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弱さと生きること――『批判的日常美学について』から考える日常と身体

前回は、代官山蔦屋書店で行われた難波優輝さんと伊藤亜紗さんのトークイベント「「ふつうの身体」はどこにあるのか?」についてご紹介しました。
前回の記事はこちらです。

まだまだ書きたい!ということで、今回は難波優輝さんの『批判的日常美学について』から日常と身体について考えたことをまとめたいと思います。

改めて批判的日常美学とは

皆さんは批判的日常美学と聞いたら、どんなものだと思いますか?
私はトークイベント前、「日常のなかで何を美しいと感じるのか…?批判的ってどういうことだろう…」と不思議に思っていました。
そこから本を開いて衝撃を受けることになります。

私たちが生活スタイルを作り上げるとき、私たちが一人ひとりの生活者として、どのような生活スタイルを作り上げるかを美的なあるいは道徳的なプレッシャーなしに選んでいってよいという態度を私は提案する。暮らしを非­­­­­­美化すること。私たち一人ひとりにとっての「ふつうの暮らし」を様々な美化から守るべきだと私は考える。そのために私は美学者として、Vlogを用いた暮らしの美化に批判を加えていきたいと思う。

『批判的日常美学について』序章 来たるべき「ふつうの暮らし」を求めて

美学という言葉から連想していたのとは、真逆のことが書いてありました。
そう、暮らしとは丁寧で秩序だったものであるべき、ちゃんとしなければならないという理想に対して、私たちがそう考えてしまう背景や社会の仕組みに言及しながら、「それはおかしい」「そうじゃなくてもいい」と主張するのが批判的日常美学なのです。

暮らしも身体も、すべてをコントロールする、という理想

無駄がなくて、綺麗で、自分のお気に入りのものたちに囲まれている部屋で暮らす。適度な運動やダイエットにも効果的なレシピで身体に気を使いながら美味しいものを食べる。いつもポジティブでいる…YouTubeなどで紹介される「丁寧な暮らし」自体はとても素敵だけれど、その背後には「コントロールしている実感」を求める美的感覚と、「頑張ればうまくいく」という自己責任論が潜んでいることが第8章「新しい快楽主義者たち――猫と廃墟とアナキズム」で指摘されています。

頑張って自分をコントロールしつつ、生活を理想に近づけてゆくことができればもちろん素晴らしいですが、問題はうまくいかなかったときです。
「ここまでできたからまあいいよね」と考えるのではなく、焦ったり、自分を責めてしまうのはどうしてでしょうか。

弱さに対する誤解

「ちゃんとしていない」と非難されることが怖いとき、本当に恐れているのは「自分が弱い存在である」と自分自身で認めることなのかもしれません。
でも、知らず知らずのうちに誰かと関わり、頼り合っていて、それが当たり前になっているのが人間という生き物なのかな、と思います。

たまたま私たち人類にとって食が重要だから、自炊がさも重要なもののように見せかけられているに過ぎない。服も大事だけれど「自服」する人はあまりいないし、住居は大事なのに「自建」する人もほぼいない。

『批判的日常美学について』第1章 自炊と恥――料理道徳から距離をとる 

人間がひとりでやっていることは、実はすごく限られている。
それに人間の脳はいちばん大切な部分なのに熱にも弱いし、血流が途絶えたらすぐ意識を失ってしまう。生物としてもそんなに強くないのが人間なのかもと思えたとき、次の言葉もすんなり入ってくるかもしれません。

自分の弱さをアイデンティティにしないこと、これが重要だ。私たちは当たり前に弱いということを理解すること。それはアイデンティティでも何でもなく、私たちが、例えば、生者である、というのと同じ意味で普遍的でありふれていてつまらない特徴であることだと認識すること。

『批判的日常美学について』第10章 抑圧に感謝する――奴隷根性と弱さの美学

もっと私たちは当たり前に弱い、ということを語り合うためにも、前回の記事で書いた、障害や病気、自分自身の弱さも含めて味わう「障害の美学モデル」が必要なのだと思います。

身体があるということと、感じること

生きていることは、美的経験をする前提条件になっている。同時に、生きているあいだじゅうずっと私たちは何らかの美的経験をしている。生きることは美的経験することである。

『批判的日常美学について』第11章  夕焼けと電流――生誕した私たちの美的義務について

弱さも含めて味わうためには、身体の存在が欠かせません。
生きて身体があるからこそ感じられるものがある、身体全体で味わう感覚がある、というのはトークイベントの時も話題になっていて、本当にそのとおりだな、と思うのです。

そしてこの感じること、というのは本人にしかわからないものであると同時に、時間の経過やその時の状況によって変化してゆくものだと思います。
「絶対」がないのがこの感じる、ということかもしれません。

次回は、身体と感じることの関係について、伊藤亜紗さんの『体の居場所をつくる』から考えたいと思います。


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