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第6話 『温度のわからないスープ』

第5話


第6話 「不協和音のタイマー」


 三浦が持ち込んだ銀色のパウチや冷凍野菜は、いまだ厨房の隅に積まれたままだった。
 高峰は一度も触れない。
 三浦も、もう勧めなかった。代わりに、自分の持ち場にだけ小さなタイマーを増やしていった。
 ボイル用、オーブン用、レスト用。気づけば金属の作業台には、小さな液晶の数字がいくつも並んでいた。
 その数字が増えるほど、二人の会話は減っていった。同じ厨房に立っているのに、温度の層がわずかにずれていくのがわかった。

 三浦は、折れてはいなかった。
 高峰には口を出さない。その代わり、任された工程の中で、合理化を始めた。迷いを消していった。
 ステラで見た現場は、誰か一人の技術ではなく、仕組みそのものが完成度を保証していた。三浦にとってそれは救いだった。誰かが無理をしなくても店は回る。その感覚だけは、この店にも持ち込みたかった。

「……佐久間君、これ」
 仕込みの最中、三浦が佐久間の手元に小さなデジタルタイマーを置いた。
「高峰さんは感覚でやれと言うだろうけど、僕らにはまだ無理だ。せめて野菜のボイルだけでも、これで時間を固定しよう。そうすれば、僕が他の作業を手伝っている間も、君一人でミスなく回せる」

 三浦の言葉は、今の佐久間には甘い誘惑のように響いた。
 高峰の「背中を見て盗む」修行は、あまりに不透明で、終わりが見えなかった。三浦が示す「数字」という基準は、その曖昧さに輪郭を与えた。ボタンを押すたびに、肩の力が抜け、手元の動きが少しだけ速くなる。

 それは、三浦が外で見てきた、誰も取り残さないためのやり方だった。
 佐久間は高峰の目を盗むようにして、タイマーのボタンを押すようになった。
 最初のうちは、うまくいっているように思えた。仕上がりは揃い、何も言われずに通ることが増えた。
 だが、その「確かなはずの数字」が、徐々に高峰の求める「音」とズレ始めていく。

「……佐久間。上げるのが遅い」
 高峰が、振り返りもせずに言った。
 佐久間は動揺して、タイマーの液晶を手で隠した。三浦が設定した「完璧なはずの三分」が、ちょうど過ぎたところだった。
「あ、でも……三浦さんの計算だと……」
「三浦じゃない。鍋を見ろと言っている」
 高峰が、濡れた布巾を調理台に叩きつけた。
「今日のキャベツは水分が多い。数字で計った三分と、この鍋の中で起きている三分は別物だ。お前はどっちの『正解』を信じてるんだ」
 佐久間は立ち尽くした。
 三浦の言う通りにすれば、仕事は正確に終わり、三浦は笑って肩を叩いてくれる。肉体的にも精神的にも、今のほうがずっと「楽」だ。しかし、その正解を選ぶたびに、高峰を裏切っているような薄ら寒い感覚が拭えなかった。

 一方の三浦も、自分の居場所を必死に守ろうとしていた。
 三浦は、隙を見つけては佐久間に数字を渡した。
 反抗ではない。外で見た「正しさ」を手放した瞬間、自分が何者でもなくなる気がしていた。正しいはずの数字に触れていると、自分の輪郭だけは保てた。
 だが、その輪郭が少しずつ硬くなっていくのも感じていた。

 厨房を流れる空気が、二つの異なる基準によって引き裂かれていった。
 かつては高峰のリズムに全員が必死で食らいつく、一つの荒々しい合奏のようだったこの場所が、今は、三浦が刻むメトロノームのような正確なタイマーの音と、そこから敢えて外れようとする高峰の独奏が、佐久間の耳の中で不快にぶつかり合っている。

 夜の営業中、佐久間は皿に盛り付けられた野菜を見つめた。三浦のタイマーどおりに上げた、鮮やかな色の野菜。だが高峰は、さっきそれを見て眉をひそめた。何が違うのか、佐久間にはまだわからなかった。

 自分が今、どちらの側に立っているのか。どちらの温度を信じれば、この厨房で生き残れるのか。
 基準が剥離していく音だけが、包丁の音に混じって、佐久間の耳の奥で不快に鳴り続けていた。

 かつて一つの「聖域」だった場所は、今、互いの正しさを証明するための、冷え切った「検証場」に変質しつつあった。

 タイマーが鳴る。
 高峰はその音を無視して鍋を混ぜた。
 佐久間だけが、止めるべき火口の前で立ち尽くしていた。



第7話につづく




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