① 22歳の論文「自我の喪失」ー 今の私が読み返す時ー(『倦怠』モラヴィア)
PCや外付けハードディスクの整理をしていたとき、
学生の頃に書いた論文のJPEGデータが目に留まった。
あの頃はまだ手書きで、
原稿用紙40枚近くを万年筆でせっせと書いた。
そのコピーをJPEGで保存してあったのだ。
「自我の喪失」なんぞについて
22歳の小娘が語っている、
かなりエラそうに。
20歳そこそこで、
いったい何を思ってこんなテーマに向き合っていたのか—
今となっては、当時の自分を少し離れた場所から眺められる。
もしこんな娘がいたら、親としてはどうなんだろう?
なんて苦笑いをしたり。
少しためらったけれど、
勇気を出して読み返してみた。
あの頃の私はー
なんだろう?
恥ずかしい気持ちが溢れてきた。
「キミ、バカだね」
そう言いたくなった。
そんな論文が研究室に残すものとして選ばれたときは、
素直にうれしかった。
サボってばかりで留年寸前、
ゼミにもほとんど顔を出していなかった。
それでも読んでくださった先生
最終面談の日程を決められず、
家に電話がかかってきた時の冷や汗は、
今でもよく覚えている。
何を話したかはー
覚えていない。
今さらながら、
申し訳なさと感謝が入り混じった気持ちがわいてくる。
本当に今さらだが、
バカで不真面目な学生、おまけに妙な論文を読む、
そんな仕事は大変に違いない。
いつかデータ化と手直しをして残そうと思いながら、
仕事や子育てに追われて長い歳月が過ぎていった。
ようやく今、少しずつキーボードを打ち始めている。
キーボードを打っていくうちに
徐々になにかが反応し始めた。
「ワタシはこういう世界が好きなんだ」
あの頃の私を恥ずかしく感じた気持ちが
ちょっと笑えた。
今日は途中の一部を手直し・抜粋して掲載。
この作業は不定期になる。
少しずつキーボードを叩きながら、
あの頃の私を
今の私が
離れたところから見つめる。
ちょっと恥ずかしくなりつつー
笑いつつー。
イタリアの作家モラヴィア(Aberto Moravia 1907-1990)は「倦怠」(La Noia, 1960)を始めとする多くの作品において、自己と外界との関係性を、エロティックな領域を通して探求している。
この作品は、主人公ディーノが二か月間描き続けた絵を切り裂いた日のことを回想する場面から始まる。作品の冒頭からエピローグの直前に至るまで、ディーノを悩ませる倦怠のため絵を切り裂いてしまうのである。一体、何が彼にそれほどの深い倦怠をもたらすのだろうか。
倦怠に悩まされ続けているディーノは学生であり、キャンバスにも、母親にも倦怠を感じながら日々を送っている。
ある日、ディーノは数日前に死んだ画家のバレストリエーリという男のアトリエで、子供のような大人のようなチェチリアという17歳の少女と知り合う。この少女は、老画家バレストリエーリが死ぬ直前までモデルをしていた。ディーノはチェチリアをモデルとして雇い、肉体関係を結び、やがて彼女にも倦怠を覚えるようになる。それがために彼女から離れられなくなり、倦怠、不安、嫉妬、苦悩の淵へとはまり込んでいくのである。
「倦怠」のなかの「私」(ディーノ)は自己と外界、つまり他者との関係を所有という一側面でしか捉えることができない。「私」は冒頭からエピローグまで、所有という病、関係性という病にとりつかれている。「私」は客体を主体という枠の中に存在させようとし、世界(外界、他者)を所有しようと四苦八苦しているのである。「私」の目の前に在るものを、ことごとく「私」にとってリアリティーのあるものとして存在させようとし、全てを自己へ帰着させようとする。「私」ディーノは、自分にとってのリアリティーや存在価値を、あらゆるものに求め、そして得られず、その対象・現実に対して不条理を感じてしまう。
例えば、彼はコップに対しても自分とのつながり、自分にとってのコップのリアリティーと存在価値、そしてコップにとっての自分のリアリティーと存在価値を求めてしまう。しかし、彼は常にそれを得ることはできない。
突然、あるいは徐々にコップは生気を失い、なんのつながりもなく、見慣れないものに見えてくる。その瞬間、コップが不条理なものとして彼には映る。そのために彼は倦怠にいつも悩まされるのだ。彼は、それを繰り返す。キャンバスに対しても、母親に対しても、同じように繰り返すのである。
コップがコップであること、つまり「液体を入れてこぼさずに口までもっていくために作られたガラスの、あるいは金属の容器であると納得している限りは、もしくはコップであることを認識しているかぎりは」(モラヴィア 河盛好蔵・脇功 訳『倦怠』河出文庫P10)自分とコップには、なんらかのつながりがあると思えるとディーノは言う。ここに彼の、自己と外界との関連性に対する考え方が集約されている。
彼は「理解」という方法によって世界とのつながりをもとうとしているのである。目の前に在るもの・対象を理解すること、すなわち、それがどのようなものであるのか、何に使うものなのか、何のためのものなのか、を理解することが、対象とのつながりを持つことだと考えている。
それが何であるのか知っている、分かっているということが、対象がリアルで存在価値があり、対象にとっての自分もリアルで存在価値のあるものになるのだという。しかし、彼の言う「理解」とは自分の中に対象を取り込むこと、自己の枠の中に客体を住まわせることだ。これは、理解できないものには、その存在を認めない、ということになるのではないだろうか。現実には、自分が理解しようとしまいと、そんなことには全く関係なく、多くのものは存在し続けるからである。
ーつづくー
~今日の曲~
"I Could Write a Book" Dinah Washington
~最後まで読んでくださった方へ~
心よりありがとうございました😊
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