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国民は、いま見えないシェルターの中にいる――危機管理が成功すると、危機は見えなくなる

国民は、いま自分たちが「見えないシェルター」の中にいることを、もっと認識した方がよい。

ホルムズ海峡が緊迫し、米国とイランの関係が揺れ、中東情勢が不安定化している。
その影響は、原油価格、石油製品、ナフサ、物流、物価、為替、企業収益、財政にまで広がり得る。

これは、遠い国の戦争や外交ニュースではない。
日本のガソリン価格、軽油価格、灯油価格、物流費、食品価格、日用品価格、中小企業の経営、地方経済、家計に直結する問題である。

にもかかわらず、多くの国民は、いまの状況を本当の危機としては認識していないのではないか。

もちろん、生活が楽だと言っているのではない。
ガソリンは高い。
灯油も高い。
物価も高い。
家計は苦しい。
中小企業も楽ではない。

それは事実である。

しかし、それでもなお、物流が止まっているわけではない。
店頭から商品が消えているわけではない。
燃料が一気に暴騰して、産業活動が急停止しているわけでもない。
農業、漁業、建設、製造、小売、航空、物流が連鎖的に崩れているわけでもない。

だから多くの人は、こう感じる。

「たしかに高いけれど、そこまで危機なのか」
「補助金を出し続ける必要があるのか」
「財政は大丈夫なのか」
「政府は人気取りをしているだけではないのか」

その感覚は、一般国民としてはある意味で仕方がない。
普通の人は、日々の生活で忙しい。
国際エネルギー市場、ホルムズ海峡、日米交渉、備蓄政策、ナフサ、LNG、原油調達、為替、財政出動まで、すべてを追いかけることはできない。

しかし、ここに大きな落とし穴がある。

危機管理がうまくいくと、危機は見えなくなる。
危機が見えないからといって、危機が存在しなかったわけではない。
政策によって、危機の衝撃が吸収されている可能性がある。

いま国民が平常に近い生活を続けられているのは、危機が小さいからではなく、危機の衝撃が政策によって和らげられているからかもしれない。

つまり国民はいま、外の嵐を直接浴びているのではない。
見えないシェルターの中にいる。

この認識が必要である。

もちろん、シェルターの中にいれば不満がなくなるわけではない。
暑い、狭い、不便だ、費用がかかる、いつまで入っているのか分からない。
そういう不満は出る。

だが、そこで忘れてはいけない。
シェルターは、外が平穏だから存在しているのではない。
外に危険があるから存在しているのである。

いまの燃料価格対策、備蓄活用、日米連携、円安の速度管理、財政出動も同じである。
それらは、平常時の人気取り政策ではない。
外部ショックから国内経済と国民生活を守るためのシェルターである。

ここを見落とすと、政策評価は根本から間違う。

石油価格対策を「ばらまき」と呼ぶ人がいる。
燃料補助を「場当たり」と批判する人がいる。
円安を「政府の失敗」とだけ見る人がいる。
財政出動を「将来世代へのツケ」とだけ言う人がいる。

もちろん、財政負担を問うことは必要である。
出口戦略も必要である。
補助が末端価格にきちんと届いているかも検証すべきである。
円安の副作用も無視してはいけない。

しかし、それらを問う前に、まず見なければならないことがある。

いまは平常時なのか。
それとも、危機の衝撃を政策で抑え込んでいる状態なのか。

もし後者なら、平常時の物差しだけで批判することはできない。

石油は、単なるガソリンの問題ではない。
車に乗る人だけの問題でもない。

石油は経済の血液である。

軽油が上がれば、トラック輸送に響く。
物流費が上がれば、食品にも日用品にも響く。
灯油が上がれば、家庭や施設に響く。
重油が上がれば、工場や船舶に響く。
航空燃料が上がれば、人流や物流に響く。
ナフサが上がれば、プラスチック、包装材、建材、農業資材、医療資材、生活用品にまで響く。

つまり、石油価格対策は「車利用者への補助」ではない。
地方対策であり、物流対策であり、物価対策であり、中小企業対策であり、産業基盤対策である。

それを「ガソリンが高いか安いか」だけで語るのは、あまりに狭い。

「経済を回せ」と言っていた人たちは、この点を忘れてはいけない。

経済は精神論では回らない。
燃料がなければ物流は動かない。
物流が動かなければ、商品は届かない。
商品が届かなければ、小売も外食も製造も動かない。
農業も漁業も建設も、エネルギーなしには動かない。

経済を回すということは、経済の燃料を守るということである。

それなのに、いざ政府が燃料価格の急騰を抑えようとすると、「ばらまきだ」と批判する。
これは矛盾している。

もちろん、補助金は永遠に続けるものではない。
出口は必要である。
財源も必要である。
制度設計も問われるべきである。

しかし、ホルムズ海峡が緊迫し、中東情勢が不安定化している局面で、石油価格への波及を放置すればどうなるか。
軽油価格が上がる。
物流費が上がる。
食品価格が上がる。
建設費が上がる。
農業、漁業、中小企業が傷む。
消費が冷える。
賃上げの流れも弱まる。
企業収益が落ちる。
税収にも響く。

そして結局、後からさらに大きな財政出動が必要になる。

経済は自動車と同じである。
一度エンジンを止めてしまえば、再び走り出すには大きな起爆剤が必要になる。
それなら、多少の燃料を使ってでも、エンジンを止めない方がよい。

いま政府がやっていることは、まさにそれである。

燃料価格をならす。
物流と生活への急激な衝撃を抑える。
財政を使って、経済のエンジン停止を避ける。
中東リスクの間に、外交と供給構造の再設計を進める。

これは、単なるばらまきではない。
エンジンを止めないための危機管理である。

さらに、円安についても同じである。

円安には痛みがある。
輸入物価は上がる。
燃料価格も上がる。
食料品価格にも響く。
生活者には厳しい。

だからこそ、燃料油対策や物価対策が必要になる。

しかし、円安は痛みだけではない。
輸出企業の採算を支える。
海外売上の円換算収益を押し上げる。
企業収益が増えれば、法人税収、賃上げ、設備投資の余地も生まれる。
インバウンドにも追い風になる。
国内回帰投資にもつながり得る。

つまり円安は、危険な副作用を持ちながらも、政策上の道具でもある。

政府が本当に望んでいるのは、円安そのものではなく、円安の速度管理ではないか。
急激な円安は困る。
しかし、急激な円高も困る。
輸入物価の痛みは補助や対策でならしつつ、円安がもたらす企業収益、投資、税収への効果は使う。
その間に、エネルギー調達と供給構造を組み替える。

そう考えれば、「円安だから失敗」と単純には言えない。

問題は、円安か円高かではない。
円安の副作用をどう抑え、円安の利点をどう経済循環につなげるかである。

そして、その背景には日米関係がある。

私は、政府が何の出口戦略もなく石油価格対策を続けているとは思わない。
高市総理はトランプ大統領と頻繁に意思疎通を重ねている。
そこでは当然、ホルムズ海峡の航行安全、中東情勢、エネルギーの安定供給、米国産エネルギー、重要鉱物、経済安全保障、対米投資などが一体で議論されているはずである。

つまり、いまの燃料価格対策は、単なる国内補助金ではない。

短期では、燃料価格の急騰を抑える。
中期では、米国産原油やLNGを含むエネルギー調達の分散を進める。
長期では、中東依存を少しずつ下げ、供給構造を強くする。

そのための時間を稼いでいる。

これは、出口のない政策ではない。
危機の中で橋を架ける政策である。

批判するなら、この橋の強度を問えばよい。
どれだけの期間もつのか。
財政負担はどこまで許容できるのか。
補助はどの段階で縮小するのか。
米国産エネルギー調達はどこまで現実的なのか。
中東依存をどの程度下げられるのか。
円安の副作用をどう抑えるのか。

それが本来の政策批判である。

しかし、いまの一部メディアや専門家らしき人々の発言は、そこまで行かない。

「ばらまき」
「場当たり」
「円安の失敗」
「財政が心配」
「政府の対応が問われる」

こうした言葉は、テレビでは使いやすい。
短く、強く、分かりやすい。
不安を煽りやすい。
政権批判にも接続しやすい。

しかし、それで現実を説明できているのか。

本当に必要なのは、政権を褒める専門家でも、政権を叩く専門家でもない。
危機の構造を分解し、政策の効いている部分と限界を正確に示す専門家である。

高橋洋一氏以外の専門家らしき人々の多くが、かなり的外れな見識を語っているように見えるのは、このためである。
もちろん、全員がそうだとは言わない。
個別に「テレビに出たいから炎上を狙っている」と断定するつもりもない。

しかし、テレビやネット番組では、冷静な構造分析よりも、強い言い切り、怒り、不安、政権批判の方が使われやすい。
炎上しやすいコメント、切り取りやすいコメント、政権批判に接続しやすいコメントが重宝される構造がある。

そして専門家も、その構造に合わせてしまう。

複雑な政策構造を分解するより、番組で使いやすい単語を並べる。
本来なら「危機管理として効いている部分」と「今後問うべき課題」を分けるべきなのに、すぐに「ばらまき」「失敗」「財政危機」と言ってしまう。

それは専門的見識というより、メディア消費されやすい見識である。

ここで改めて考えるべきなのは、危機管理の逆説である。

危機管理が失敗すれば、誰でも危機だと分かる。
燃料価格が暴騰し、物流が混乱し、食品価格が跳ね上がり、企業が悲鳴を上げ、店頭から商品が消えれば、誰でも「これは危機だ」と言う。

しかし、危機管理が成功すれば、危機は見えにくくなる。
燃料価格がある程度抑えられ、物流が動き、商品が届き、企業活動が続けば、人々は「危機は起きていない」と感じる。

しかし、それは危機がなかったからではない。
危機が吸収されているからである。

シェルターの中にいる人は、外の嵐を直接浴びない。
だから、外がどれほど荒れているか実感しにくい。
しかし、それは嵐がないという意味ではない。
シェルターが機能しているという意味である。

国民はいま、この状態に近い。

そして、ここで重要なのは、前回の衆議院選挙で国民がどのような選択をしたかである。

選挙は、単に政党や人物を選ぶだけではない。
危機の時に、どのような国家運営を選ぶかでもある。

前回の衆議院選挙で国民は、政策転換と危機対応を担う政権を選んだ。
その結果として、いま国民は、外部ショックから一定程度守られている可能性がある。

もちろん、選挙は白紙委任ではない。
一度選んだからといって、政府のすべての政策が無条件に正当化されるわけではない。
批判は必要である。
検証も必要である。
財政負担、出口戦略、補助の効果、円安の副作用は当然問われるべきである。

しかし、少なくとも言えることがある。

国民は前回の選挙で、いまの危機管理を可能にする政治を選んだ。
そして今、その選択によって、見えないシェルターの中にいる可能性がある。

もし違う選択をしていたら、どうなっていたか。

もし危機の構造をつかめない政権だったら。
もし日米首脳間の意思疎通が弱かったら。
もし燃料価格対策が遅れていたら。
もし財政規律論ばかりが前面に出て、経済のエンジンを止めていたら。
もし石油を単なるガソリン代の問題としてしか見られない政治だったら。

国民は今よりはるかに大きな痛みを受けていたかもしれない。

石破氏や岸田氏だったら必ず失敗した、と断定するつもりはない。
しかし、もしこの局面で、従来型の調整政治や財政規律論が前面に出ていたら、対応はかなり鈍くなっていた可能性がある。
中東危機は待ってくれない。
燃料価格も物流も、政治の調整を待ってはくれない。

この局面で必要なのは、評論家的な慎重さではない。
すべての関係者にいい顔をする調整力でもない。
危機の構造をつかみ、優先順位を決め、短期の痛みを財政でならしながら、中長期の出口を外交と供給構造で作る政治判断である。

そう考えると、今回の危機管理はかなり良くできている部類だと思う。

政権発足当初、米国とイランの関係は現在のような緊迫状態にはなかった。
ホルムズ海峡の航行安全が、ここまで日本経済の中心課題になることを、最初から前提にできたわけではない。

つまり、これは政権が最初から予定していた平時の政策ではなく、後から発生した外部ショックへの対応である。

その外部ショックに対して、政府は石油備蓄、燃料価格対策、エネルギー供給の確認、日米首脳間の意思疎通、円安の速度管理、財政出動を組み合わせている。

これは無策ではない。
むしろ、安全保障、エネルギー、経済を一体で見る危機管理である。

国民は、このことをもっと認識した方がよい。

「ガソリンが高い」
「物価が高い」
「補助金はいつまで続くのか」

そう感じるのは当然である。
だが同時に、もう一段深く考える必要がある。

もしこの対策がなかったら、いくらになっていたのか。
もし備蓄や補助や日米連携がなかったら、物流はどうなっていたのか。
もし経済のエンジンを止めていたら、後からどれだけ大きな財政出動が必要になっていたのか。
もし円安の痛みだけを見て、円安の利点を政策に接続できなかったら、企業収益や税収や賃上げはどうなっていたのか。

危機管理の成果は、しばしば「何も起きなかった」という形で現れる。
しかし、「何も起きなかった」ことは、「何もしなくてよかった」という意味ではない。
むしろ、手を打ったからこそ、何も起きていないように見えているのかもしれない。

ここを説明するのが、本来のメディアと専門家の役割である。

国民がシェルターの中にいて、外の嵐を実感しにくいのは仕方がない。
だからこそ、報道と専門家は、シェルターの中で不満を煽るのではなく、外で何が起きているのかを説明しなければならない。
なぜ今このシェルターが必要なのか。
どれほどの衝撃が抑えられているのか。
いつ、どのように外へ出るのか。
そのために何が課題なのか。

これを語るべきである。

ところが、メディアや専門家らしき人々まで、シェルターの中の感覚だけで語っているように見える。

「そこまで危機なのか」
「補助は過剰ではないか」
「財政が心配だ」
「政府の対応が問われる」

もちろん、それらは問いとしては必要である。
しかし、外の嵐を説明せずに、シェルターの維持費だけを批判するなら、それは危機管理の全体像を見落としている。

シェルターにはコストがかかる。
しかし、シェルターを作らずに嵐を直接浴びた場合の損害は、もっと大きいかもしれない。

その比較をしなければ、政策批判にはならない。

いま問われているのは、政府だけではない。
国民の側も、メディアの側も、専門家の側も問われている。

国民は、自分たちが守られている可能性を認識できるか。
メディアは、危機管理の見えにくい成果を説明できるか。
専門家は、肩書きではなく構造で語れるか。
批判者は、好き嫌いではなく政策の機能で評価できるか。

この局面で、本当に恐ろしいのは、燃料補助を出す政府ではない。
本当に恐ろしいのは、ホルムズ海峡が緊迫し、米国とイランの関係が揺れ、石油価格が経済全体に波及しようとしている時に、それを単なるガソリン代や補助金の問題としてしか見られない政治、報道、専門家である。

石油は経済の血液である。
円安は痛みを伴うが、政策上の道具にもなる。
財政出動は負担だが、エンジン停止を避けるための保険でもある。
外交は遠い話ではなく、国内の燃料価格と生活に直結している。

この全体を見なければ、いまの政策は理解できない。

「経済を回せ」と言うなら、経済の燃料を軽視してはいけない。
「財政が心配だ」と言うなら、経済のエンジンを止めた後に必要になる、さらに大きな財政負担も考えなければならない。
「政府の対応が問われる」と言うなら、政府が何をしているのか、何が効いているのか、何が足りないのかを分けて論じなければならない。

そして国民は、前回の選挙で自分たちが何を選んだのかを考えるべきである。
危機の時に、どのような国家運営を選ぶのか。
平常時の不満だけでなく、外部ショックにどう耐える政治を選ぶのか。
その選択が、いま自分たちをどのように守っているのか。

民主主義とは、選んだら終わりではない。
選んだ結果が、どのように現実の危機対応に現れているのかを見届けることでもある。

いま国民は、見えないシェルターの中にいる。
その中で不満を言うことはできる。
費用を問うこともできる。
出口を求めることもできる。
それは当然である。

しかし、シェルターの存在そのものを「無駄だ」と言う前に、外の嵐を見なければならない。

危機管理が成功すると、危機は見えなくなる。
だからこそ、見えない危機を想像する力が必要である。
そして、見えないところで何が守られているのかを考える力が必要である。

いま日本に必要なのは、反応ではない。
構造を見る力である。
不満を叫ぶことではない。
守られているものを認識し、その上で限界と出口を問う冷静さである。

国民は、いま自分たちがシェルター状態で守られていることを、もっと認識した方がよい。
そして、前回の衆議院選挙で自分たちが選んだ政治が、今この危機の中で、生活と経済を守る防波堤になっている可能性を考えた方がよい。

それを理解したうえで、なお批判すべきところは批判すればよい。
出口を問えばよい。
財源を問えばよい。
円安の副作用を問えばよい。
補助の効果を問えばよい。

だが、まずは認識すべきである。

私たちは、何も起きていない平常時にいるのではない。
外の嵐を、政策というシェルターによって直接浴びずに済んでいるのかもしれない。

この違いを見失ってはいけない。

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