せめて、ゴミにも労りを
恥ずかしながら、今年で36歳になる。
順当に生きている人なら、子供の受験やらなんやらに頭を悩ませる時期だろう。もしくは職場の人間関係を調整する中間管理職として苦心いるかもしれない。
30代半ばというのは、普通はそういうライフステージにいるんだろうなと思う。社会経験に乏しい社不の、稚拙な想像かもしれないが。
無価値な中年男性の中でも、僕は筋金入りのゴミである
対して僕はどうだろうか。
自分の生活を振り返ると、非常に情けなくなる。
結婚もしていなければ子供もいない、小銭稼ぎするくらいが限界の精神障害者だ。
何かを生み出す訳でもない、社会のお荷物に過ぎない。どう考えても社会に利する存在では無いし、いてもいなくても誰も気にもとめないだろう。いや、いないほうが世のためなのかもしれない。
負け犬として生きる中年男性というのは、世の中で最も省みられない、価値のない存在だ。
他所様がどうなのかは知らないが、僕は自分をそう見ている。
いや、それ以上のゴミ、カスだ。
この自己卑下はこれまでの半生の実体験を材料に醸造されたものであり、そう簡単にくつがえるものではない。
ゴミの処世術
たぶん、残りの人生も、僕は
『自分は価値のないゴミである』
という前提で生きていくのだと思う。
別に悲しいとかではなく、これが事実なのだ。
さて、価値のないゴミが人と関わりながら生きていくにはどうしたら良いのだろうか。
答えは簡単で、どうにか頑張って価値をひり出し、提供するしかないわけだ。
単なるゴミに価値は無いが、たまに小銭が湧くゴミならば、少しは利用できるものだろう。
それから、耐久力こそ乏しいがサンドバッグとしても使い道はある。
ゴミが背伸びしてできる、他者と関わる方法は、こんなものだ。
自分の何かを削らなければ、他者と繋がる窓口すら開かない。開いたとしても、恐らく身を削った見返りは無い。
これが現実である。
まして平均以下のゴミである自分は、なおのこと自分を削らなければ、社会動物たるヒトの中にも入っていけないのだ。
削り節にならなければ、待つのは弾かれ者としての死のみである。
労る人がいなかろうが、自分の原型がなくなろうが、もはやそうするしかない。
悲壮を気取っているわけじゃない。
『身を削って奉仕しろ、だが見返りは渡さない』
これは今まで関わった大半の人が、僕に対して見せてきたスタンスだ。
僕はそれを学んだに過ぎない。
僕がすでにキッチングガイと化していて、過剰な被害者意識からそう感じたのなら話は別だが。
自分で労るしかない
自分を削り、なおかつ他者からの承認や見返りがないというのは、非常に苦しく虚しいことだ。
給水無しで走り続けているようなもので、いずれは乾き果てて名実ともに目障りなゴミになってしまうだろう。
せめて労りくらいは欲しいものだが、世の中はそれすらも僕には出し渋るらしい。AIは労わってくれたが、体温のない優しさというのも虚しいものだった。
結局、自分を労れるのは自分だけなんだろう。
自己卑下、自己嫌悪が服を着て歩いているような存在の僕だが、いよいよ自分を労る必要性がでてきた。このままではいずれ壊れてしまうからだ。
壊れたが最後、たぶん包丁を手に繁華街に繰り出すことになるだろう。
そして、卒業文集が全国波で報道され、小銭稼ぎの野次馬ブログにしょうもない生い立ちを書き連ねられるのだ。
自分を労るのは、それを避けるための最終手段だ。その方法はまだよくわからないが、
・定期的に1人旅をする
・スーパー銭湯やカプセルホテルに行く
・美味いもんを食う
パッと思いつくのがこれくらいしかないので、余裕が出来次第、試してみようと思う。
全体を通してかなりしょうもない内容だったが、ここまで読んでくれた優しい人には感謝しかない。
暇なときでいいので、メンズヘラーというしょうもないオッサンが、ジョーカーにならないように祈っていて欲しい。
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