坂崎直盛蕎麦パスタミートソース?
蕎麦とパスタが合体した商品を発見。これに合うソースを自作しながら、思いのままに行動した末に身も家も滅ぼしてしまった人物を妄想した記録。

國産蕎麦粉使用と銘打っていますが、具体的に何県産かまでは記載なし。
フィットチーネっぽい。

そばパスタ 100g
トマト 1個
玉葱 半分
乾燥トマト 小匙1
粒状大豆肉 大匙2
出汁つゆ 100㎖ (二倍濃縮)
水 100㎖と大匙1
味噌 大匙1
片栗粉 大匙1
塩 少々
永禄六年(1563)備前國(岡山県)に梟雄として知られる宇喜多直家の弟の家に生まれた人物ですが、比較的知られている名前は坂崎出羽守。
諱は直盛。坂崎直盛になる前は宇喜多詮家(うきたあきいえ)、他にも浮田左京友家とか宇喜多左京正勝等の名乗りがあるが、煩雑なので本稿では坂崎直盛に統一。

従弟である宇喜多秀家に仕えていた直盛は強情で直情径行。秀家とは反りが合わなかった。
キリスト教を知った直盛は教義に感動。入信を望んだが秀吉によって伴天連追放令が出された時代であり、キリスト教徒にとっては受難が始まろうとしていた。
宣教師ですら少し考えた方がいいと忠告したが、直盛はどうしてもと入信。
周囲の者達にもキリスト教を勧めた。
自分の屋敷にも金色の十字架を掲げさせた。
主君である秀家は五大老の一人であり、秀吉の猶子にもなった、秀吉政権の次代を担う存在。
従兄が秀吉に睨まれているキリスト教に傾倒しているのは、他の者に示しがつかないと、秀家も苦虫を嚙み潰していたことだろう。
直盛にとってはキリスト教が素晴らしいと感じたので心のままに行動しているだけなのだが、空氣が讀めない奴と秀家は思った。

ついにキリシタン教禁教令が出されると、直盛は大坂の教会にいた宣教師を逃がした。
「余計なことしやがって」
秀家は更に苦々しい思い。
この頃、宇喜多一族では嫡流のみが「宇喜多」の苗字を名乗り、庶流は「浮田」とすべしと取り決めたのは、直盛に対する嫌がらせだったかもしれない。
宇喜多一族の当主、秀家の妻は前田利家の娘、豪姫。
しかも秀吉の養女として嫁いで來た。
この時、前田家から付いて來た豪姫付きの家臣達を秀家は重用。
以前から宇喜多家に仕えていた家臣達と軋轢。
古くからの家臣達を保護した直盛は、新参者ばかりを重用する主君と対立。

昔から仕えている家臣を疎んじるのは道理が通らないと、直盛は秀家と完全に対決姿勢。
この調停に入ったのは德川家康。
秀家と対立した昔からの家臣、戸川達安(とがわみちやす)、岡越前守、そして直盛自身を德川家で引き取った。
この事件が起こったのは慶長五年(1600)一月。九月には關ヶ原の戰が起こる年ですから、家康にしてみれば、騒動に介入して家臣を引き抜くことで宇喜多家の弱体化を狙っていた。
その關ヶ原で敗北した宇喜多秀家は八丈島へ島流し。↓
一方、家康についた直盛は三万石を与えられて津和野城主に出世。この時から宇喜多という苗字を捨てて坂崎直盛を名乗るようになった。家康の指示だったとも言われる。
現代では山陰の小京都と呼ばれる津和野の基を作ったのは直盛。
水の便をよくするために城下町に溝を通したが、蚊が大量発生するのを防ぐためにボウフラを食べさせるべく鯉を養殖。
紙の原料となる楮の生産を奨励等で内政手腕を発揮。

關ヶ原から十四年後、ついに德川と豊臣が手切れとなり、大坂の陣。
当然、東軍についた直盛ですが、ここで人生を狂わせる事件が発生。
慶長二十年(1615)大坂夏の陣。
焼け崩れて落城間近の大坂城を見て、德川家康は叫ぶ。
「誰ぞ、千を救ってくれ。助け出した者には千を与える」
家康の孫、千姫は政略結婚で豊臣秀頼に嫁いでいた。
「お任せあれ」と炎の大坂城へ直盛は飛び込む。
無事に千姫を救出。だが直盛は顔に酷い火傷。
美しい千姫を娶ることが出來ると思っていたが、当の千姫は醜く焼け爛れた顔になった直盛を忌み嫌う。
そればかりか、美男であった本多忠刻に一目惚れ。
父の秀忠は娘の意志を尊重して、忠刻に嫁がせる。直盛には何の断りもない。
「約束が違う」と憤った直盛は、本多家に向かう千姫の行列を襲撃するという、とんでもない計画。

更に盛ったから盛蕎麦という。
盛った蕎麦パスタに合うように味噌を使った和風なミートソース?を作成して、たっぷりかけた。
大豆肉の歯応え、トマト風味が絡む味噌味。
玉葱のアリシンが食欲倍増で、トマトのリコピン、大豆のタンパク質、蕎麦のルチン等の栄養もたっぷり頂ける。
德川家の姫君の行列襲撃なんてやらかしたら、間違いなく坂崎家は取り潰し。困り果てた家臣達が頼ったのは柳生宗矩。↓
秀忠の剣術指南であり、直盛とも友人だった宗矩は必死に説得。
「もはや襲撃計画が露見している以上は、騒動を起こしても得るものは何もないどころか、御身だけではなく坂崎家や家臣達にまで罪が及ぶ」
「このままでは武士の面目が立たない」と直盛は強情さを発揮。
もはや千姫との結婚よりも、自分に何の断りもなかったことに憤っていた。客観的に考えて、この頃の直盛は五十歳を超えている。孫程に齢の差があるので、本氣で結婚を望んでいたというより意地を見せたということ。
坂崎家の安泰を自分が請け負うと宗矩に言われ、直盛は武士の意地を立てるために切腹。釼豪である宗矩が介錯。
ところが幕府の裁定は非情で、坂崎家は改易。
死んだ友との約束を少しでも果たそうと宗矩は直盛の子、平四郎に二百石を与えて領内に住まわせて、坂崎家の家臣も引き取った。
更に坂崎家の家紋「二蓋笠」を柳生家の家紋にした。
強情で自分が正しいと信じたことを貫こうとした直盛の墓は津和野にある。それを建立したのは小野寺義道。
關ヶ原で西軍に属して改易になった元大名だが、直盛に保護されて坂崎家改易後も津和野に住み、そこで人生を終えた。直盛に厚遇されたことを感謝した小野寺は、直盛は罪人扱いされたにも關わらず、感謝の印に墓を建てた。
自分が信じることを貫き、最後は身と家を滅ぼした。強情で空氣が讀めない奴と客観的には言われるかもしれないが、そういう人物は嫌いではない。
坂崎直盛を妄想しながら、坂崎直盛蕎麦パスタミートソース?をご馳走様でした。
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