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こづつみ【第六話】

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『第六話』

ザザー
波の音がする。
懐かしい音。
潮の匂い。
懐かしい匂い。

「はなちゃーん」
年期の入った優しい、聞き慣れた声がした。

「ん、んぅ」
「もう朝御飯できるよぉ」

久しく聞いていなかった声。

目やにが固まった瞼をゆっくりと開けながら目を擦る。私が一日の最初に目にするものはいつも焦げ茶色の天井から伸びる細いケーブルにぶら下がった円盤上のペンダントライトだった。

「早くしないと冷めちゃうよ」
「ぅん、わかったぁ~」

もぞもぞと動きながら布団を蹴り、起き上がる。まだ重たい頭と体を無理やり動かしながらカーテンを開けると眩い光が差し込んできた。手で光を遮りながら洗面台へ向かい、顔を洗う。さっぱりとした顔を拭いて居間の扉を開けると味噌汁と焼き鮭の匂いが花浪を出迎えた。

「ほら、早く座って食べなさい。」

柔らかい声音でそう言うおばあちゃんの顔はボヤけてよく見えなかった。なんとなく微笑んでいることはわかる。しかし、顔全体にモヤがかかっているような、ノイズが走っているような様子ではっきりとは見えなかった。

二人で小さく「いただきます。」と手を合わせ、朝御飯を食べ始めた。お椀を持ち、具だくさんの味噌汁に口をつける。出汁と玉ねぎの甘味と味噌の塩気が舌を包んだ。優しい味と身体が暖まる感覚に思わず頬が少し緩む。食べ進めていると塩分が回り、段々と身体が目覚め始めてきた。重く、軋んでいた身体がオイルを注されたように軽くなっていく。
もう一度おばあちゃんの顔を見る。どうしても今一つ思い出せない。思い出せないことが酷く悲しい。

「早くしないと学校遅れちゃうら~」

そんな言葉に残りのご飯をかきこんで小さくごちそうさまと手を合わせ、歯を磨きに行く。服を着替え、大きなランドセルを背負い、玄関で「行ってきます。」と言うと台所の方から「いってらっしゃい」と優しい声が返ってきた。

家を出て小走りで班登校の集合場所である公園に向かう。フェンス越しに公園の中を見ると班はもう一つしか残っていなかった。潮風に晒されて錆びついたトタンの屋根があるベンチに同じ登校班の人が座っていた。

「チッ」
舌打ちがどこかから聞こえた。
私が最後のようだった。

「はなみちゃん遅いー」
そんな風に言う仲良しのゆみちゃんは口を尖らせているがそんなに怒っているようには見えなかった。

「ごめんごめん、ちょっと寝坊しちゃって。」「チッ」
また舌打ちが聞こえる。音の方を見ると黄色い旗を持った班長が早歩きで歩き始めてしまっていた。
慌ててゆみちゃんと他の何人かと一緒に班長に着いていく。
班長はいつも無愛想だった。だけど大きな背丈で黄色い旗をはためかせている姿はかっこよかった。いつの間にか羨望の眼差しが黄色い旗を持つ姿から班長自身へ向けたものへと変わっていき、密かに恋心を抱くようになっていた。

学校で授業を受け、短い休み時間をフルに遊び、給食を食べ、午後の授業を受け、友達と遊びながら帰る。ちょっと寄り道をして遅くなるとおばあちゃんに心配されながら怒られて......。
すべてが新鮮で、私にとっての世界はどこまでも広がっていて、毎日が楽しくて仕方なかった。
何気ない幸せな日常。もう遠い過去の日常。

記憶の中のおばあちゃんはいつも優しかった。叱られることは確かにあったけれど、怒鳴るような様子ではなく、諭すような感じで、それは私のことを思ってのことだと子供ながらに理解していた。
例えば学校の帰りに知らない場所まで寄り道をして迷子になったことがあった。最初は楽しかった探索も次第に周りが暗くなり、自分達がどこにいるのかわからなくなると途端に怖くなった。足は棒のようになってもう歩けなくて、でも家に帰りたくて、おばあちゃんに会いたくてたまらなくなってむやみやたらに泣きじゃくる。そんなときおばあちゃんの声が聞こえた。

「はなちゃん!よかったぁ。」

息を切らしてほっとしたような表情を浮かべている。
買い物に行くのも少し辛いはずなのに腰を曲げて迎えにきてくれた。私が泣いていると「こわかったら、もう大丈夫だからね」と優しく抱き締めてくれた。ごめんなさいと顔をおばあちゃんの服にうずめていると懐かしい匂いが包み込んできて安心してしまう。しばらくして落ち着いてからあんなことをしてはいけないと諭すように叱られたが、本当に私のことを思ってくれていると伝わってくるような優しさのある叱り方だった。

そんなおばあちゃんだったが一度だけ手を出して怒ったことがあった。
自分の名前が嫌だとごねた時だったと思う。
たしか好きな人との名前占いの相性がよくないとか、そんな下らない理由だった。

ある日学校の誰かが占い雑誌を持ってきた。一人が持ち込み出すと他の人も持ち込みだすもので各学年に一人は占い雑誌を持っているようになった。それがいずれクラスに一人になり、学校内でちょっとした占いブームが到来した。
校則では雑誌などの持ち込みは禁止だったはずだがこっそりとバレないようにしていたのか、それとも特に害がないから先生が黙認していたのか雑誌を取り上げられたというような話は聞かなかった。ありふれたどこの学校にもあるような話だと思う。そんなありふれた占いブームの中でもやはりというべきかこれまた定番の色恋関連は特に人気だった。

ある昼休み、ゆみちゃんの誘いで私も恋占いをしてもらうことになった。姓名占いで相性判断をすることになり、自分と相手の名前を占い雑誌を持っている女子に伝え、結果を待つ。ドキドキと胸が高鳴るのを感じていると雑誌から顔を上げ、口が開いた。

好きな彼、班長と私の名前は最悪だった。恋心と膝が崩れていく。どうせ一週間後には結果が変わるような今思えばどうでもいいことだったけれど、子供の私にとってはそんなどうでもいい占いの結果が人生のすべてのように感じた。午後の授業の内容など入ってこず、気づけば下校の時間となっていた。
半泣きで落ち込んだまま玄関を開け、手を洗わずに自分の部屋に行く。

「はなちゃん?どうしたの?」
心配そうな声が扉の向こう側から聞こえた。

「入るよ?」

返事を待たずにガチャリと扉を開けて部屋に入ってきた。こういうプライバシーを考えないところが少し嫌いだった。でもこうやってグイグイ来るからこそおばあちゃんと仲良くなれたのだとも思う。

「何があったの?」

優しい声音でモヤのかかった顔が言った。

「......いや。」
「いや?」
「こんな名前いや。なんでこんな名前なの?」「......。」
「こんな名前のせいでけんとくんと仲良くなれないじゃん。」
「…………。」
「もうこんな名前変えたい!」

パンッという音が空気を切り裂いた。
鋭い痛みが頬に広がっていく。

「ぇ、え......?」

混乱する頭でおばあちゃんを見るとモヤの奥で怒ったような、それでいてどこか悲しいような表情をしていた。

「そんなこと、冗談でも言っちゃいけません。」

冷たくそう言われた。鋭い痛みと冷たい物言いに身体がどんどん冷えていく。

「花浪の名前はお父さんとお母さんが考えに考え抜いてつけた名前なの。だからそんなこと軽々しく言っちゃいけません。」

今までにないおばあちゃんの様子を見て、私は何かとんでもないことをしてしまったのではないかと思った。

モヤのかかった不確かな顔が迫ってくる。
冷たい眼差しにどんどん血の気が引いていった。私は現実から目を背けるように下を向いて時間が戻りますようにと念じて目を閉じる。
暗くなる視界の中でモヤと甘い匂いが私の顔を包み込んだ。

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