僕は君の本名を知らない(下)停滞・ゲーム
蝉の、まさに抜け殻のようで、翌日の仕事は集中できなかった。様子がおかしい、体調不良では、と同僚に心配される。
強いショックを受けて、およそ20年にも及ぶ片想いに終止符を打った。とは言えず休憩に入り、スマートフォンを取り出すとひたすら幼馴染の写真をデータフォルダから削除し、脳裏を去来する記憶と感情までは消えなくて弱り果て、萌絵に助けを求める。
厳しい残暑の如く纏わり付いた、鬱陶しさと諸々。遠回しにフラれる訳で今更、絶望感に襲われた。
諦めなければ叶う筈だった。しかし、相手には〈元カレが二桁〉いる。つまり常に恋をして、自分は対象にすら、ならなかった。
何とも耐え難く、SNSのフォローを解除する。
画面に指を滑らせ、友人らの投稿に目を通す。と、珍しく早いダイレクトメッセージの返信を見て、涙腺が緩む。今夜は例の居酒屋ではなく、こちらのリクエストに応える。
そんな、優しくされたら、俺、また萌絵に甘えて、……いいの?
自宅付近の昼間はカフェとして営業するバーを選んだ。
女性客が多く、御伽話に出てくるような可愛らしい雰囲気の店で、いずれはデートに誘いたかった。
「梅田の夢が詰まってんだね。」
綺麗めなカーディガンと揺れる裾のスカートが普段と違うが、偶々この場に相応しく、花を添える。
会社から直行した為に、着替える余裕がなかった。来月25歳を迎えて、あの近所に住んでいる、など、人の話を聞きたがり、自らについては語らない萌絵があれこれ喋る。
何故ならば、こちらが両手で顔を覆ったままだから、だろう。本当のところ複雑な心境、傷を癒して立ち直るべく誰かの代わりにしよう、とはとても、友情を大切にしたかった。失うかも知れない恐怖が、思い起こされる。彼女と、どうなりたい?
確かに好きでその点は認めるけれども、種類や軽重が、更にあちらの考えは?
お手上げ状態で、ぼそっと訊ねた。
「こんな時、側に居てくれんのなんで?」
萌絵がカクテルを飲み干した途端にようやく向き合うと、言葉が堰を切る。
「ただでさえ、こないだ手出しかけたのに。カッコ悪くて揶揄えるから、所詮。つーか、俺とはあそこでしか会わないんじゃなかったのかよ。あー!クソっ、口説くつもりはねえ、でも、やっぱ期待しちゃうんだわ。」
前回同様、醜態を演じるばかりか騒いでしまい、せっかくのムードが台無しになった。
されど本日はまだ素面である。いっそのこと覚悟を決めて、真っ直ぐ見つめた。暫し、呆気に取られた彼女が表情を解き、屈託のない笑顔で返す。
「バーカ。」
一瞬のうちに魅了される。どうしようもなく、愛おしい。
以降は静かに酒を呑みながら会話した。
「ゲームでさ。こう、人生を、イベントとして?進めてくみたいな。シミュレーション。色んなのあって、就職・結婚・持ち家の流れとか、当たり前じゃないし、子供の頃は楽しく遊んでたけど、現実にはみんなができるかも分かんなくて、なかなか深いな、と。」
「ああ。昔、ばあちゃんちで集まって、いとことやったもんもそうかな。成る程ね。いつ、どん底に落ちてハードモードに変わるか、逆転のチャンス与えられてても気付かなかったり?」
「たくさんだよね、学ぶとこ。」
ここはどこ、教えてよ。至近距離で囁かれる。
まさか、アルコール度数が高い3杯目のおかげで、萌絵が酔った?早鐘を打つ胸、視線がぶつかる。
大胆な欠伸にて興奮が冷めた。
だが午後11時半、眠たげな彼女は
「梅田の家に泊めて。」
と言い、コンタクトレンズのみ外してベッドに倒れ込んで、案の定すぐさま寝息を立てる。
無防備にも程があり、タオルケットは捲れる、誰彼構わず、こういったことをしないで欲しい。
もうやめろ、俺以外とは。
ドキドキしつつシャワーを浴び、安心しきっている萌絵に声を掛けるも応答なし、仕方なく床で眠り、試されて、幼馴染の存在を忘れた。
思わぬ2人きりの世界が幸せで、浸る。
「おはよ。」
共に一晩過ごしたにも拘らず、何の事件も起こらなかった。
ふわりと石鹸の香りが漂い、こちらが枕元に用意したバンドTシャツとぶかぶかのハーフパンツが瞳に映る。上を向けば照れくさそうに笑って、感謝された。
「あと、私も△△のファン。ラストツアー行った、趣味同じ。」
これからもっと、互いに知らなかった部分を少しずつ埋めて仲良くしたいなら、現在時刻の確認より先に、伝えなければならない。
「取り敢えず。男の部屋で寝んな、危なっかしい。」
「うるさ。ゴールに辿り着けなさそう。」
「はあ?」
切り返されてごたつき、オチを付けるように腹の虫が鳴る。驚く程に平常通り、〈友達以上恋人未満〉という曖昧な関係だろうか。
お礼にと台所に立ち、シンプルな朝食を作る彼女が、さりげなく放った。
「梅田萌絵か。意外と悪くないね。」
「え、ちょ、そこまでは、やっ、マジ?」
急展開に慌てふためくと、
「なーんて。」
ぬか喜び、冗談を真に受けて恥じた、萌絵は駆け引きに長けている。
「だって面白いもん。離れらんない。」
肝心の台詞は、聞こえていなかった。
★登場人物を少なく〈僕と君〉に、今回はタイトルからストーリーを作りました。
「萌絵に俺の気持ちが分かってたまるか。」
「そうだね。だからこそ聞いて、知りたいよ。」
