第3話 『温度のわからないスープ』
第3話 「まかないの味」
営業が終わると、厨房の熱はゆっくりと引いていった。
さっきまで火口の上で暴れていた炎は消え、五徳に、火の温度だけがまだ残っていた。
BGMも消え、お客のいない客席では、ホールスタッフが片付ける皿の音がしている。
佐久間は、洗い物を拭きながら小さく息を吐いた。
腕も脚も重く、肩の奥だけがまだ熱かった。
「初日みたいな顔してるね」
三浦が笑いながら、濡れた手をタオルで拭いた。
「そんなにひどいですか」
「いや、真面目ってこと」
「それ、褒めてます?」
「半分くらいは」
三浦は声を立てずに笑った。疲れているはずなのに、その笑い方だけは軽い。
高峰はシンクの前で鍋を洗っていた。袖を少しだけまくり、黙ったままスポンジを動かしている。
そのとき、客席側の扉が開いた。
「まだやってるか」
入ってきたのは石田だった。五十代半ば。
シャツの袖を無造作に折り、ネクタイはしていない。店に現れるとき、石田はたいていそんな格好だった。
「石田さん、お疲れさまです」
三浦がすぐに声を返す。
「お疲れ。今日どうだった」
「予約一件キャンセル。でもなんとか埋まりました」
「じゃあ上出来だな」
石田はそう言って、カウンターの椅子を一脚引いた。座る前に、テーブルの位置を指先でわずかに直す。その動きに無駄がなかった。
「相変わらずいい店だ。『焔』は、いつ来ても背筋が伸びるよ」
佐久間は慌てて頭を下げた。
「お、お疲れさまです」
「新人くんか」
石田は穏やかな目で佐久間を見る。
「続けられそうか?」
突然聞かれ、佐久間は言葉に詰まった。
「えっと……がんばります」
「そういう返事するやつは、だいたい真面目だな」
三浦が吹き出した。
「この子、朝からずっとこんな感じです」
「顔に出るタイプか」
佐久間の耳が赤くなる。
高峰は鍋を置き、冷蔵庫からボウルを取り出した。昼に余った野菜と肉が入っている。無言のまま火口に鍋をかけ、水と少しの出汁を足した。
三浦がにやりとする。
「お、今日は高峰さんのまかないですか?」
「腹が減っただけだ」
「はいはい」
石田が笑いながら訊ねる。
「俺の分もあるか?」
高峰は鍋を見たまま答えた。
「食べるなら、座って待っててください」
その言葉に、三浦が肩を揺らして笑う。
「ちゃんとあるって意味です」
「通訳がいる店だな」
石田は楽しそうだった。
鍋が温まり、湯気が静かに揺れた。野菜の甘い匂いと、肉の脂の匂いが混ざり、厨房に温もりが戻っていくようだった。
佐久間の腹が鳴った。
三浦が聞き逃さずに言う。
「素直でいいねえ」
「すみません……」
「なんで謝るの?」
また笑いが起きた。
高峰は皿を並べ、スープをよそった。営業中の盛りつけほど鋭くはないが、それでも無駄がない。具材の位置まで自然に整っている。
四人はカウンターに並んで座った。
「いただきます」
三浦が先に言い、石田も続く。
佐久間は少し遅れて頭を下げ、スプーンを口に運んだ。
熱かった。野菜は柔らかく、肉の旨味が静かに広がる。見た目は飾らないのに、雑味がない。
「……うまいです」
思わず漏れた声に、自分で驚いた。
高峰は何も言わない。だが、水を飲む手が一度だけ止まった。
三浦がすぐに拾う。
「今、嬉しかったですよね」
「別に」
「出ました」
石田が小さく笑う。
「相変わらずわかりやすいな、お前ら」
石田がスープを飲み干し、ふぅと息を吐いて高峰を見た。
「……相変わらずいい味だ。だが高峰、お前、最近ちょっと抱え込みすぎてないか?」
三浦の手が止まる。高峰は視線を上げない。
「……気のせいですよ」
「そうか? この店がお前でもってるのは分かる。だが、それじゃ危うい」
石田はそう言って、冗談めかして三浦を見た。
「三浦、お前からも言ってやってくれ。こいつが倒れる前に、俺たちでバックアップを考えておかないとな」
「……そうですね。考えておきます」
三浦は軽く笑って応じた。
だが、その言葉の端には、石田が投げた「属人性」という現実的な課題が、確かな重みを持って残った。
三浦はそれ以上何も言わず、残っていたスープを最後の一滴まで、ゆっくりと飲み干した。
佐久間が全員の皿を重ね、立ち上がろうとすると、高峰が低い声で制した。
「置いとけ。あとでやる」
「え、でも」
「明日、少し早く来い」
短い一言だった。けれど、それは高峰が初めて佐久間の「場所」を認めた合図のように聞こえた。
「……はい」
返事をした佐久間の声は、前よりまっすぐだった。
店の外に出ると、夜風が頬をかすめた。昼の熱気とは違う、薄い冷たさだった。
振り返ると、店の灯りはまだ点いていた。
明日は少し早く来る。
それだけを考えて、佐久間は駅まで歩いた。
(第4話につづく)
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