こづつみ【第七話】
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『第七話』
重く、鈍い身体。倦怠感と息のできない不快感に蝕まれながら花浪は目を覚ました。赤べこのように頭をゆらゆらさせながら身体をゆっくりと起こす。頭が垂直になり、ねばっとした鼻水が喉に垂れてきているのがわかった。喉から舌に染み込んでいき、半強制的に味わうこととなる。塩気があり、それでいてどこか甘味があるヘドロのようなにお
「ゲェッガハッ」
あまりの不快感にその場で吐き出してしまった。いや吐き出せたのは少量の唾液だけで、不快感の現況はねちょりと喉の奥に張り付きその存在感をより鮮明に放ちはじめる。あまりの気持ち悪さにもう一度眠って薄い瞼の暗闇のなかで上も下も、時間も、味も匂いも、何も感じなくなってまどろみの中に沈みこんでしまいたかった。だがやはり身体の奥から香るかすかなドブのような臭いと息苦しさに耐えられなくなり、解消するためにそばにあったティッシュに手を伸ばした。シュッと紙の擦れる音が遠い場所で鳴る。右の鼻を抑え、鼻水を出そうと試みたとき、ドルンッとねばっこい何かが勢いよく左目から飛び出てきた。世界の半分が黄色く濁っていく。痛みはなく、ただ異物感と黄色で埋め尽くされている視界、そして生ぬるいヌメヌメとした感覚に耐えられなくなり花浪はこの不快感からの解放を求めて洗面台を目指した。立ち上がるとずっしりとした重みが身体にのし掛かり、キリキリと節々が痛む。のそのそとなんとか洗面台に辿り着くと鏡の中に映った左目から黄土色の蛞蝓がぬっとりと顔を出していた。背筋を逆撫でされたように思わず身震いし、水で洗い流そうと蛇口を捻る。出る場所を間違えた鼻水を摘まんだり擦ったりして洗い流すと今度は喉の奥の異物感とヘドロのような臭いが再び鼻を突いた。コップに水を溜め、数度うがいをする。きゅっきゅっと蛇口を閉めて顔をあげると幾分かスッキリしたが血色の悪い顔がこちらを見返していた。
寝室に戻り、電気をつけるといつもは蹴りあげないと起きてこない圭呉が鶏冠を作り、目を擦りながら起き上がっていた。
「すごい咳き込んでたけど大丈夫?」
「喉が......いがらっぽい」
声を出した瞬間、喉奥を内側から突き刺し、そこから引き裂かれるような痛みが走った。花浪は痛みに顔を歪ませていると圭呉は近寄り、彼女の額に手を当てた。
「うわっ、けっこう熱いじゃん。今日はゆっくりしときな。」
圭呉はそう言って体温計を取りに行った。
「でも家事しないと......」
「あー、じゃあうちの親呼ぼうか。」
義両親に世話をしてもらうなど何か小言が飛んでくるのではないかと一抹の不安を覚えたが気怠さと重い身体がそれを押し潰す。結局、その日は一日圭呉の母、公子が来ることになった。カーテンを開けると鈍色の空が広がっていた。
一時間ほど経った頃、チャイムが鳴り、公子が家へと入ってきた。
「あらぁ、ほんまに顔色悪いなぁ。今日は私がやっとくから花浪さんは休んどき。」
そう言いながら顔を近づけてくると甘ったるい匂いが鼻を覆った。
「そちらも家事あるのにすみません。」
「全然いいんよ。きっとまだ慣れてへんくて無理しちゃってたんやろ、これからも何かあったら遠慮なく言ってな。」
「ありがとうございます。」
「ややさんも産まなあかんねんから身体は大事にするんやで。」
喋る度に痛む喉に顔を歪ませていると義母はお湯を沸かしてマグカップを持ってきた。どうやら喉の痛みを和らげるために蜂蜜をお湯で割ってくれたらしい。口に含むとはちみつ独特の濃密なねっとりとした甘い香りが詰まった鼻を突き、やさしいコクのある甘さが口の中を満たし、鈍っていた嗅覚と味覚が再び目覚め始めたように感じた。飲み込むとチクッとしたわずかな痛みの後にじわじわと喉全体がコーティングされていき、少し喉を動かした程度ではほとんど痛みを感じないほどに和らいでいく。今日起きてから初めての不快以外の感覚に耽っているといつの間にか義母の姿はなく、代わりに寝室の外から物音が聞こえてきた。
寝室から顔を覗かせると洗いざらしの割烹着を身に纏った義母が年期の入った流麗な動きで次々と家事を済ませていく映像が流れていた。ただ呆然と眺めていると覗いている顔に気付き、義母があっと言い、キッチンの方へと向かっていった。しばらくすると何かをタオルでくるんだような物を持ってきた。手荷物とひんやりとしており、心地いい。
「頭熱いと寝にくいやろ、氷枕頭に敷いとき。」
義母は微笑んでそう言いながらお茶も渡してすぐにまた家事へと戻っていった。
寝転ぶと自尊心がパラパラと音をたてて崩れ、代わりに巨大な不安がそこに居座ろうとしているのがわかった。以前であればここまで至れり尽くせりにであっても感謝の気持ちと少しの申し訳なさが立ち上るだけであっただろう。しかし、挨拶をして回っても村民とは今一つ、うまく馴染めず、しまいには体調を崩し、義母に手間をかけさせ、目の前で自分よりも圧倒的に早く、正確に家事が済まされていく様をみているとどんどん自分が村の落伍者になっているように思えた。いつかどこにも居場所がなくなってしまうのではないかという不安ばかりが大きく、歪に膨らんでいく。氷枕に熱が奪われていくのを感じながら花浪は瞼を閉じた。
ふと目を覚ました。どうやら少し眠ってしまっていたようだった。相変わらずの不快感に身震いしながらも起き上がろうとすると腹のほうに違和感を感じた。何かが服の中に入って服が引っ張られるような感覚。裾のほうを捲ってみると板のようなものが入っていた。取り出してみると鏡であったようでお腹に鏡面を向けて何も写すことなく腹に忍び込んでいたようだった。まさか寝ぼけて鏡を腹にいれるとは考えづらく、おそらくは義母がやったものだろう。なんでこんなことをとも考えたがどこかで妊娠中に鏡を腹に忍ばせる風習があると聞いたような覚えがあったため、あまり気にすることなく、寝起き特有の喉の不快感を和らげるためにお茶を口に流し込んだ。時計を見ると十二時半を差しており、秒針がチクタクチクタクと音を鳴らしながら時を進めていた。ボーッとしていると寝る直前までしていた物音がしなくなっており、風邪でカーテンが擦れる音だけがしている。耳を澄ませていると何やらボソボソと呟くような声が風の音にまじって聞こえてきた。妙に気になり音の元を辿ると仏間から聞こえているようだった。襖が少し開いており、隙間から詰まった鼻でもわかるほど甘ったるく気持ち悪い匂いが鼻を突き刺してきた。その隙間から中を覗くと薄暗い部屋の中を見ると義母が手を合わせてぶつぶつと何かを祈っているようであった。村長から渡された歪な姿をした「山神さま」の像に手を合わせている。
「花浪さんの風邪が治りますように」
最初は風邪を心配してくれているだけだと思った。
「信心なき愚かもんに風邪がうつりますように」
信仰心が厚い上に馴染みのない信仰だから少し不気味に感じるだけだと思っていた。
「孫がちゃんと春に産まれますように」
しかしそうではなかった。
「蛇に罰がいきますように」
明らかに異質であった。
「つつまれもんに守りを」
それは祈りでありつつも。
「つばとばしの無礼もんに祟りを」
確かに呪詛を孕んでいた。
風邪の回復を祈るために罰だの祟りだのといった言葉が出るだろうか。異常だ。そう考えた瞬間、背中を皮膚の下から這いずり回られるようなおぞけが走った。今すぐここから逃げなければと足を動かそうとするがうまく動けない。あの呪詛も引き伸ばされたかのようにゆっくりになっている気がした。無理やり足を動かそうとすると足がもつれて転げそうになり、襖を蹴ってしまった。
「あら、起きてたの?ご飯できたから食べよか。」
先程までの祈りと呪詛を掛け合わせたような呟きなんてなかったかのように義母はにっこりと笑ってこちらを振り返る。花浪は嫌な汗を滴らせたまま義母に連れられて部屋を出ていった。
テーブルに着くと茹でた素麺と生姜、梅干し、ネギといかにも身体に良さそうな薬味が用意してあった。椅子に座るといつも圭呉が座っている椅子に義母の腰が降ろされた。手を合わせて小さくいただきますと言い、お昼を食べ始める。ふと義母が口をつけているコップを見るといつの日か花浪が圭呉とお揃いで買ったしろくまのマグカップだった。しろくまの抱えるハートから唾液が白い糸を引き、義母の口へと繋がっている。目にいれないように自分も食べようとするとくちゃくちゃと小さい咀嚼音が際立って聞こえ始める。そちらに目を向けるとずるずると素麺をすする度にめんつゆが四方八方に飛び散っていく。一度目につき出すと行動の全て、世界の全てが花浪の気分を損ねようとしているように感じられた。
これはいけないと、思いきって梅干しを丸々一個口に放り込んだ。強烈な酸っぱさが口を中心に全身へと回り、思わず口をすぼめる。そうしていると思考が酸っぱいで埋め尽くされ、今までの不快感が塗り替えられた気がした。きっと精神的に追い詰められて嫌なことばかり考えてしまうのだろう。さっきのお祈りだってただ風邪の心配をしてくれていただけだ。花浪は自分にそう言い聞かせ、素麺をすすり始めた。
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精神的に弱っているときに自分の仕事を奪われると自分なんて必要ないって言われてるように感じることありますよね。メンタルがボロボロの時はちょっとしたことでもすぐによくない方へと思考が向いちゃうんです。
ですが普通祈る時に呪詛を吐くものでしょうか。すべてが彼女のネガティブが引き起こした錯覚なのでしょうか。
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