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第10話 『温度のわからないスープ』

第9話


第10話 「共鳴」


「だったら、今やるぞ」

 深夜三時。
 高峰は奥の更衣スペースへ消えた。ほどなく白いコックコート姿で戻ってくる。袖を無造作に二度まくり、厨房の中央に立つ。三浦は思わず背筋を伸ばした。

 止まっていた厨房が、ゆっくりと、だが確かに動き始める。

 客席は闇に沈み、灯りのついた厨房だけが夜の底で小さく息をしていた。冷蔵庫の低い駆動音が、静まり返った店内をゆっくり這っていく。

 三浦は厨房の隅に追いやられていた古いコンベクションオーブンの前に立った。高峰が癖の強さを嫌い、長らく脇役に退いていた旧式の機械だ。
「それを使う気か」
「はい。癖があるなら、癖ごと使います」

 三浦は迷いなく温度計を差し込み、庫内の熱の流れを確かめた。上段と下段、奥と手前。ダイヤル一つで揺れる温度差。その癖は、以前から頭に入っている。これまで使う理由がなかっただけだ。避けてきたのは、癖じゃない。自分の弱さだ。

 三浦が再度、温度計を差し込む。
「そんなもん測ったところで、肉は焼けねえ」
「測らなければ、僕が責任を持てません」

 高峰が鼻で笑う。
「俺に焼かせりゃ済む話だろ」
「今日は違います」
 三浦は手を止めずに答えた。
「あなたには、ソースに集中してほしいんです」
 厨房の空気が一瞬で張り詰めた。

「……焼き場から外れろって言いてえのか」
「違います。あなたを、一番強い場所に戻したいんです」
 三浦は高峰を真っ直ぐ見た。
 高峰の眉が、わずかに動いた。

「焼きの精度は仕組みで支えられる。でも、最後の味を決める仕事は、あなたにしかできない」
 高峰はしばらく黙っていた。やがて小さく舌打ちする。
「失敗したら、その皿持ってお前が客に頭下げろ」
「もちろんです、決めたのは僕ですから」
「生意気になったな」
 三浦は答えず、オーブンの予熱温度を上げた。

 それから二人は、ほとんど言葉を交わさなかった。

 三浦は重量、厚み、中心温度を確認し、焼成条件を微調整していった。断面に現れるわずかな差だけを見逃さず、必要な数値だけを書き換えていく。

 高峰は鍋の前に立ち続けた。
 フォンドボーを静かに煮詰める。鍋の端で香味野菜の甘みがほどけていく。赤ワインを注ぐと、いったん酸が立ち、すぐに熱の中で輪郭だけが残る。
 塩をひとつまみ。舐める。
 わずかに首を振り、火を落とさず、そのままさらに詰める。酸は消さない。ただ、角が触れないところまで追い込む。
 もう一度、味を見る。

 五時前。
 店内には、鍋の煮詰まる音と、オーブンの送風音だけが残っていた。
 三浦が焼き上げた肉をまな板に置く。休ませたのち、高峰が包丁を入れた。
 断面は端まで均一なロゼ色だった。
「……チッ」
 高峰が鼻を鳴らす。
「悪くねえ」
 三浦は胸の奥で小さく拳を握った。

「ソース、お願いします」
 高峰は無言で鍋を揺らした。煮詰めたソースに冷えたバターを落とし、手首だけで乳化させる。黒褐色の液体に、ぬめるような艶が宿っていく。

 皿に肉を置く。高峰がソースを流す。
 肉の脂の甘さ。赤ワインの深み。焦がれる寸前で止めたバターの香ばしさ。三浦の整えた火入れの上に、高峰の衝動のようなソースが重なる。

 三浦は小さく息を呑んだ。
 高峰は端肉を切り、無言で口に運ぶ。数度噛み、ゆっくり飲み込んだ。
「……やっと料理になったな」
 三浦の肩から、張り詰めていた力が抜けた。

 高峰が、不器用な手つきでその肩を一度だけ叩く。
「焼き場を任せても、案外どうにかなるもんだな」
「褒め言葉として受け取ります」
「調子に乗るな」

 だが、その声には以前の棘がなかった。
 窓の外がわずかに白み始める。
 シンクには鍋が積まれ、床には水滴が飛び、厨房は散らかっていた。だがそこには、しばらく失われていた、生きた仕事の跡があった。

 三浦は皿を見つめた。
「……明日の営業で、これを出しましょう」
 高峰は首を振った。
「明日じゃねえ。今日だ」
 高峰は客席の暗がりを見たまま言う。
「営業で出す。客の前で通って初めて、本物だ」
 三浦は、迷いなくうなずいた。
「はい」

 石田が示した期限は変わらない。店の行く末もまだ決まっていない。
 それでも今、三浦の胸にあるのは敗北ではなかった。

 朝を迎える厨房で、消えかけていた火が、もう一度息をしはじめていた。



第11話へつづく




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