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第7話 『温度のわからないスープ』

第6話


第7話 「決壊」


 金曜日のディナー。厨房は、熱気ではなく緊張感に支配されていた。
 カウンターの端には、石田が座っている。予約リストにその名はなかったが、彼は当然のように現れ、厨房の動きを静かに追っていた。
 誰も挨拶のタイミングを計れない。その存在だけで、厨房の空気が少し変わった。

「オーダー、真鯛のポワレ一点、追加!」
 三浦の声が飛ぶ。佐久間は、石田の視線を背中に感じた瞬間、指先がわずかに震えるのを自覚した。
 あれ以来、高峰がステラのロジックを一切相手にしなかった。その狭間で、佐久間の感覚は刻一刻と狂い始めていた。
 三浦がセットしたタイマーが鳴る。三浦のタイマーは、あくまで「目安」として鳴っているはずだった。だがその音が鳴るたびに、基準が二つに裂けていく感覚が強くなる。
 だが、高峰の鍋はまだ動いている。佐久間は、どちらの「完了」を信じるべきか一瞬迷い、付け合わせの野菜を上げる手が止まった。鍋の湯気とタイマーの電子音が、別々の方向へ佐久間の腕を引っ張った。
 どちらに従っても、誰かを裏切る気がした。

「……佐久間、何してる。上げろ」
 高峰の低い声。佐久間は慌てて野菜を皿に盛ったが、それは高峰が最も嫌う「くたびれた」状態になっていた。
 普段なら高峰が盛り付けの瞬間に弾くはずだった。だが、その夜の高峰もまた、余裕を失っていた。石田という唯一の理解者がそこにいることが、研ぎ澄まされていたはずの彼の視界を、わずかに、だが決定的に狭めていたのだ。フライパンの中の火の入り方が、いつもより読めなかった。焦げつく寸前の匂いが、わずかに遅れて鼻に届く。

 高峰が仕上げ、三浦がチェックし、石田の前に運ばれた一皿。
 石田は何も言わず、フォークを動かした。高峰は背を向けたまま次の鍋を振り、三浦は手元の作業を続けながらも、石田が一口飲み下す喉の動きを、耳の奥で探っていた。
 石田は一口食べ、少しだけ咀嚼して、それから静かにワインを飲んだ。以前のように「うまいな」と笑うことはなかった。ただ、いつものように指先でテーブルの位置を数ミリ直す、あの癖を見せただけだった。その仕草が、いつもよりゆっくりに見えた。
 まるで、言葉にできない何かを測っているようだった。


 営業終了後。
 厨房の火が落ち、名残のぬくもりだけが漂う中、石田は三人をカウンターに座らせた。以前のような、まかないの温かい匂いはない。
 誰も口を開けなかった。
 沈黙が、まるで湯気のようにゆっくりと三人の間に降りてきた。

「高峰、お前らしくないな」
 石田の第一声は、静かだった。
「今日の鯛、皮目に迷いがあった。三浦と佐久間のリズムが、お前の判断を遅らせている」
 高峰は視線を上げず、拳を握りしめた。佐久間が真っ青になって謝ろうとするのを、石田は手で制した。
「三浦。お前もだ。あの皿、出すべきじゃなかったな。店を回すことを優先して、この店の『熱』を殺した。……ステラで見てきたのは、そんな仕事か?」
 三浦は言葉を失った。
「それに、この一皿だけじゃないぞ。全体的に動きがチグハグだった。俺の知っている焔の厨房とは、違うものになっていた」
 石田は三人の間を流れる、逃げ場のない沈黙をゆっくりと見渡し、一束の書類をカウンターに置いた。

「ここを、ステラとして形を変えていく必要があると思ってる。それが正しいかどうかも、俺にはまだわからん」
 石田の瞳は、やはり穏やかだった。だがその奥には、愛する店が内側から焼け落ちるのを防ごうとする、一番の理解者ゆえの重い決断が宿っていた。

「来月、改装の準備に入る。……それまでに、三人で答えを出しておいてくれ」
 石田はそれだけ言って、夜の闇へと消えていった。
 残された厨房には、石田が残した「ステラ」という冷徹なリミットと、自分たちの情けなさが招いた、苦い静寂だけが降り積もっていた。

 三浦の指先だけがわずかに動く。テーブルの縁を、意味もなくなぞり続けている。
 佐久間は視線を落としたまま動かない。
 高峰は火の消えたコンロを見つめていた。
 誰も動かないまま、時間だけが静かに積もっていく。
 厨房の温度が、いつもより一段低く感じられた。



(第8話につづく)




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