第4話 『温度のわからないスープ』
第4話 「別の正解」
昨夜のまかないの後、石田に呼び出された。
「三浦、一週間だけでいい。向こうの店を見てきてくれないか。お前の目で見てきてほしい」
石田の言葉は穏やかだったが、それは事実上の命令だった。
高峰の「属人性」というリスクを指摘した直後の打診。石田が自分に何を期待しているのか、三浦には痛いほどわかった。
そうして訪れたその店は、ガラス張りの外観からして高峰の店とは対極にあった。
都心のビル街、昼時には迷いなく吸い込まれていくビジネスパーソンの群れ。石田が経営する多店舗展開の旗艦店の一つ、『Stellar』は、清潔で、効率的で、何より「明るい」場所だった。
三浦は借りてきたばかりのコックコートの袖を正し、厨房の入り口に立った。
「……三浦です。今日から一週間、お願いします」
挨拶を返したのは、高峰よりずっと若い、そして瞳がまっすぐな店長だった。
「ああ、聞いてます。うちはスピード命ですから、戸惑うかもしれませんが。とりあえずデシャップで全体の流れを見てみてください」
営業が始まると同時に、厨房の「音」が三浦を包み込んだ。
それは高峰の厨房にある、あの静謐な包丁のリズムではなかった。
電子音が短く響く。
注文がモニターに映し出され、スタッフが淀みなく動き出す。
高峰の店なら、高峰一人が背負う「判断」のすべてが、ここではマニュアルとタイマーに分散されていた。肉の焼き加減も、ソースの量も、盛り付けも。大事なのは、誰が包丁を握るかではなく、システムが狂わず回ることだった。
三浦はデシャップの前に立ち、次々と上がってくる皿をチェックした。
一皿目、整っている。
二皿目、一皿目と同じ形。
十皿目、やはり同じ。
そこには「高峰の指先」のような研ぎ澄まされた芸術性はなかった。
けれど、狂いもない「標準」が、途切れずに流れてくる注文を次々と捌いていく。
三浦は、ステラの厨房を支配するその光景に、言葉を失っていた。
何より三浦を驚かせたのは、厨房のスタッフたちの表情だった。
そこには、高峰の厨房に漂う、あの静かな緊張がない。
誰も高峰の背中を窺い、その沈黙に怯える必要がないのだ。
「……三浦さん、手が止まってます。次、お願いします」
店長に促され、三浦はハッとして皿を手に取った。
ランチタイムの喧騒が一段落したころ、三浦はバックヤードで売上報告の数字を偶然目にした。
焔の、数倍の数字がそこには並んでいた。
薄利多売ではない。適切なコスト管理と、徹底したロス削減。属人性を排除したからこそ実現できる、盤石な「経営」という名の正義。
ふと見れば、スタッフたちは和気あいあいと休憩に入り、一人の欠員が出ても回るようにシフトが組まれていた。石田が言った「ハラハラ」が、ここには存在しない。
三浦は、備え付けのサーバーから注がれたスープを口にした。
味は、普通だった。
高峰のスープのような、心の奥を震わせる深い余韻はない。
けれど、その「普通」が、一日数百人の空腹を満たし、スタッフの生活を支え、店を明日へ繋げている。
石田が言った「バックアップ」の正体を、三浦は突きつけられた気がした。
高峰という一人の天才が、削れるような思いで作り出す最高の一杯と。
誰の犠牲も必要とせず、安定して提供され続ける、静かに満たすだけの一杯。
店を、そしてそこで働く人間を守るために、どちらが正しいのか。
数字という冷徹な証拠を前にして、三浦の価値観が揺らぎ始めた。
「……三浦さん、お疲れさまです。明日もこのペースでお願いしますね」
店長の爽やかな声が、厨房に響く電子音に混ざる。
三浦は「はい」と答えながら、自分の指先をじっと見つめた。
もし、焔にこの「正義」が持ち込まれたら。
あの静かな厨房も、研ぎ澄まされた高峰の背中も、そして憧れている佐久間も、すべてがこの明るい光の中に塗りつぶされてしまうのではないか。
外に出ると、夕暮れの街はまだ明るく、人の声が途切れなかった。
その明るさの中で、指先だけが冷えていくようだった。
三浦はポケットのハンカチを取り出した。
だが指先が探していたのは、焔のデシャップにいつも置かれていた、乾いたクロスの手触りだった。
(第5話につづく)
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