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令和2年7月豪雨(熊本豪雨)が示した水害ーーBCPは「知っている」だけでは機能しない[2-6]

“想定していたはず”が機能しなかった理由

2020年7月、九州を中心とした記録的な豪雨、令和2年7月豪雨(熊本豪雨)により球磨川が氾濫しました。

熊本県内の死者は65名、そのうち球磨川流域の犠牲者は50名で全体の77%を占めています。犠牲者の86%が65歳以上の高齢者、70%が75歳以上という年齢構成でした。

この災害では、福祉施設において多くの犠牲者が生じたことが大きな衝撃として受け止められました。そしてもう一つ、重要な特徴がありました。それは夜間に災害が進行していたことです。

この災害を振り返るときに大切なのは、「なぜ逃げられなかったのか」を考えることではありません。考えるべきなのは、「なぜ逃げることが極めて難しい構造になっていたのか」という点です。

実際、ハザードマップは存在していました。水害リスクそのものが知られていなかったわけではありません。しかし、それでも現場では想定通りに動けなかった状況がありました。

そこには、水害リスクの認識と、実際に動けるBCP設計との間に存在する大きな隔たりがありました。


ハザードマップ上で想定されていたのに、避難が間に合わなかった構造

2017年の水防法および土砂災害防止法の改正により、浸水想定区域や土砂災害警戒区域内の医療・福祉施設では、避難確保計画の作成と避難訓練の実施が義務化されました。この災害などを踏まえ、2021年には訓練結果の報告義務化など制度強化も進められています。

しかし、地図上でリスクを知ることと、現場で行動できることは別の話です。

熊本県自身の検証報告書は、この点について明確に総括しています。「要配慮者利用施設における避難確保計画の策定・運用が十分ではない例があり、ある施設においては多数の死亡者が発生した」と記しているのです。実際に、球磨川流域のある特別養護老人ホームでは、2階に避難した入所者のうち14名が犠牲になりました。

浸水想定区域を確認していても、「水位がどの段階になったら避難を開始するのか」「夜間帯の職員配置で何人移動できるのか」「避難完了まで何分必要なのか」といった具体的な運用条件まで落とし込まれていない場合があります。

ハザードマップは危険を教えてくれますが、避難のタイミングまでは決めてくれません。「知っている」と「動ける」の間には、想像以上に大きな距離があります。

あなたの施設の避難確保計画は、訓練を通じて「何分で何人を動かせるか」まで検証されているでしょうか。


夜間・少人数体制下では、判断そのものが難しくなる

昼間と夜間では、同じ施設でもまったく別の組織になります。

夜間は少人数体制となる施設も多く、情報収集、状況判断、利用者対応、避難支援を限られた人数で同時に進める必要があります。

球磨村の保健活動記録によれば、発災直後、役場の災害対策本部は停電によって電話回線が止まり、唯一の通信手段である衛星電話1台で人工透析患者の状況把握や病院・自衛隊との調整を行っていました。関係機関からの問い合わせも、この1台の電話に集中し、確認だけで半日かかることもあったといいます。

そして難しいのは、災害そのものよりも「いつ決断するか」です。避難が早すぎれば負担が大きい。遅ければ危険が高まる。さらに、誰が最終判断をするのかが曖昧なままでは、現場は判断を先送りしやすくなります。

熊本県の検証でも「夜間の避難情報発令の遅れ・伝達困難」が課題として挙げられ、暗い中で住民に避難を呼びかけることへの判断の難しさ、防災行政無線が雨音にかき消されて伝わりにくい状況が指摘されています。

BCPは「誰が・いつ・何を判断するか」を明確にする設計が重要です。夜間災害では、その設計の有無が直接的に影響します。

あなたの施設では、深夜2時に避難判断が必要になった場合、誰が・何を基準に・何分以内に決断する設計になっているでしょうか。


垂直避難にも限界がある

水害対策では、上階への移動、いわゆる「垂直避難」が選択肢として考えられることがあります。しかし、実際の福祉施設では単純な話ではありません。

要介護者の移動には時間が必要になります。車椅子利用者、寝たきりの方、医療機器を使用している方など、移動支援の条件はそれぞれ異なります。

先述のある特別養護老人ホームでは、入所者は2階へ垂直避難しましたが、それでも14名の命が失われました。同じ村にあった別の高齢者施設では、自衛隊によって2階避難者全員が救助された後、医療機関や避難所へ搬送されています。垂直避難が「助かる」方向に働いた施設と、それでも犠牲が出た施設の両方が、同じ豪雨の中に存在していたのです。

DMATの活動記録では、別のある特別養護老人ホームでも入所者85名のうち5名が医療機関へ、残りは熊本市内の特別養護老人ホームへ搬送されたことが記録されています。最終的に、この豪雨で病院避難・施設避難を強いられたのは熊本県内で10医療機関、15診療所、7高齢者施設にのぼりました。

「誰を、どの順番で、誰が支援するのか」という個別避難計画の視点がなければ、現場判断に委ねられてしまいます。さらに建物構造の問題もあります。エレベーター停止時の移動方法や、上層階そのものの安全性まで考えなければ、垂直避難は成立しません。

「上に行けば安全」という前提だけでは不十分なのです。

あなたの施設の上層階は、浸水深が想定を超えた場合にも本当に安全でしょうか。


土のうを準備している。浸水想定区域を確認している。防災マニュアルも整備している。こうした対策自体は重要です。しかし、災害時に実際に動けるかどうかは別の話になります。

「誰が連絡するのか」「夜間は誰が指揮を執るのか」「停電時に情報収集はできるのか」「避難開始の基準はどこか」。こうした条件が整理されて初めて、対策は機能し始めます。

「対策の有無」より「動作設計の有無」こそが、現場の差につながります。BCPは文書ではなく、組織の行動設計そのものなのだと思います。

令和2年7月豪雨(熊本豪雨)は、水害リスクを知らなかったことで起きた災害ではありませんでした。むしろ、「想定していた」という認識があったにもかかわらず、その想定を現場の行動に変換する設計が十分につながっていなかったことが、大きな課題として浮かび上がりました。

ハザードマップとBCP。個別避難計画と施設運営。設備と行動手順。それぞれを別々に管理している限り、災害時にはその隙間が現場負荷として表れます。

過去の災害は記録ではなく、設計図である。大切なのは、過去に何が起きたかを知ることではなく、自施設の設計にどう置き換えるかという視点なのかもしれません。

あなたの施設は、平屋ですか。何階建てですか。垂直避難は、本当に成立しますか?


次回

次回は、「能登半島地震(2024年)が医療・福祉施設に突きつけたもの」について整理していきます。

過疎地域・半島という地理的制約、長期化する断水、そして高齢化が進んだ地域コミュニティ。これまでの災害とは異なる”現代的な複合課題”が、医療・福祉現場にどう影響したのかを見ていきます。


参考資料
本記事の内容は、以下の公的機関による一次資料に基づいています。

・令和2年7月豪雨における球磨川流域の被害と課題|国土交通省
 https://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/shaseishin/kasenbunkakai/shouiinkai/kihonhoushin/dai112kai/06_shiryou2_reiwa2nengouu.pdf

・令和2年7月豪雨球磨村災害検証報告書|球磨村
 https://www.kumamura.com/kiji003943/3_943_1_R0207kensyo.pdf

・令和2年7月豪雨に係るDMAT活動報告|厚生労働省
 https://www.mhlw.go.jp/content/10802000/000701734.pdf

・令和2年7月豪雨 被害・復旧状況と今後の対応(熊本県検証)|熊本県
 https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/life/120696_220066_misc.pdf