
〇〇は思わず深川を見る。
すると彼女は、ゆっくりと振り返った。
視線が交わる。
そして、唇だけを動かした。
――お願いね。
その瞬間、〇〇はすべてを理解した。
〇〇「……なるほど」
小さく呟く。
すぐに櫂を見る。
目が合う。
〇〇が軽く頷く。
櫂もニッと笑った。
慶太を見る。
こちらもすでに理解していたらしい。
慶太が親指を立てる。
――やろう。
三人の間に、それ以上の言葉はいらなかった。
〇〇はギターを構え直した。
深く息を吸う。
さっきまでの演奏とは違う。
今度は、三人が自分たちの音楽として作る。
ぶっつけ本番の正真正銘の今この瞬間から生まれていくどうなるかわからない音楽。
一度きりの、この夜だけの音楽。
〇〇は一度だけ小さく息を吸った。
そして、
〇〇が最初のコードを鳴らした。
その瞬間――。
「「「おおおおおっ!!」」」
会場がどよめいた。
先ほどとは違う。
ギターの音色が前面に出る。
櫂がそこへドラムを重ね、慶太が低音で支える。
三人の音が絡み合いながら、原曲とは違う表情を作っていく。
深川は目を丸くしたあと、すぐに笑った。
そして歌い始める。
その声に合わせるように、メンバーたちも歌う。
〇〇は演奏しながら思った。
――これが、最後なんだ。
今日、この人が乃木坂46としてステージに立つ最後の時間。
だからこそ。
ただ綺麗に終わらせるだけじゃない。
寂しさだけを残すんじゃない。
「ありがとう」と「おめでとう」を、音楽に込める。
それが自分たちにできる、精一杯の送り方だった。
〇〇だけじゃない、櫂も、慶太も、そしてメンバーたちも。
全員がそう思い、音を奏で歌う。
曲が進む。
深川を中心に、メンバーたちが少しずつ彼女の周囲へ集まっていく。
白石がいる。
奈々未がいる。
玲香がいる。
飛鳥がいる。
そして、そのほかのメンバーたちも。
誰もが笑っている。
誰もが泣いている。
深川も泣いている。
それでも笑っている。
〇〇は演奏を続けながら、その光景を見つめた。
――この人は、本当に愛されているんだ。
そう思った。
ステージの上で、深川を囲む輪が少しずつ形を変えていく。
やがてメンバーたちは左右へ分かれ、一本の道を作り始めた。
その先には、ステージ中央から客席へ伸びる花道。
そして――。
メンバーたちが両手を掲げる。
二人、三人。
次々と腕が重なっていく。

アーチ。
深川のためだけに作られた、人の手による温かな門。
その向こうには、花道が続いている。
照明がそこを照らす。
まるで一面に花が咲いたようだった。
深川は立ち止まる。
振り返る。
後ろには、今まで一緒に歩いてきた仲間たち。
前には、これから進んでいく新しい道。
その間に立った深川の目から、また一粒の涙が零れた。
けれど、その表情は笑っていた。
深川が一歩踏み出す。
アーチの下をくぐる。
メンバーたちの笑顔と涙に見送られながら、花道を歩いていく。
客席からは「まいまーい!」という声が何度も響く。
〇〇はその背中を見つめながら、ギターを鳴らし続けた。
一音一音に、祈るような気持ちを込める。
――いってらっしゃい。
――ありがとう。
――これからも幸せでいてください。
言葉にすれば簡単なのかもしれない。
けれど今は、その全部を音にする。
深川が花道を進む。
紫色の光が揺れる。
その光の中を、彼女は何度も振り返りながら歩いていく。
そして最後にもう一度だけ、ステージを振り返った。
仲間たちを。
乃木坂46を。
そして、ステージ袖で演奏する〇〇たちを。
深川は泣きながら笑った。
〇〇も微笑む。
その瞬間、ギターの音がもう一段、大きく響いた。
まるでこの夜を永遠に残すかのように。
静岡の夜。
紫色の光に包まれた会場。
ひとりの女性が、新しい未来へ歩き出す。
そして、その背中を送り出すために鳴らされる音楽。
〇〇はその光景を、一生忘れないだろうと思った。
この日。
自分たち「星月坂」が初めて大きなステージで音を奏でた日。
そして――。
乃木坂46の「聖母」が、新しい人生へ旅立っていった日。
その二つの出来事は、きっとこれから先も、〇〇の中で切り離せない記憶として残り続ける。
最後の音が、静かに夜へ消えていった。
つづく
※この物語はフィクションです。
※実在する人物などとは一切関係ございません。
