第11話 『温度のわからないスープ』
第11話 「焔」
開店一時間前。
三浦は厨房の隅で、旧式のコンベクションオーブンの前に立っていた。
扉の隙間から漏れる熱を掌で確かめ、温度計を睨む。横で佐久間が、ボウルを抱えたまま三浦の指先を凝視していた。
「三浦さん、本当にそれで焼くんですか」
「ああ。予熱のムラは把握した」
三浦は視線を外さずに答える。
「佐久間君、タイマーを三つ用意してくれ。ボイル、火入れ、レストだ。指示した瞬間に――」
「――もうセットしてあります」
佐久間の声が、三浦の言葉を遮った。
「野菜もバットに広げました。それで、今日のカモのガルニ、ビーツに変えませんか。見た感じ根セロリより状態がいいです」
三浦は一瞬、手を止めて佐久間を見た。あの怯えた目は、今は鍋の沸き立ちだけを追っている。
「……いい判断だ。それでいこう」
佐久間は短く「はい」と返し、自分の持ち場へ走った。
高峰は、中央のコンロで大きな寸胴鍋に向かっていた。
立ち上る蒸気の中に、高峰の痩せた肩が沈んでいる。その背中には、いつもよりわずかに静かな火の気配があった。
蒸気の向こうで揺れる火は、いつもより落ち着いて見えた。彼は一度だけ三浦の背中を見たが、何も言わずにレードルでソースの状態を確かめた。
営業が始まる。
客席には石田がいた。予告もなくカウンターに座っている。その存在が、開いたばかりの伝票に目に見えない重みを与えていた。
「スズキ一点、カモ一点。八分後、カモ入れます」
三浦の声が厨房を走る。
佐久間がタイマーを叩く。電子音が鳴るのと同時に、三浦がオーブンの扉を開けた。逃げる熱量を最小限に抑える動き。リソレした肉を指で押し、戻りを確かめる。
高峰は、鍋の前から動かなかった。
普段なら焼き場の動きに気を取られ、何度も首を振る彼が、今日は一度も振り返らない。三浦が刻む正確な時間を信じ、ただひたすらにソースを煮詰め、酸の角を整え、味の核心だけを追い求めていた。
オーブンが鳴る。
三浦が肉を取り出した。
「高峰さん、お願いします」
高峰が包丁を入れる。刃先が肉を滑る感触、まな板に残る肉汁の量。高峰は一瞬だけ手を止め、それから一気にソースを回しかけた。
石田の前に皿が運ばれた。
三浦は作業を続けながら、耳の端でホールの音を拾っていた。
石田は何も言わない。
ナイフの音だけが、客席に小さく響いた。
営業終了後。
石田は三人をカウンターに座らせた。テーブルには、一束の書類が置かれたままだった。
「……三浦」
石田が、低く言った。
「この前のままなら、この店を潰していた。客に迷いを食わせる店に、価値はない」
三浦は、作業着の袖を握りしめ、石田を真っ直ぐに見つめた。
「だが、今日なら残せる。高峰の才を、お前が回る形にしていた。……まだ危ういが、面白い」
石田は書類を手に取り、無造作に鞄へ押し込んだ。
「改装は白紙だ。ステラの名もここにはいらない。だが、三浦。そのマニュアルだけは完成させろ。それは代わりを見つけるための道具じゃない。次に誰かが入ってきたとき、迷わずこの場所に立てるための『地図』だ」
石田は立ち上がり、厨房の奥に並ぶ二人を交互に見た。
「高峰。いい相棒を見つけたな」
高峰は鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「……ただの、生意気な盾ですよ」
三浦は苦笑して、高峰の横に並んだ。
「盾がないと、剣が折れるんでしょう?」
石田が去ったあとの厨房は、また元の静けさに戻った。
三浦は、自分の指先がまだ微かに震えていることに気づいた。
その震えは、ようやく掴みかけたものの余熱に近かった。達成感よりも、背負ったものの重さが、じわりと指先に残っていた。
「……三浦さん」
佐久間が、シンクの前でこちらを見ていた。
「僕、もっとできるようになりたいです。マニュアルの数字を、自分の体で追い越したい」
三浦は笑わず、ただ小さく頷いた。
「……きついぞ。僕だってまだ、入り口に立っただけだ」
換気扇の音がゆっくりと止まっていく。
厨房には、熱の名残と、それぞれの仕事の匂いが漂っていた。
高峰の包丁が、砥石の上で擦れる。
三浦は、その音の邪魔をしないように、残ったワインのコルクを閉めた。
(最終話に続く)
いいなと思ったら応援しよう!
いつもありがとうございます。