第5話 『温度のわからないスープ』
第5話 「持ち帰られた正解」
一週間ぶりに戻った厨房は、天井が低く感じた。
光の強いStellarに慣れた目には、焔の影がいつもより深く沈んで見えた。
肩に落ちる空気の重さが、戻ってきた場所の温度を静かに思い出させた。
都心の旗艦店、Stellarで三浦が浴びてきたのは、効率化された動線と、ロスを「罪」と定義する徹底した合理化の世界だった。
熟練の職人でなくとも合格点を出せるシステム。その前では、高峰の背中が少しだけ暗く見えた。
三浦の鞄には、研修先で手に入れたマニュアルのコピーが入っていた。
自分が苦労して身につけてきた技術の多くが、最新のシステムで代替可能だと知った時の衝撃が忘れられない。
(このままじゃ、この店は終わる)
その焦燥感が、三浦を突き動かしていた。
「……三浦、そっちの仕込みを頼む」
高峰の低い声が響く。
「はい。……あ、高峰さん。その人参、これに変えませんか」
三浦は作業台に、冷凍のシャトー人参を置いた。
「ボイルしてグラッセにすれば味は調整できます。佐久間君が毎朝早く来て仕込む必要はなくなりますし、歩留まりもいい」
高峰の手が止まる。剥きかけの人参を持った佐久間が息を呑んだ。
「そのソースのベースもです」
三浦はさらに、研修先で使われていた銀色のパウチを並べた。
「外注のフォンドボーです。煮込み時間を大幅に短縮できます。ステラでもこれで回転率を上げていました。これなら、僕らでも高峰さんの味を安定して再現できるんです」
ステラで見た均一な皿の列が、脳裏にちらつく。
あれなら救える、と胸の奥がわずかに動いた。
この店の未来を、自分の手で変えられる気がした。
高峰を休ませたい。佐久間を救いたい。誰が欠けても潰れない「仕組み」に変えたい。それは、三浦が見つけてきた、この店を救うための「福音」だった。
高峰はパウチには目を向けず、三浦の顔を、未知の食材の鮮度を確かめるような目で見つめた。
「……好きにしろ。ただし、味が落ちたと思ったら、俺は客に出さない」
それが「焔」という場所のルールだと言わんばかりの、拒絶だった。
その日から、三浦は止まらなかった。迷えば元に戻る気がして、合理化を次々と入れていった。
段ボールが積まれ、タイマーが頻繁に鳴る。佐久間は最初こそ戸惑ったが、数字で管理できる作業に、次第に安堵の色を見せるようになった。
その日の夜、まかない。
三浦が合理化の限りを尽くした一皿を、三人で囲んだ。
「……美味しいです。すごく整っていて、綺麗な味がします」
佐久間はそう言ったが、パンで皿を拭う手を途中で止めた。
「でも、なんて言うか……喉を通った後、すぐに消えちゃうんです。いつものみたいな、口の中に残る深さがないというか」
三浦も、自分の料理を口に運んだ。
一口目は「正解」だ。だが、二口、三口と進むうちに、言いようのない物足りなさが襲う。冷凍野菜の拭えない水っぽっさ。パウチソースの均一な旨味。それらは、生の野菜を仕込み、ベースの「機嫌」を窺いながら煮詰めていた時の、重層的な奥行きを削ぎ落としていた。
三浦の料理は、八十点の「製品」だった。
しかし、客の記憶に爪を立てるような「意志」が、そこにはなかった。
高峰は、その料理に一度もスプーンを伸ばさなかった。
翌朝、三浦が店に入ると、高峰はすでに仕込みに入っていた。
三浦が代用したはずの工程をすべて無視し、不揃いな人参を一本ずつ、無言で面取りしている。
高峰の手元に、いつもより張りつめた静けさがあった。
高峰は他の野菜の下処理を終えると、魚用のまな板の前に立った。
その背中は、何かを拒むように揺れなかった。
「……三浦。お前の持ってきたあれは、食い物ではある。だが、ただの『補給物資』だ」
包丁を動かしたまま、前を向いて言う。 声は低いが、刃の音よりもはっきりと響いた。
「お前の効率化は認める。だが、あの料理を、俺の料理とは呼ばせねえ」
まな板の上で、真鯛の身が静かに開かれていく。
その精密な動きが、三浦の正解をひとつずつ揺らしていくようだった。
三浦は何も返さなかった。
高峰の言葉が落ち、三浦の中の温度がわずかに沈んだ。
一人が欠ければ終わる店と、誰でも代わりがきく仕組み。
二つの正義のあいだに、埋めようのない温度の差が、静かに横たわっていた。
その冷たさは、触れれば砕けてしまいそうなほど脆く、けれど確かだった。
(第6話につづく)
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