韃靼そばめ嶋左近
韃靼そば茶をよく飲む。
ルチンたっぷりな韃靼蕎麦の実で入れたお茶。カフェインフリーで健康にもよい。
これを料理に使えるのではないかと試行錯誤しながら、三成に過ぎたる者と呼ばれた武将を妄想した記録。

白米 2合
韃靼そば茶 大匙2
干しあみえび 大匙1
酒 大匙1
塩 小匙1
「三成に過ぎたるものが二つあり、嶋の左近に佐和山の城」
と俗謡に詠われた人物が嶋左近。
三成とは勿論、石田三成。↓
天文九年(1540)に誕生したとされる左近。対馬や近江の出身という説もあるが、恐らくは大和國(奈良県)生まれと思われる。
嶋氏は神人(じにん)だったらしい。
神人とは神社の警固等を請け負う傭兵のような存在。いわば寺院における僧兵みたいな者。
「思われる」とか「らしい」ばかりですが、左近の前半生はよくわかっていないので、こういう表現になる。
奈良、興福寺の塔頭(たっちゅう)の一つ、多門院に傳る『多門院日記』には嶋城で庄屋が実父と戰い、継母や異母兄弟達を殺害したという事件が記されている。
この「庄屋」が左近らしい。
恐らくは家督争い。必要ならば父との一戰も辞さない戰國の男。

左近の動向が明らかになってくるのは大和の大名、筒井氏に仕えていた頃から。
筒井順昭の死後、二歳で跡目を継いだ順慶をよく盛り立てて、特に松永久秀との抗争に奮戦。
久秀共々、織田信長に臣従することで筒井家と松永家は和睦。
織田家では明智光秀の寄騎として筒井家は長篠の戰、紀州征伐、信貴山城の戰に転戦。
信長死後は最終的に秀吉に従属。小牧長久手へ。
こうした戰に左近も参戰したと思われるが、具体的な活躍の逸話を聞かない。順慶が三十六歳で亡くなると甥の定次が跡を継いだが、左近はこれと衝突。筒井家を退転。
左近の領地と他の家臣との水争いで、左近に不利な裁定をされたことを不満に思ったのが原因。
その後は興福寺の塔頭、持宝院に居候。
親戚に金の無心。断られると、こんな口上。
「親族で金品を分かち合えば、子孫繁栄。それを怠れば厄に襲われる。それがしはあなた方のために無心しているのだ」
わかったような、わからんような理屈だが、これで親族は折れて借金成功。

蒲生氏郷に仕官したが、會津に転封となるとついていくことを拒んで牢人。
秀吉の弟、豊臣秀長やその娘婿、秀保に仕えた。
秀保が十七歳で逝去後は近江で浪々の身に。武家奉公に嫌気が差したかのように、誘いがあっても断り続けた。
そこに現れたのが運命の主君、石田三成。
何度、断ってもやって来る。
どうしても優秀な侍大将が欲しいとして、三成は破格の条件を提示。
当時、水口城主で四万石だった三成は何と二万石で左近を招いた。
三成の熱意と本氣さに打たれた左近は三成に仕えることを承諾。
この話を聞いた秀吉も
「主君と家臣が同じ禄高なんて聞いたこともない」と面白がった。
ただ、流石に左近も主と同格というのはよろしくないと考えたのか、少し遠慮して一万五千石で仕官。
↑ここが製造元。写真が少ないので、ご飯が炊けるまでこうやって繋いでいます。
「見てみよ、大坂は太閤様の御威光でこんなに栄えている」
ある時、三成は左近に告げた。自分もその一翼を担っていると得意になっていたのでしょう。
しかし左近は渋い顔。
「王侯がいる町には商売になるので人が集まって栄えるのは当たり前。一歩、町の外に出れば、貧しい人々も多く、道端に死体が転がっていることも珍しくない。そのことをお忘れあるな」
得意になっていた顔が萎むのが見えるようです。増上慢になりそうな三成の抑え役になることを左近は自任していた。
その太閤、秀吉が亡くなると徳川家康が次の天下人になるべく動き始めた。
左近は三成に再三に渡って助言。
「家康を暗殺すべし」
石田三成は自分の正義に固執する正義漢。
「暗殺などという卑怯な手段は絶対にならぬ」

それでも食い下がってくるので三成も渋々、Goサイン。
會津の上杉討伐に向かう家康一行に近江の石部宿で夜襲をかけるという計画。
左近は八百の兵を率いて向かったが、家康の方が上手。この動きを察知して早めに出立して難を逃れた。
「だから言わんこっちゃない。早目に手を打っておけば」
左近は地団太を踏んだ。
ついに天下分け目の關ヶ原へと引き摺りこまれた。
その前哨戰というべき杭瀬川の戰い。
美濃(岐阜県)大垣に陣取った東軍の前面で左近率いる隊は刈田。
季節は実りの秋。この行為は文字通り、稲穂を刈り取り、兵糧を奪う行為であり、挑発。
これに乗った東軍、中村一栄らの部隊と左近隊は戰闘。
伏兵を用いて、撃破。西軍の士気を大いに高めた。

炊き上がってくるにつれて漂う蕎麦のいい香。
出来上がったご飯も程よく色づいて、韃靼そばの粒々がいいアクセント。
強い抗酸化作用を持ち、生活習慣病予防やビタミンCの吸収を助けてくれるルチンもたっぷり補給。
アミエビから出た仄かな出汁が塩と相まって、いい味。
關ヶ原前夜、左近は島津義弘と共に家康本陣へ夜襲を三成に提案。しかし又も三成は正面からの戰に拘って却下。
へそを曲げた島津隊は關ヶ原本戰でまったく戰わず。
左近は東軍の黑田長政隊と激戦。
激しく襲い掛かる左近の部隊に黑田隊は恐怖。
先頭切って戦う左近の姿をよく思い出せなかったという。どんな兜や鎧を纏っていたかの証言がまちまち。
?
妄想するに左近は影武者を用いたのではないか。
自分を含めて何人もの武士に左近なりと名乗らせて突撃。敵を混乱させた。
いくら左近が氣を吐いた所で西軍は裏切りや日和見続出。
左近自身も銃撃を受けて討ち死に。
と言われるが、そうは思えない。
何故なら首が見つからず。
嶋左近には生存説。
私も恐らく生きていたと思います。
左近は生き残りに長けた戰國の漢(おとこ)であり、結果として戰場を離脱して生き残ってしまった。
主君、三成は戦場を離脱したものの、捕縛されて斬首。
これで決定的に武士を止めた左近は出家。
京都にそういう伝承があり、立本寺に左近の墓も存在。
それによると没年は寛永九年(1632)享年は九十二歳?
關ヶ原後、三十二年も生きていたことになる。
三成に仕えて、關ヶ原で奮闘して華々しく散った。そんな滅びの美学に酔いたい人のイメージが嶋左近には投影されているのではないか。
実際にはしぶとく生きて長寿をまっとうした?嶋左近を妄想しながら、韃靼そばめ嶋左近をご馳走様でした。
