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【短編小説】いつもの場所に座ってー汐風が止まる場所ー

鈍行列車が去ったあとのホームで、世界が少し止まる。
もう会えないはずの人が、夕映えのベンチに座っていた。
汐風と記憶が交わる、静かな恋の物語。



鈍行列車がホームを離れていく。
列車が過ぎ去ったあと、揺れる潮風だけが残っていた。
詩帆しほは線路を跨ぐ歩道橋を渡り、改札へ向かいかけて、ふと立ち止まる。
“少しだけ、寄り道してもいいよね”
小さな無人駅。
かつて、詩帆は毎朝このホームから高校へ通った。
ペンキの剥げたベンチも、曲がった時刻表も、色あせた観光ポスターも、そのままだった。
詩帆は、一番端のベンチに腰を下ろした。
鞄を膝に抱える癖まで、むかしと同じだった。

――ねぇ、そこ、いつも君が座ってるよな。

耳の奥で、誰かの声がした気がして、苦笑いで打ち消す。
東京での仕事、溜まったメール、壊れかけの恋愛。
全部まとめて、いったん鞄の外へ追い出したくて、詩帆は深く息を吐く。


そのとき、隣に気配が落ちた。
制服の肩が、視界の端に見える。
驚いて顔を向けると、懐かしい制服に白いマフラーを巻いた青年が、
当たり前のような顔で座っていた。
前髪が少し長く、伏せた横顔は真面目そうで、どこか幼い。
胸が、ひゅっと縮む。
「……え?」
声にならないささやきは無視される。
青年は前を見たまま、小さく息を吐いた。
「座って待ってるとさ、世界が少し止まる気がするんだよね」
その言い方も、声の低さも、知っている。
れんだ。三年のとき、毎朝このベンチで隣に座っていた同級生。
話したことはほとんどないのに、電車が来るまでの沈黙だけ、なぜか心地よかった人。
ありえない。彼はもっと――
瞬きをすると、空の色が変わっていた。
春に向かう白い日差しが、急に夕焼けのように赤く染まった。
風がベンチの端を撫で、どこかでススキの穂が鳴った。
ホームの向こうには、紺のセーラー服を着た少女が立っている。
それは高校時代の詩帆だった。
高く結んだポニーテール、重たそうな鞄。
斜めに下を向いて、イヤホンを指でいじっている仕草まで、記憶のまま。
現在の詩帆は、声を失ったままベンチに座っている。
隣の蓮だけが、彼女のほうをちらりと見た。


「知ってる?このベンチ」
彼の優しい問いかけに、詩帆は息を飲む。
「むかし、“帰らない人”が座ってたんだって。
電車を待ってるのに、ずっと乗らない人」
「……怖い話?」
ようやくそれだけ絞り出すと、蓮はふっと笑った。
「違うよ。たぶん、“帰りたくなかった人”の話」
彼は身をかがめ、ベンチの下に指を伸ばす。
そこから取り出したのは、角の擦れた切符だった。
この駅から隣町までの、古い硬券。
「これ、落としただろ。ずっと返しそびれてた」
詩帆の喉が詰まる。
あの日の夕方。部活帰りに定期を忘れ、買ったばかりの切符を落として、ひどく慌てた。
ホームで拾い上げた蓮が、声をかけようとしてやめた、その姿まで覚えている。
「……どうして、今それを?」
問いかけた瞬間、アナウンスが鳴り響いた。
『大雨の影響により、上り電車は当駅を当分のあいだ発車いたしません』
その放送は、聞き覚えがあった。
高校三年の秋、突然の豪雨で電車が止まり、
詩帆と蓮はこのベンチで並んで座ったまま、沈黙の長い時間を分け合った。
「あーあ、止まっちゃったね」
蓮が、小さな声で言う。
「世界も、電車も」
彼の横顔を見つめると、胸がじんと痛む。
今ここにいるのは三十代の詩帆なのに、心のどこかが十七歳に戻っていく。


“……そのあと、どうなったんだっけ”
自分に問うても、記憶は途中で途切れている。
大雨の日。長い待ち時間。途中まで並んで歩いた踏切。
翌週、蓮の席は空のままだった。
転校、と聞いた。事故だった、という噂もあった。
真相は、誰もはっきり言わなかった。
「――本当はさ」
蓮がぽつりと言う。
「送っていきたかったんだよ、あの日。君の家まで。でも、言えなかった。勇気がなくて」
蓮の声が遠のく。
「そのまま終わっちゃってさ。だから、ここに残ったんだと思う」
「残ったって……」
「君が心のどこかで“いつもの場所”を忘れないでいてくれたから、かな」
蓮は、ようやく詩帆のほうをまっすぐ見た。
その瞳は、懐かしいほど澄んでいて、透明だった。
ホームの向こう、制服姿の詩帆がゆっくりと電車に乗り込む。
その姿が揺らぎ、溶けていく。現在と過去が重なり、ほどけていく。
秋の風が吹き抜けた。
詩帆はふと気づく。足元に伸びた自分の影の隣に、蓮の影だけがない。
怖さより先に、悔しさが込み上げた。
「ねぇ蓮。私、あなたのこと、好きだったよ」
ようやく言えた言葉は、思いのほか静かだった。
蓮は目を見開き、それから少年みたいに笑った。
「知ってるよ」
遠くから列車のライトが近づいてくる。現実の、今の時間だ。
「やっと言ってくれた」
微笑む蓮をライトが照らし、詩帆の視界を白く塗りつぶす。
電車がホームに滑り込む直前、蓮は立ち上がった。
「じゃあ、行くよ」
「どこに?」
「君を、もう待たなくていい場所まで」 


その言葉の意味を問う前に、風が巻き起こる。
電車のドアが開き、人々が乗り降りする。
詩帆は立ち上がり、思わず彼の腕を掴もうとしたが、指先は何も捉えない。
ふと足元を見る。
一瞬だけ、ベンチの上に、蓮の影が残っていた。
夕陽に細く伸びる黒い輪郭が、ふっと揺れて消える。
ドアが閉まる音が響く。
「ありがとう」
誰かが、小さくそう言った気がした。
詩帆はベンチに視線を落とす。
古びた硬券が一枚、そこに置かれている。
拾い上げると、指先にかすかな温もりが残っていた。
次の電車まで、あと二十分。
詩帆は切符を大切に握りしめ、もう一度ベンチに座った。
一筋の涙が頬を伝う。
誰もいないホーム。
そこには、世界が静かに呼吸していた。
世界はもう止まっていない。

心のどこかで、あの日大好きだった蓮が笑っている。
――また、いつもの場所で。
彼の声は、あの時の秋の風と一緒に、静かに消えていった。
空は、ゆっくりと薄桃から藍へと変わっていく。
夕映えが、潮の匂いとともに駅を染めていた。


その夜、詩帆は実家のクローゼットを片づけながら、小さな木箱を見つけた。
懐かしい、古びたオルゴール。
“これ、あったっけ?”
埃を払って蓋を開けると、錆びたゼンマイがかすかに動いた。
――チリ、チリ、チリ……。
流れ出した旋律に、詩帆の胸が震える。
懐かしい、どこかで聴いた音。でも、音が飛んでる。
駅のベンチの風の匂い、秋の朝、そしてあの声。
窓の外から、遠く汐の音がした。
まるで、海がオルゴールを真似ているみたいに。
詩帆は微笑む。
もう、“いつもの場所”に彼はいない。
でも、音はまだ、あの日の続きを奏でようとしていた。

◇◇◇—◇◇◇—◇◇◇

✒️ 作者のあとがき
お読みいただきありがとうございました。
こちらは来年以降投稿予定の連載小説の一部を、 #いつもの場所に座って 投稿企画用(読み切り)に改稿しました。台詞多めなので、文体もいつもより読みやすさを意識して仕上げました。noteで現代を舞台とした小説を書くのは初めてですが、皆さんが過去に大切にしていた『いつもの場所』を思い出していただけるきっかけとなったら、嬉しく思います😊

大変ご好評をいただいたので、別の作品を公開させていただくことにしました。どちらの作品が好きか、お時間があればぜひ読み比べてみてください👇

オカムラ×noteの「#いつもの場所に座って」投稿コンテストはこちらからどうぞ👇

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