第2話 『温度のわからないスープ』
第2話 「形」
昼の仕込みがひと段落したころ、換気扇の低い音に、煮込み鍋の湯気が重なった。
白い蒸気はゆっくりと天井へ昇り、途中でほどけて消える。
佐久間はまな板の前で、人参を手にしていた。シャトーに整える。昨日よりは落ち着いているが、刃先がかすかに震える。
「もっと刃先を使って。卵の殻をなぞるイメージで」
三浦の声は柔らかい。
佐久間は「はい」と返し、角度を変える。だが、力が入りすぎて、削りすぎた部分が一つできた。
三浦は小さく息を漏らした。
「少し、深い」
「……すみません」
佐久間は視線を落とし、指先を擦った。緊張すると必ず出る癖だ。
ふと見ると、高峰はもう鯛を下ろし終え、まな板を洗い、次の食材をもう手元に並べていた。
「佐久間」
名前を呼ばれた瞬間、佐久間の肩がわずかに跳ねる。
「はい」
「包丁ばかり見るな。形を見るんだ」
高峰は視線を向けずに言った。
佐久間は意味が掴めず、三浦を見る。
三浦は肩をすくめ、人参を一本手に取った。
「こういうこと」
三浦は包丁を軽く構え、刃を入れた。特別な動きはない。ただ、刃が迷わず進む。
「完成の形を頭に置いて、一気に剥く。迷うと、刃が何度も入って形が崩れる」
削られた面は、綺麗なシャトーの形だった。
佐久間は深く息を吸い、もう一度包丁を握り直した。
今度は、切る前に人参の形を一度だけ確かめる。
刃を入れる。さっきよりも形は揃っているが、刃の入りが少し浅い。
高峰はもう次の仕込みに移っていた。その背中だけ別の速度で時間が流れているようだった。
高峰は、まな板を洗いながらちらりと佐久間を見た。
「切れ端と形の崩れたやつは、まかない用に分けておけ。スープに使う」
ランチが始まると、厨房の空気は一気に速度を上げた。注文票が通り、三浦の声が飛ぶ。
「佐久間君、前菜三つ。葉物先に盛って」
「はいっ」
返事とは裏腹に、手は追いつかない。
トングでつかんだ葉が皿の外へこぼれ落ちる。
「慌てなくていい。皿の真ん中に高さを作って」
その奥では、高峰がフライパンを返しながら、別の鍋の火加減まで見ていた。
振り向きもしないまま言う。
「そのトマト、置く場所が違う」
佐久間ははっとして手を止めた。
営業が落ち着くと、厨房に再び静けさが戻った。
鍋の火を弱める音、皿を重ねる音が、ゆっくりと空気に落ちていく。
短い休憩のあと、客席の照明が落とされた。
カウンターには低くやわらかな灯りだけが残る。磨かれたグラスが小さく光り、『焔』は昼とは違う顔を見せる。
最初の客が扉を開ける。
ディナー営業では、昼のような慌ただしさはない。
その代わり、一皿ごとの重みが増していた。フライパンの音も、皿を置く音も、静かな店内ではやけに鮮明に響く。
「佐久間君、これ盛ってみて」
三浦が差し出したのは、バーニャカウダの野菜だった。
「はい」
佐久間は皿の上に野菜を並べる。
数は合っている。だが、置き終えた皿はどこかバランスが悪い。
三浦は何も言わず、手を加えた。
「こればっかりは、感覚なんだよね」
佐久間は息をのみ、置き直した。
同じ野菜でも、さっきより鮮やかに見えた。
その奥で、高峰は肉を焼いていた。
アロゼをする所作も、昼の速さとは違う静かな鋭さがあった。
「皿、出せるか」
「はい」
佐久間は皿を差し出す。
高峰は一瞬だけ目を落とし、無言でソースを引いた。それだけで、皿の輪郭が引き締まった。
営業が進むにつれ、佐久間の手つきから昼の慌てた硬さが少しずつ抜けていった。
最後の客が帰るころ、店内の灯りも半分落ちていた。
洗い物をしながら、佐久間は何度か手を止めた。高峰が近くを通るたび、無意識に視線がそちらへ向かう。何か言われるのではないかと、身体が先に反応してしまうのだ。
だが、高峰は何も言わなかった。 ただ一度だけ、佐久間の手元を見て、また自分の作業に戻った。
その一瞬の視線に、佐久間の指がわずかに止まる。
「今日、どうでしたか」
勇気を振り絞って声をかけると、高峰は手を止めずに答えた。
「……昨日よりは、ましだ」
それだけだった。 だが、佐久間の表情は少しだけ明るくなる。
三浦が横から小さく笑う。
佐久間は、また皿を洗い始めた。
厨房の空気は、朝よりも柔らかかった。
高峰は言葉にしない。
ただ、包丁を拭く手の動きが、いつもよりわずかにゆっくりだった。
(第3話へつづく)
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