【短編小説】いつもの場所に座って ―夜行列車の小さな光―
夜行列車《スターリバー》には、ひとつだけ秘密がある。
最後尾のある席には、降りられなかった“誰かの記憶”が、光になって座っている。拾得係の青年・湊は、今夜も淡い光を拾い集めるだけのはずだった。
しかし、その席に浮かんでいた光は、幼くして亡くなった弟――遼の小さな“ぬくもり”だった。
叶えられなかった約束。
閉じ込めたままの思い出。
大切な弟との「もう一度」が、この夜だけは許された。
夜行列車《スターリバー》がホームに滑り込むころ、駅の時計の針は、いつもよりゆっくり動いているように見えた。
窓ガラスには誰の顔も映らない。プラットフォームの白い息だけが、闇の中でふっと消えていく。
湊は、最後尾の車両に乗り込んだ。
この列車には、一本につき一人だけ、特別な係がついている。
——小さな光の拾得係。
落とし物を集める係ではない。
彼の仕事は「降りられなかった人の記憶」を拾い上げることだ。
湊は、最後尾の車両へ進み、その右側のいちばん奥の席まで歩いた。
その”いつもの場所“には、今夜も小さな光が、ぽつん、と浮かび輝いていた。
夜空の星をひと粒だけ、座席の上に落としたような光。
普通の乗客や乗務員には見えない。しかし、湊には、はっきり見える。
胸の奥が、かすかに熱を帯びた。
“良かった。あった”
湊がそっと手を伸ばすと、光はふるりと震え、彼の指先に触れた。
その瞬間、ぬくもりが掌に移る。
誰かがさっきまで座っていた気配。石鹸の匂いが一瞬だけ鼻先をかすめる。
次いで、言葉にならない声が、胸の奥に落ちてきた。
(パパ、ママ、たのしかったね)
小さな女の子の笑い声。
砂浜のざらりとした感触、浮き輪の橙色、父親の腕……そこまで映りかけて、記憶はぷつりと途切れた。
湊は、小さく息を吐いた。
「……ここで止まっちゃったか」
拾いきれなかった想いは、そのまま座席に滞留する。
放っておけば、重たく淀んでいき、列車そのものの「音」を狂わせてしまう。
だから拾得係がいるのだと、先代から聞かされてきた。
光はゆっくり彼の中に沈み込み、温度も匂いも、静かに溶けていった。
それが、いつもの夜の仕事だった。
湊は胸に手を当て、そっと目を閉じた。
光が静かに沈んでいく温度を確かめながら、
上着の内ポケットに触れる。そこには、いつも御守り代わりに忍ばせている小さな箱があった。
浜辺で弟とふたりで拾った、“海のガラス”が入っている。角がすり減り、色も薄くなった箱を指先でなぞると、冬の風よりもやわらかい、弟の笑顔がふっと胸に浮かぶ。名前を呼ぶ声を、湊は心の奥にのみ込み、再び静かな車内へ視線を戻した。
”あれ?“
今夜は、なぜか、もうひとつ、気配があった。
ライトを消した車内の奥で、別の光がちらりと揺れた気がして、湊は振り向いた。
最後尾から二番目の席、その窓際。
ありえない場所に、とても小さな光がひとつ、かすかに瞬いている。
喉がひりついた。
なつかしい、小さな光。
「……遼?」
名前を口にした瞬間、光が明滅した。
まるで返事をするみたいに。
湊には、7才下の幼い弟がいた。
冬の夜、二人でよく線路脇まで歩き、準備中の夜行列車を眺めた。
『よるも、そと、みえる?』
『そっか。遼は夜早く寝てるもんな。きっと夜は、星や月や灯りが見えるよ』
『いつか、のろうね、にいちゃん!はやくにいちゃんとのりたいなぁ』
頬を赤くしながら笑った顔を、湊は今もはっきり覚えている。
その願いが叶う前に、弟は病気で亡くなった。
最近になって、《スターリバー》の最後尾には、ときどき懐かしい気配が現れていた。
弟の匂いを含んだ、弱々しい光。
湊は何度もそれを見つけては、触れられずに留めておいた。
でも、今夜だけは、違う気がした。
そっと触ると、春の日だまりのような匂いがした。
苦しくて、思い出さないようにしていた遼の思い出が溢れてくる。
切りそろえた髪に、まだふっくらした頬の小さな子。
くりくりとした目で嬉しそうに見上げる。
(にいちゃん)
遼が生まれた日――7才だった湊は、生まれたばかりの小さな命をそっと撫でた。
可愛くて仕方なかった。彼の成長する一日一日が宝物のようだった。
足を投げ出し、真剣にテレビを見ている後ろ姿。
湊に歩幅をあわせようと、手をつなぎ一生懸命に大股で歩く小さな足。
疲れたと言うから、おぶってやったのに、上機嫌で童謡を歌っていた声。
浜辺でガラスを拾う小さな手。
湊はゆっくりと席に近づく。
窓の外で、川面に映る街の灯りが伸び縮みしている。
列車の揺れに合わせて、光もまた、かすかに揺れた。
座席の縁にそっと指先を置く。
そこにも、ぬくもりが残っていた。小さな子どもの体温。冬のセーターの毛羽立った感触。
再び光がふわりと膨らみ、湊の視界を満たした。
病室の白い天井が見える。
光を通して、湊は“遼の目”から世界を見る。
かすれた呼吸の音、ぼんやりした蛍光灯の輪。
ベッドの脇に、泣き腫らした目をした自分——兄の湊が座っている。
(にいちゃん)
声にならない呼びかけ。
湊は、過去の自分がその声に気づいていないことを知っている。
細い指が、ふに、と兄の手を握る。
握り返した手は、こわばっている。
『遼……一緒に、スターリバー、乗ろうな!』
かすれた声。自分で言った言葉なのに、なぜか覚えていなかった。
遼の体は、すでにかなり衰弱していた。
それでも、目だけはしっかりと湊を見ている。
(スター……リバー、のりたいな……よるの、れっしゃ)
唇がゆっくり動く。音にはならない。
医療機器の電子音が遠のき、世界から音がひとつずつ消えていく。
湊の指先から、弟の握る力が少しずつ抜けていく感触。
あの時の恐怖が、今さらのように胸を締めつけた。
『遼……!遼!』
過去の自分が何度も遼の名を叫んでいる。
でも、遼の視界はもう、焦点を結ばない。
最後に、窓の外にひらけた夜空が映った。
黒い海の上に街の灯りがまばらに散り、まるで誰かが指先でひとつずつ置いていった宝石のように瞬いている。
そのさらに奥には、ゆっくりと、一本の光の線が夜を切り裂いていく。
夜行列車《スターリバー》。
真っ暗な空を、銀色の尾を引きながら流れるその姿は、星でも飛行機でもない。
ただ静かに、すべての光を連れて走る“夜の使い”のようだ。
(わぁ……きれい……!)
遼の光が、大きく揺れた。
(にいちゃん、みて!)
“喜んでいる”のではない。
全身で、全存在で、歓喜の世界そのものになっていた。
まるで、ずっと欲しかった世界をやっと見つけた子どものように。
胸いっぱいに空気を吸い込む“生きていた頃の仕草”を思わせる震え。
その瞬間、視界いっぱいに広がっていた夜景がふっと白く弾け、列車の灯りも、月影の軌道も、すべてが一度に消えた。
世界が、遼の歓喜に耐えきれず、まるで一瞬だけ息を飲んだようだった。
意識が現在に戻ったとき、湊は座席の縁を強く握りしめていた。
涙が止まらず、肩で息をしていた。
喉の奥が焼けるように痛む。
「……ごめんな、遼」
あのとき、自分は何もできなかった。
夜行列車に乗ろうという約束も、叶えてやれなかった。
謝罪の言葉が遅すぎることなんて、分かっている。
それでも、胸の奥から零れ落ちた言葉は止められなかった。
すると、座席に残っていた小さな光が、ふっと揺れた。
星の欠片のようなそれは、再び淡く灯り、湊の目の前まで浮かび上がってくる。
光は声を持たない。
ただ、湊の胸に直接、想いだけを落としてきた。
(にいちゃん)
(きょう、のれたね!)
短い、短い響き。
湊の目から、再びぽたりと涙が落ちた。
「……ここ、一番奥の席じゃないぞ!奥から二番目の席だよ。遼」
(だって、まえのほうが、よくみえる)
くすくすと笑う気配がした。
列車の窓の外で、真っ黒な川面に朝の気配が滲みはじめる。
細い光の帯が一筋、川をなぞるように走っていく。
それは、駅の明かりでも、街灯でもなかった。
夜行列車と並走する、別の線路の灯り。
光が再び瞬く。
(にいちゃん、だいすき)
「にいちゃんも、遼のこと、ずっと大好きだよ」
遼が思い出の中でそっと手を繋いでくれている。
(れっしゃ、ありがと……)
次第に遼の言葉が途切れ途切れになる。
(きれいだね)
最後の言葉は、ほんのりと温かかった。
光はゆっくりと小さくなり、湊の胸の中へふわりと溶け込んでいく。
ぬくもりと、少しだけ柔らかな匂いを残して。
列車が終点に近づくころ、空はうっすらと藍色を帯びていた。
乗客たちが一人、また一人と目を覚まし、荷物を整え始める。
湊は最後尾の車両をもう一度振り返った。
最後尾の席にも、その前の席にも、光は残っていなかった。
あの子の光は、もう降りたのだ。
胸の内側で、まだ小さな温度が灯っている。
ささやかな灯火。
遼が見たかった景色が、今は湊の中で静かに揺れている。
ホームに列車が滑り込み、ブレーキの音が長く伸びた。
扉が開くと、冷たい朝の空気が車内に流れ込む。
ステップに足をかける前に、そっと座席に視線を落とした。
「ずっと見守っててくれたんだな」
誰にともなく呟く。
声は小さく、それでも自分には、はっきり聞こえた。
「……俺が見つけられるまで、ここで待っててくれたんだな、遼」
そう言って、湊は車両を降りた。
「なぁ、遼。これからは、毎年お前の誕生日に二人分の切符を買って、二人で旅をしよう」
プラットフォームの端から振り返ると、夜行列車《スターリバー》の尾灯が、まだ暗い空にふたつ、星のように浮かんでいた。
それが、弟の小さな笑顔と重なって見えた気がして——湊は、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
尾灯が見えなくなったあとも、湊の胸には、遼の『きれいだね』という言葉が、いつまでもやさしく灯っていた。
◇◇◇—◇◇◇—◇◇◇
✒️ 作者のあとがき
お読みいただきありがとうございました。
#いつもの場所に座って 投稿企画用(読み切り)二作目です。全く別のお話ですが、こちらも台詞多めなので、文体もいつもより読みやすさを意識して仕上げました。一作目は詩帆が蓮に伝えられなかった言葉。二作目は湊が叶えたかった弟との約束がテーマとなっています😊夜行列車のいつもの場所に存在してる光。私もぜひ、出逢ってみたいです。この湊は、いずれ開始する連載小説で別の物語に再登場します。
#いつもの場所に座って 皆さんはどちらのお話が好きでしたか?
全く別のお話ですが、ぜひこちらも読み比べていただけると嬉しいです👇
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