4 きっかけは突然に
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ロケ車の扉が開き、スタッフの呼び声が空気を震わせる。
「橋本さん、〇〇さん、入りまーす!」
撮影現場は、表参道の一角。
整えられた裏通りの歩道には、カメラマンの鬼頭をはじめ、アシスタント、レタッチャー、スタイリスト、照明……十数人のスタッフがすでに配置についていた。
まるで舞台の幕が上がる前のような、独特の張り詰めた空気。
それが肌にまとわりつき、〇〇の呼吸を浅くさせる。
目の前にあるのは、日常の景色のはずなのに、今はまるで別の世界に踏み込んでしまったようだった。
そんな〇〇の肩に、不意にずしんと重い衝撃が走る。
〇〇「……!」
振り返ると、カメラを片手にした鬼頭が、残る片手で思いきり〇〇の背中を叩いたのだった。
鬼頭「おら、肩の力を抜け!」
〇〇「は、はい!」
鬼頭「今のお前はプロのモデルなんだからな。気合入れろ!」
短い言葉に込められた熱量に、〇〇はうまく言葉を返せなかった。
奈々未「ふふっ」
横で奈々未が、肩を揺らして微笑んだ。
奈々未「肩の力を抜くのか、気合を入れるのか、どっちなんですか?」

その余裕あるツッコミに、鬼頭は鼻を鳴らす。
鬼頭「うるせぇ。細かいことはどうでもいいんだよ」
言葉とは裏腹に、そのやりとりに現場の緊張がわずかにやわらいだ気がした。
スタンバイがかかると、〇〇と奈々未は指定された位置へ移動した。
最初のシーンは、歩道でのカット。
設定は「デート中の恋人たち」。
何気ない通りを、ふたりで並んで歩くだけだ。
〇〇が位置につき、ぎこちなく奈々未の横に立ったとき、鬼頭の声がすかさず飛ぶ。
鬼頭「おい、待て待て」
鬼頭が制止する。
鬼頭「お前ら、カップルなんだぞ? 腕くらい組むだろ、普通」
その一言に、〇〇の頬が熱を帯びた。
どうしても意識してしまう――プロじゃない自分と、奈々未の距離。
しかし、何の迷いもなく、奈々未の腕がするりと伸びてきた。
〇〇の右腕に、彼女の手が自然に回される。
彼女の細くて温かい指が、シャツの袖越しに触れた。
どこか頼りなさそうな〇〇の腕を、優しく包み込むように。
〇〇「……っ」
声にならない吐息が喉の奥に沈む。
言葉を失う〇〇の横で、奈々未は変わらぬ微笑みを浮かべていた。

その笑みがまるで「大丈夫」と言っているように思えて、自然と身体が動き出す。
カメラが回り、シャッターが切られる。
歩く。
振り返る。
笑う。
見つめ合う。
どの動作にも、〇〇にはぎこちなさがつきまとう。
自分でもそれは否応なしに実感していた。
鬼頭の怒号が風に乗って飛んできて、〇〇の心に刺さる。
鬼頭「もっと自然に! 目線は前だ! あと口角、上げろ! 笑え!」
幾度となく繰り返されるテイク。
〇〇の動きはぎこちなく、表情も固い。
鬼頭の怒号に額の汗がにじむ。
だが、すぐ横で、奈々未がふっと肩を揺らす。
奈々未「深呼吸して」
誰にも聞こえないように囁かれたその一言に、〇〇はこわばった喉で、ようやく空気を飲み込んだ。
雰囲気に飲まれそうになるたびに、奈々未が耳元でそっと言葉を添えたり、小さな仕草で助け舟を出してくれる。
――どうにかなる。
そう思わせてくれる存在だった。
やがて、太陽が傾き始めたころ、最後の撮影場所であるカフェに到着した。
ふたりはテラス席に案内され、向かい合って座る。
鬼頭は、椅子の背にカメラを構えながら、言った。
鬼頭「じゃ、そこは普通に会話しててくれ。撮るから」
目の前には、湯気の立つコーヒーカップが置かれていた。
本物の香りが立ちのぼり、ほんのわずか現実に引き戻される。
奈々未「……どう? 初めてのモデルは」

奈々未が問いかける。
湯気の向こう、軽く首を傾げながら。
〇〇「……もう、アップアップだよ」
言葉にすると、どこか滑稽に響いた。
だがそれが、今の自分のありのままでもあった。
奈々未「でもね、ちゃんとできてると思うよ」
奈々未の声は真っ直ぐだった。
その言葉に、〇〇は少しだけ目を伏せる。
〇〇「……奈々未のフォローのおかげだよ。本当に、すごいと思う」
そう言うと、奈々未は頬杖をつき、ふっと声を落とした。
奈々未「いいこと、教えてあげる」
瞳の奥に、ほんの少しの影が揺れる。
奈々未「鬼頭さんってね、絶対妥協しない人なの。前にね、別のモデルさんがずっとOKもらえなくて、泣いて逃げ出したって話があるくらい」
そう言いながら、彼女の表情はどこか遠くを見ていた。
奈々未「だから――。今日、初めてでここまで来れたって、すごいことなんだよ。もっと、自信持って」
その言葉は、飾り気がなく、それでいて真っ直ぐだった。
〇〇は、思わず彼女を見つめた。
たった一日で、どれだけのことが変わっただろう。
見知らぬ世界。
見知らぬ人。
けれど今、確かにこの時間だけは、同じ目線で隣り合っている。
――気がつくと最後のシャッター音が静かに鳴った。
鬼頭「よし、OK!」
鬼頭の声が響く。
それは、ようやく訪れた終わりの合図だった。
「オールアップです!」
スタッフのひとりが声を上げると、次の瞬間、現場にふわりと安堵の空気が広がった。
誰からともなく起きた拍手の波が、次第に大きくなってゆく。
レンズの向こうで走り抜けた数時間の緊張が、ようやくほどけていく。
「お疲れさまでしたー!」
「最高でしたよ!」
その拍手と歓声の中心にいたのは、間違いなく〇〇だった。
撮影が始まる前、誰もが半信半疑だった。
飛び込みの素人が、本当に現場でやれるのか。
だが、〇〇の真剣な眼差しと、まっすぐな姿勢、そして場の空気を読む柔らかさは、あっという間にスタッフたちの懸念を打ち砕いた。
「ねえ、彼、ほんとに素人なの?」
「普通に、もうちょっと撮ったら雑誌の表紙、ぜんぜんいけるでしょ」
「いやー、今日はマジで助かったわ」
そんな声が、現場のあちこちで交わされていた。
撮影終了後、藤元の指示でいくつかの書類にサインし、今後の連絡についてスタッフと打ち合わせを済ませると、ようやく〇〇はひと息つけた。
しんと静まり返った表参道の裏手、小さな木々が立ち並ぶ雰囲気のいい公園に足を運び、誰もいないベンチに腰を下ろした。
街の喧騒が遠ざかっていく。
さっきまで耳に残っていたシャッター音やスタッフの指示が、夢のようにぼやけていく。
〇〇は、額にかいた汗を袖でぬぐい、小さく息をついた。
すると突然、頬にピトリと冷たい感触が触れた。
〇〇「うわっ……!」
驚いて顔をあげると、そこにはテイクアウトカップを両手に持った奈々未が立っていた。
奈々未「お疲れさま」
そう言って、ひとつのカップを差し出し、自然な仕草で隣に腰を下ろす。
先ほどまでの"恋人"の名残だろうか、肩と肩がふれそうでふれない距離。
それはすでに他人行儀な距離感ではなかった。
奈々未「改めて、どうだった?」
彼女がやわらかな声で問いかける。
〇〇はしばらく黙って、手の中のコーヒーを見つめていたが、やがて、ふっと口角を上げた。
〇〇「さっきよりは、少しだけできるようになった気がする。……最後は、楽しめたよ。奈々未のおかげで」
その笑顔は、どこまでも素直で、屈託がなかった。
奈々未はその表情に、胸の奥がふっと熱くなるのを感じた。
奈々未「〇〇も、このままモデルになっちゃえばいいのに」
冗談めかして言ったつもりだった。
胸の奥のドキドキを誤魔化したかったから。
だが、声の奥に小さな本音が混じってしまったのかもしれない。
〇〇は笑いながら首をすくめた。
〇〇「俺なんかじゃ荷が重いよ。それに、奈々未がいないと緊張して動けなくなるし」
冗談ぽく笑いながら言う〇〇。
それを聞いた奈々未は、軽く息を吐くように笑ったあと、少しだけ真剣な目を向けた。
奈々未「じゃあさ、いつか本当に〇〇がまたモデルやるときは……私と共演してよ」

〇〇は、その目をまっすぐに見返した。
〇〇「…うん。約束するよ」
そう言って微笑んだ〇〇の顔に、奈々未はまたしても心を揺らされた。
ふたりのあいだに言葉がなくなっても、沈黙が気まずくなることはなかった。
季節外れの風が木々を揺らし、葉の影がふたりの肩をすべっていく。
やわらかな笑い声だけが、その場に残された。
そのすべてを、草葉の陰からじっと見つめる人影があった。
低く構えた一眼レフのファインダーを覗く鬼頭は、静かにシャッターを切っていく。
その姿ははたから見れば、まるで盗撮犯そのものだ。
藤元「……盗撮は感心しないな」
いつの間にか背後に立っていた藤元が、低く呟いた。
だが鬼頭は悪びれる様子もなく、無言でカメラの背面モニターを藤元に向けて見せる。
そこには、肩を寄せ合うふたりが笑い合う〇〇と奈々未の、奇跡のような一瞬が写し出されていた。
まるで本物のような恋人同士の自然体な姿。
それ以上でも以下でもない、ただそこに在るべきものとしての完成された絵。
これまで数え切れないショットを見てきた藤元が、思わず息をのむ。
藤元「これは……」
鬼頭「な?」
鬼頭が自慢げに笑う。
鬼頭「こんないい画、見逃せるかよ」
そう言ってカメラをひょいと取り返すと、再び茂みの隙間から、ふたりの方へとレンズを向ける。
藤元も一瞬だけ迷ったふうな顔を見せたが、すぐに目を細めながら、鬼頭と同じように茂みに身体を隠しながら言った。
藤元「……鬼頭。もっとこっちの角度からも、撮っていこう」
藤元も参加しての撮影は続いていく。
ふたりの目線の先には、まだ夢のように笑い合う〇〇と奈々未の時間が静かに続いていた。
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あの日の撮影から、いくばくかの時間が過ぎた頃。
街の書店やコンビニの棚に並ぶ最新号のCanCam。
その表紙には、表参道の無もなき公園で仲睦まじく寄り添う〇〇と奈々未の姿が大きく印刷されていた。
木漏れ日の光を受けて微笑む奈々未と、その隣に並ぶ〇〇。
それは、鬼頭が最後に密かに切り取ったあの一枚。
あの日の撮影が終わったあと、公園のベンチで自然に交わされた笑みと、肩先のささやかな触れ合い。
それは作為を超えた、奇跡のような瞬間だった。
発売してから、SNSは騒然と話題になった。
《CanCamの表紙、誰あの男の子……?》
《ななみんとのカップル感、リアルすぎてやばい》
《モデルっていうか、存在感がすごい……!》
特集ページには、表紙の一枚のほかにも、二人が街を歩くカットや、カフェで視線を交わすシーンなど、息を呑むような写真が並んでいた。
〇〇の名前も、誌面にはしっかりと記されていた。
だが、所属している芸能事務所の名はどこにもない。
それがさらに話題を盛り上げていった。
「誰なんだ?」
「どこの事務所?」
「素人……? 嘘でしょ?」
その“無所属の新人”の存在は、瞬く間に業界の注目を浴びることになる。
そして、その話は当然のように、ある事務所にも届いていた。
会議室の窓から、日の光が差し込む。
秋元康は、机の上に置かれたCanCamの表紙に指をすべらせた。
秋元「……まさか、アーティストデビューより先にCanCamでモデルデビューしてしまうとはね」
その声には驚きと、ほんの少しの愉悦が滲んでいた。
秋元「まだどこかの事務所と契約したというわけではないんだね?」
秋元の問いに、今野義雄が手元の資料を確認しながら頷く。
今野「はい、まだどこの芸能事務所にも所属していません。それは確認済みです。ただ……CanCam編集長の藤元さんからは、すでに専属契約したいとの打診が来ているようでして。さらに鬼頭監督も、“ぜひ次回作で使いたい”と強く希望されているそうです」
今野の言葉を聞くと、秋元は「そうか……」と小さく呟いたあと、ゆっくりと立ち上がる。
秋元「やっぱり、〇〇くんの才能は隠しきれないな」
その目は、何かを確信するように静かに輝いていた。
秋元「今野くん、〇〇くんたちの件――最優先で進めよう。迷う時間はない」
今野「はい」
即答する今野。
二人の間に交わされた言葉はそれだけだったが、部屋の空気が一段と張りつめるのを感じた。
静かに始まりつつあった“物語”は、いよいよ本格的に動き出そうとしていた。
それは、ひとつの時代の端緒でもあり、〇〇たちが思いもしなかった運命の扉の音でもあった。
つづく
※この物語はフィクションです。
※実在する人物などとは一切関係ございません。
