8 きっかけは突然に
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関係者ゲートをくぐった瞬間、外の朝の空気とはまるで別世界だった。
無線の声。
スタッフたちの慌ただしい足音。
ステージ機材を運ぶ台車の金属音。
遠くから微かに響く音源チェックのリズム。
巨大なライブという生き物が、開演へ向けて呼吸を始めている。
〇〇たちは自然と歩幅を小さくしながら、その熱気の中へ入っていった。
〇〇「うわ……」
思わず漏れた。
テレビや映像で見たことはあった。
だが、実際に“ライブの裏側”へ足を踏み入れると、その空気の密度はまるで違った。
数えきれない人間が動いている。
けれど、誰一人として無駄に動いていない。
照明スタッフが図面を片手に走り、音響スタッフがインカム越しに何かを確認し、舞台監督らしき人物が秒単位で指示を飛ばしている。
その全員が、“乃木坂46のライブ”という一つの作品を成立させるためだけに動いていた。
〇〇は、その光景に小さく息を呑む。
——これが、プロの現場。
自分たちがこれから足を踏み入れようとしている世界の現実が、そこにあった。
その時だった。
人混みの向こうに、見覚えのある後ろ姿が見えた。
黒いポロシャツ姿。
早足で歩きながら、次々にスタッフへ指示を出している。
〇〇「今野さん!」
〇〇が声を上げると、今野は反射的に足を止めた。
そして振り返った瞬間、ぱっと表情を和らげる。
今野「おおっ! 〇〇くんたちか!」

忙しさの中でも、きちんとこちらへ歩み寄ってくる。
今野「飛鳥を連れてきてくれてありがとう。さっき本人から話を聞いたよ」
〇〇「いえ、お役に立てて良かったです」
〇〇たちは軽く頭を下げる。
今野はふっと笑った。
今野「いろいろ話もしてくれたんだろ?」
〇〇「え?」
〇〇は瞬きをする。
〇〇「何か言ってました?」
今野「いや、詳しくは聞いてない」
今野は首を振る。
今野「でも、飛鳥の顔が昨日までと違ったからな」
その言葉には、どこか父親のような柔らかさがあった。
今野「まあ、感ってやつさ」
その一言に、〇〇たちは思わず顔を見合わせた。
——ああ、この人だから。
乃木坂46という巨大なグループを支えている理由が、少しだけ分かった気がした。
ただ管理しているだけじゃない。
ちゃんと、一人一人を見ている。
今野「じゃあ悪いが、俺はもう行くよ」
今野は再び時計を確認する。
今野「今日はしっかり見ていくんだぞ」
〇〇、櫂、慶太「「「はい!」」」
三人が揃って返事をすると、今野は満足そうに頷き、そのまままた忙しなく歩き去っていった。
その背中を見送りながら、櫂がぽつりと漏らす。
慶太「……マジで戦場だな」
櫂「だな」
櫂も静かに頷く。
案内スタッフに連れられ、荷物を置いたあと、〇〇たちはリハーサルのステージへとへ向かった。
そして、会場へ足を踏み入れた瞬間——
三人は言葉を失った。
巨大だった。
とにかく、巨大だった。
エコパアリーナ。
客席はまだ無人。
なのに、その空間だけで圧倒的な存在感がある。
ステージ上には無数の照明機材。
頭上には巨大なトラス。
花道が客席へ向かって長く伸び、LEDモニターが静かに光を落としている。
誰もいない客席なのに、そこには確かに“ライブ”の気配があった。
静かなのに、熱い。
まだ始まってもいないのに、何万人もの歓声の残響が染み付いているような、不思議な空気。
〇〇はゆっくりと客席を見渡した。
——ここが、埋まるのか。
それだけで、胸の奥がじわりと熱くなる。
櫂「やっぱライブハウスとはレベル違うな……」
櫂が呟く。
普段は強気な櫂ですら、今は完全に圧倒されていた。
慶太「だな……」
慶太も珍しく素直だった。
慶太「これ、ステージ立ったら景色どう見えるんだろ」
〇〇は何も言えなかった。
ただ、自分の胸の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。
__
その後も三人は会場を歩き回った。
ステージ裏。
機材搬入口。
出演者の動線。
早替えスペース。
どこもかしこも合理的で、それでいて熱があった。
一つのライブを作るために、どれだけの人間が、どれだけの時間を費やしているのか。
その現実が、じわじわと身体に染み込んでいく。
一通り見終え、再びステージ袖へ戻ってきた頃には、櫂と慶太は少し疲れた顔になっていた。
櫂「俺ら一回楽屋戻るわ」
櫂が肩を回しながら言う。
慶太「飲み物置きっぱだし」
慶太も続く。
櫂「〇〇は?」
〇〇「……俺、もう少しここいる」
自然と言葉が出た。
櫂は「おう」とだけ言い、慶太も軽く手を振る。
二人が去ったあと、〇〇は静かなステージ袖に一人残った。
客席を見つめる。
無人の椅子の海。
だが、不思議だった。
誰もいないのに、確かに“人”を感じる。
お客さんの歓声。
生み出される熱気。
ペンライトの光。
そして、歌声。
まだ始まっていないのに、その全部がそこにある気がした。
——ここで歌うって、どんな気持ちなんだろう。
そんなことを考えていた、その時。
不意に、頬にひやりとした感触が触れた。
〇〇「うわっ!」
反射的に振り返る。
そこには、悪戯っぽく笑う橋本奈々未が立っていた。
リハ用のラフな服装。
紫色のビブスには“橋本”の文字。
片手には冷えたペットボトル。
奈々未「やほ、〇〇」

柔らかな笑顔。
なんだか変に懐かしさを感じた。
〇〇は胸を撫で下ろしながら苦笑する。
〇〇「びっくりした……てか、なんか前もこういうのされた気がする笑」
その言葉に、奈々未は声を上げて笑った。
奈々未「あー、公園の時ね」
CanCam撮影のあと。
ベンチで休んでいた時のこと。
奈々未「あの時もすごい驚いてたよね。〇〇、リアクションいいから」
〇〇「奈々未が急すぎるんだって……」
そう返しながら、〇〇は少しだけ安心している自分に気づいた。
巨大なライブ会場。
見知らぬ空気。
飲み込まれそうな熱量。
その中で、奈々未の存在だけが、不思議なくらい自然に感じられた。
〇〇は奈々未から差し出されたペットボトルを受け取ると、ひやりとした感触が掌に伝わった。
五月の静岡。
空調の効いたアリーナの内部は外よりずっと涼しいはずなのに、巨大なライブ空間が放つ熱気のせいか、身体の奥にはじっとりと汗が滲んでいた。
〇〇「ありがと」
キャップを開けながら礼を言うと、奈々未は「どういたしまして」と柔らかく笑う。
そのまま彼女は、ゆっくりとステージの中央へ向かって歩き出した。
客席に誰もいないエコパアリーナは、妙な静けさを孕んでいた。
数時間後には何万人もの歓声で埋め尽くされる場所だというのに、今は照明の確認音やスタッフ同士の無線だけが、だだっ広い空間に反響している。
奈々未のスニーカーの足音が、コン、コン、とステージ床に軽く響いた。
奈々未「まさか、〇〇が私たちと同じ坂道グループとしてデビューするなんてね」

歩きながらそう言って、奈々未はくるりと振り返った。
紫色のビブスがふわりと揺れる。
リハーサル用のラフな格好のはずなのに、どうしてこんなにも絵になるのだろう、と〇〇は思う。
〇〇「聞いたんだ」
奈々未「まぁ、いちおう共演経験者ってことで私だけね」
奈々未は肩をすくめるようにイタズラっぽく笑った。
奈々未「ほかのメンバーはたぶん知らないよ。今野さんから“新人アーティストの卵が見学に来る”って説明はあったけど、“インディーズ系の子たち”みたいに適当に誤魔化してたから」
〇〇「ああ……なるほど」
奈々未「だから飛鳥なんて、〇〇たちが誰かちゃんと分かってないと思う」
奈々未は少し楽しそうに言うのをみて、〇〇は思わず苦笑した。
たしかに、いきなり“坂道グループの新メンバー候補です”などと言われても、普通は混乱するだろう。
しかも自分たちは、これまで顔を出して活動してこなかった。
YouTubeでも逆光、後ろ姿、影。
音だけを表現してきた。
そんな自分たちが、いまこうして巨大なアリーナのステージに立っている。
その現実感のなさに、〇〇は未だに不思議な感覚を覚える。
奈々未「それで、いつデビューするの?」
奈々未の問いに、〇〇は少し考えてから答えた。
〇〇「まだ何も決まってないよ。正直、実感もないくらい」
そう言いながら、〇〇は奈々未の横を通り過ぎ、ステージの先端へ歩いていく。
客席を見渡した。
暗い。
けれど、その暗闇の向こうに、数時間後の景色がうっすらと見える気がした。
サイリウムの海。
歓声。
音の渦。
まだ何も始まっていないのに、胸の奥だけが先に震えている。
〇〇「でも」
〇〇はぽつりと続けた。
〇〇「ボイストレーニングしたり、こうしてライブ見学させてもらったりすると……なんていうか、胸の奥がむず痒くなるんだ」
奈々未が隣まで歩いてくる。
奈々未「ふふ。武者震いってやつ?」
〇〇「そんなカッコいいものじゃないよ」
〇〇は苦笑しながら首を振った。
〇〇「ただ……もっと音楽ができるって思うと、それだけで嬉しいんだと思う」
そして、くるりと奈々未の方を振り返る。
自然と笑みが浮かんでいた。
作った笑顔ではない。
心の底から零れたような、真っ直ぐな笑顔。
それを見た瞬間、奈々未は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
――ああ、この人は。
やっぱり音楽そのものが好きなんだ。
打算とか、野心とか。
もちろん夢はあるのだろうけど、それ以上に“楽しい”が先に来る。
だから惹きつけられる。
CanCamの撮影で初めて会った時もそうだった。
カメラの前で不器用なくらい真っ直ぐで、だからこそ一瞬の表情が妙に心を掴んだ。
奈々未は小さく微笑んだ。

奈々未「〇〇って、ほんと音楽好きなんだね」
〇〇「え?」
奈々未「いや、なんか羨ましいなって」
そう言って奈々未は視線を逸らす。
〇〇は少し不思議そうな顔をしたが、その意味を深くは聞かなかった。
奈々未自身も、なぜそんな言葉が口から出たのかよく分からなかった。
乃木坂46として活動していく中で、彼女は何度も“仕事としての音楽”に向き合ってきた。
もちろん歌うことは嫌いじゃない。
ライブも好き。
でも時々、自分は“好き”だけで立てているのだろうかと、不安になる瞬間がある。
そんな時、〇〇たちのような存在を見ると眩しく感じるのだ。
純粋に音を楽しんでいる人間は、こんな顔をするのか、と。
二人はそのままステージを降り、楽屋エリアへ続く通路を並んで歩き始めた。
しかし歩きながら、ふと思い出したように「あ」と奈々未が声を漏らした。
奈々未「そういえば、飛鳥のこと助けてくれたんでしょ? ありがとう」
〇〇「あ、それも聞いたんだ」
奈々未「うん。飛鳥から」
奈々未はくすっと笑う。
奈々未「あの飛鳥がね、真剣な顔してみんなに謝ったの」
〇〇は少し驚いた。
〇〇「斎藤さんが?」
奈々未「そう。しかもそのあと、“乃木坂のために、ファンのために、みんなのために頑張る”って、めちゃくちゃ真面目な顔で言い出して」
奈々未は思い出したのか、肩を揺らして笑った。
奈々未「みんな、“え、飛鳥どうした?”ってなってた」
〇〇「ははっ」
奈々未「で、理由聞いたら、“恩人に助けてもらった”って」
奈々未はニヤニヤしながら〇〇を横目で見る。
奈々未「たぶん、〇〇だろうなーって」
〇〇は照れくさそうに頭をかいた。
〇〇「そんな大したことしてないよ」
奈々未「してるよ」
奈々未は即答した。
その声音は思ったより真っ直ぐだった。
奈々未「飛鳥って、意外と一人で抱え込むタイプだから。あの子がちゃんと誰かに弱音吐けたって、結構すごいことなんだよ」
その言葉に、〇〇は少しだけ真面目な顔になる。
朝の掛川駅で見た飛鳥の姿が脳裏に浮かんだ。
泣きそうな顔。
自信がないと漏らした声。
けれど最後には、前を向いて走っていった背中。
〇〇「力になれたならよかった」
〇〇がぽつりと呟くと、奈々未は優しく笑った。
奈々未「うん。すごくね」

落ち着いた雰囲気が二人の間に流れかけたその瞬間だった。
「どうするんだよ! 今からじゃ間に合わねーぞ!!」
怒号のような声が、通路の奥から響き渡った。
〇〇と奈々未は同時に足を止める。
その声には、ただの焦りではない、“現場が壊れかけている音”が混じっていた。
奈々未の表情から笑みが消える。
奈々未「なにかあった…」
そう呟くや否や、奈々未は駆け出していた。
〇〇も反射的にその背を追う。
スタッフたちが忙しなく行き交うバックヤードの空気が、一気に張り詰めているのが分かる。
誰もがインカム越しに早口で何かを叫び、走り、資料を抱えている。
ライブ前特有の慌ただしさとは違う。
明らかに“トラブル”だった。
奈々未が勢いよくドアが空いていてスタッフたちが詰め寄っている一室にたどり着いた。
そこは簡易的な本部のような部屋だった。
長机の上にはタイムテーブル、進行表、会場図。
壁際にはモニターが並び、ステージ映像や照明卓のデータが映し出されている。
だが今、その部屋を支配していたのは、機材の光ではなく、人間たちの焦燥だった。
舞台監督「曲がかからないってどういうことだよ!!」
舞台監督と思われる男が、顔を真っ赤にしながら怒鳴っていた。
額には脂汗が滲み、首元のタオルは既にぐしゃぐしゃだ。
音響監督「わ、分からないんです! さっき最終確認したら『乃木坂の詩』の音源だけが――」
音響監督らしき男が青ざめた顔で答える。
舞台監督「音源だけが何だ!!」
音響監督「壊れてるんです……!」
その一言で、部屋の空気が凍った。
〇〇は思わず奈々未を見る。
奈々未の顔色が、目に見えて変わっていた。
『乃木坂の詩』
それが乃木坂46にとってどれほど大切な曲なのか、〇〇ですら知っている。
グループの始まりを歌った曲。
ライブの最後を締めることも多い、“乃木坂そのもの”と言っていい楽曲。
まして今日は、深川麻衣の卒業コンサートだ。
その意味は、なおさら重い。
重い空気の中、一歩前へ出たのは今野だった。
努めて冷静に振る舞っているが、いつもの柔らかな表情とは違う。
眉間に深い皺が刻まれていた。
今野「かからない、とは具体的にどういうことなんだ?」
低い声。
責めるというより、状況を正確に把握しようとしている声音だった。
音響監督は唇を震わせながら答える。
音響監督「原因は不明です……。ただ……表現が難しいんですが、データ自体が壊れていて……ライブで使える状態じゃありません」
今野「バックアップは?」
音響監督「確認中です。でも今回のライブ用アレンジのデータのマスターデータもダメになってて……」
言葉が尻すぼみになっていく。
部屋の誰もが理解していた。
これは、かなりまずい。
「今から別音源で対応するとか……」
「無理だろ。照明も映像も全部この尺に合わせて組んでるんだぞ」
「乃木坂の詩だけセトリから外す……?」
舞台監督「ふざけんな!」
舞台監督が机を叩いた。
舞台監督「深川を送り出すライブだぞ!! あの曲無しで終われるわけねぇだろ!!」
怒声が響く。
スタッフたちが押し黙る。
奈々未はその光景を見つめながら、ぎゅっと拳を握っていた。
深川麻衣。
“聖母”と呼ばれ、奈々未とも仲のいいことで知られる。
誰より優しく、乃木坂を支えてきた人。
その卒業ライブが、こんな形で壊れかけている。
奈々未の胸の奥に、不安が広がっていく。
このライブは絶対に成功させなければならない。
メンバー全員が、そう思ってここまで走ってきたのだ。
「生演奏とかで対応するのは……」
誰かが、諦め混じりに呟いた。
一瞬、部屋の空気が止まる。
「今からライブ演奏できるアーティストなんて捕まるわけないだろ」
「しかも乃木坂の詩だぞ。今日合わせで弾けるレベルじゃない」
「開演まで何時間だと思ってる」
「そもそも引き受ける奴なんて――」
誰もが無理だと理解していた。
だからこそ、その場に漂っていたのは絶望だった。
ライブという巨大な生き物が、音を立てて崩れ始めている。
無慈悲な絶望。
しかし、そんななかで静かに諦めていない人物が一人だけいた。
〇〇は、その空気の中で静かに呼吸した。
胸の奥が、熱い。
怖い、という感情もあった。
当然だ。
ここにいるのは、日本最高峰のライブスタッフたち。
乃木坂46という巨大グループを支えるプロフェッショナル。
そんな人たちですら頭を抱えている問題に、自分たち大学生が口を出すなんて、普通ならあり得ない。
けれど。
〇〇の頭の中には、さっき客席から見た景色が浮かんでいた。
空っぽのアリーナ。
数時間後には、そこが光で埋まる。
そして、その中心には深川麻衣がいる。
そのライブを、壊したくない。
音楽が止まる瞬間なんて、見たくなかった。
不思議と迷いはなかった。
自分たちなら出来る。
いや――やらなくちゃダメだ。
〇〇は静かに一歩ずつ前へ出た。
奈々未「…〇〇?」
そして。
〇〇「あの」
部屋の一番後ろから、静かな声が響いた。
それだけで、場の全員が振り返る。
スタッフ。
今野。
奈々未。
無数の視線が、一斉に〇〇へ集まった。
〇〇は一瞬だけ息を吸う。
心臓がうるさいほど鳴っていた。
それでも、真っ直ぐ前を見たまま言う。
〇〇「俺たちにやらせてください」
その言葉は、騒然とした部屋の空気を、まるでナイフみたいに真っ二つに切り裂いた。
つづく
※この物語はフィクションです
※実在する人物などとは一切関係ございません。
