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第4話 『温度のわからないスープ』

第3話


第4話 「別の正解」


 昨夜のまかないの後、石田に呼び出された。
「三浦、一週間だけでいい。向こうの店を見てきてくれないか。お前の目で見てきてほしい」
 石田の言葉は穏やかだったが、それは事実上の命令だった。
 高峰の「属人性」というリスクを指摘した直後の打診。石田が自分に何を期待しているのか、三浦には痛いほどわかった。

 そうして訪れたその店は、ガラス張りの外観からして高峰の店とは対極にあった。
 都心のビル街、昼時には迷いなく吸い込まれていくビジネスパーソンの群れ。石田が経営する多店舗展開の旗艦店の一つ、『Stellarステラ』は、清潔で、効率的で、何より「明るい」場所だった。

 三浦は借りてきたばかりのコックコートの袖を正し、厨房の入り口に立った。
「……三浦です。今日から一週間、お願いします」
 挨拶を返したのは、高峰よりずっと若い、そして瞳がまっすぐな店長だった。
「ああ、聞いてます。うちはスピード命ですから、戸惑うかもしれませんが。とりあえずデシャップで全体の流れを見てみてください」

 営業が始まると同時に、厨房の「音」が三浦を包み込んだ。
 それは高峰の厨房にある、あの静謐な包丁のリズムではなかった。
 電子音が短く響く。
 注文がモニターに映し出され、スタッフが淀みなく動き出す。
 高峰の店なら、高峰一人が背負う「判断」のすべてが、ここではマニュアルとタイマーに分散されていた。肉の焼き加減も、ソースの量も、盛り付けも。大事なのは、誰が包丁を握るかではなく、システムが狂わず回ることだった。

 三浦はデシャップの前に立ち、次々と上がってくる皿をチェックした。
 一皿目、整っている。
 二皿目、一皿目と同じ形。
 十皿目、やはり同じ。

 そこには「高峰の指先」のような研ぎ澄まされた芸術性はなかった。
 けれど、狂いもない「標準」が、途切れずに流れてくる注文を次々と捌いていく。
 三浦は、ステラの厨房を支配するその光景に、言葉を失っていた。
 何より三浦を驚かせたのは、厨房のスタッフたちの表情だった。
 そこには、高峰の厨房に漂う、あの静かな緊張がない。
 誰も高峰の背中を窺い、その沈黙に怯える必要がないのだ。

「……三浦さん、手が止まってます。次、お願いします」
 店長に促され、三浦はハッとして皿を手に取った。
 ランチタイムの喧騒が一段落したころ、三浦はバックヤードで売上報告の数字を偶然目にした。
 焔の、数倍の数字がそこには並んでいた。

 薄利多売ではない。適切なコスト管理と、徹底したロス削減。属人性を排除したからこそ実現できる、盤石な「経営」という名の正義。
 ふと見れば、スタッフたちは和気あいあいと休憩に入り、一人の欠員が出ても回るようにシフトが組まれていた。石田が言った「ハラハラ」が、ここには存在しない。

 三浦は、備え付けのサーバーから注がれたスープを口にした。
 味は、普通だった。
 高峰のスープのような、心の奥を震わせる深い余韻はない。
 けれど、その「普通」が、一日数百人の空腹を満たし、スタッフの生活を支え、店を明日へ繋げている。
 石田が言った「バックアップ」の正体を、三浦は突きつけられた気がした。
 高峰という一人の天才が、削れるような思いで作り出す最高の一杯と。
 誰の犠牲も必要とせず、安定して提供され続ける、静かに満たすだけの一杯。

 店を、そしてそこで働く人間を守るために、どちらが正しいのか。
 数字という冷徹な証拠を前にして、三浦の価値観が揺らぎ始めた。
「……三浦さん、お疲れさまです。明日もこのペースでお願いしますね」
 店長の爽やかな声が、厨房に響く電子音に混ざる。
 三浦は「はい」と答えながら、自分の指先をじっと見つめた。

 もし、ほむらにこの「正義」が持ち込まれたら。
 あの静かな厨房も、研ぎ澄まされた高峰の背中も、そして憧れている佐久間も、すべてがこの明るい光の中に塗りつぶされてしまうのではないか。

 外に出ると、夕暮れの街はまだ明るく、人の声が途切れなかった。
 その明るさの中で、指先だけが冷えていくようだった。

 三浦はポケットのハンカチを取り出した。
 だが指先が探していたのは、焔のデシャップにいつも置かれていた、乾いたクロスの手触りだった。


第5話につづく




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