障害の美学モデルに触れた日――難波優輝×伊藤亜紗トークイベント「「ふつうの身体」はどこにあるのか?」
先日、代官山蔦屋書店で開催された『批判的日常美学について』(晶文社)刊行記念 難波優輝×伊藤亜紗トークイベント「「ふつうの身体」はどこにあるのか?」に行ってきました。
ともに美学者である難波優輝さんと伊藤亜紗さん。
アプローチが異なっているようで深く響き合っているお二人のお話に、新しい視点を得た一夜の覚え書きです。
カウンタータイプな難波さん、ハーメルンタイプな伊藤さん
難波さんが出版された『批判的日常美学について』(晶文社)は、美的な問題(個人の趣味や感性の問題)だったものがいつの間にか、「~すべき、~が正しい」というような規範になってしまっていることについて、それって変じゃない?と突っ込んでいるような一冊だそうです。
今の社会で「ふつう」とされている制度に対しても、対抗軸となるような提案をどんどんされている難波さん。社会の制度に反抗するカウンターでありたいそうです。
それに対して、様々な障害や病気の当事者にインタビューをされている伊藤さん。最近も、11人の方それぞれへのインタビューを基に『体の居場所をつくる』(朝日出版社)を出版されています。
伊藤さんは「誘惑はしたいけれども、カウンターではありたくない」のだそうです。いつの間にか社会で当たり前とされている価値観とは違うところに辿り着いていたり、オルタナティブな価値を示したりするのが良いとのこと。ハーメルンの笛吹きタイプだそうです。
伊藤さんがカウンタータイプでありたくない理由は、社会を主語にしてしまうと、ひとりひとりの身体や体験が客体化されて「社会に抑圧されている人」になってしまうから、とのこと。
伊藤さんが述べられていたように「障害は医療で治すもの」という「障害の医療モデル」に対して「障害の社会モデル」という考え方があり、権利擁護や環境整備が進んできましたが、当事者が固定化されたイメージで捉えられてしまう危険性もあるのか、と気付かされました。
医療モデルとも社会モデルとも違う、美学モデル
権利擁護や環境整備は誰にでも当てはまる、人と人が出会うための大前提なのかな、と私個人は思います。
そのうえで、これからはこうあったらいいな、という形でお二人が話されたのが、障害を味わう「障害の美学モデル」(難波さん命名)。
難波さんの「完全に健常な人間なんてどこにもいない訳だから、全員が全員ある種の障害を持っているから、障害をとくと味わうことができたら」との言葉がとても印象に残りました。
私自身、「ひとりひとり違うのが当たり前」の感覚があったなかで、なにより違和感を持っていたのがこの「健常」という言葉で、言葉が実態からかけ離れているような気がしてとても怖かったのです。
実際は、私たちの身体はひとりひとり異なっていて、実感も異なっていて、へんてこなんだよな、とお話を伺って改めて思いました。
そのへんてこさを感じて味わう「障害の美学モデル」が広がってゆくといいな、と思います。
魅力にSurrender(降伏)するとは
ひとりひとり異なる身体、障害や病気を味わおうとするとき、「あなたと私、こんなに異なっていたんだね」と、今までの考え方の枠組みが壊れるような体験が待っているかもしれません。
伊藤さんによると、今までの枠組みが壊されながらも強く何かに惹きつけられ、魅力を感じることを、哲学者のジョン・デューイは対象に「Surrender(降伏)する」と述べているそうです。
枠組みを知って、知識を増やして、卓越してゆくほうに意識が向きがちだけれど、全然ピンとこないもの、知らないものに飛び込んでいって、良くも悪くも知ろうとすることで、お互いにSurrenderし合うことが美学の喜びじゃないか、と語る難波さん。
Surrenderとは衝撃的な言葉でしたが、一時は自分自身のことがよくわからなくなりながらも「障害ともずっと付き合ってゆくんだからこれでいい」と思った私自身の感覚と近しい気がしました。
美学のことは何もわからないながら、「あれ?私が身体を通して考えてきたことって美学的なことだったのかな」と衝撃を受け、惹きつけられて今もぐるぐる考えてしまう、そんな新鮮な一夜でした(Surrenderの感覚を味わっています)。
イベントを終えて
お話を伺ったうえでお二人の近著を再読すると、
凝り固まった規範から外れてみる、いつの間にか外れている
身体の感覚を取り戻す、感じる、味わう
特にこの点で双子のように響き合う二冊だな、と感じます。
今回の記事だけでは書き足りなかったので、次回からもしばらく『批判的日常美学について』と『体の居場所をつくる』から日常と身体の関係性について考える記事を書きます。次回は『批判的日常美学について』を中心に、一緒に考えてみましょう。
