世界に孔穿つもの
〈道化師〉は、食事を運んできた祭祀の口から、決戦が始まったことを知った。
ひとまず優雅に森の幸を平らげると、おもむろに立ち上がって幽骨製の壁に手を触れる。
脱出自体はいつでもできた。エルフたちは幽骨を自分たち以外操作できないと思っているようだが、そうではない。
そも、幽骨とは何か。歳経た樹木の芯部に形成される特殊な組織――というのは表面的な理解に過ぎない。それは森の意志が自らの体内を知覚するための感覚器官であり、同時に森の歪律領域そのものである。
では、歪律領域とは何か。
あらゆる知性体は、何かを願いながら生きている。富、名誉、愛、あるいはもっと別の何か。それらを求め、渇望し、時には大きなことを成し遂げる場合もある。欲望、欲求は人に生物的限界を超えた奇跡を起こさせる原動力であり、歪律領域もそんな奇跡の延長線上にあるものである。
何かに執着し、渇望し、願い、願い、狂おしいほどに願い続け、もはや頭の中がそれしかないような狂気とも言えるレベルで特定の何かを求め続けた者は、その純粋色の魂が魔法変異を起こし、世界の理から外れることがある。
いわば、その者自身がひとつの独立した小世界になったということ。ゆえに、その者の内部では、外界とは異なる世界法則が渦巻いている。狂おしい願いを実現させる、都合のいい法則が。ただし、それだけでは現実に与える影響は限定的だ。自分の内部で完結するような変化しか起こさない。客観的にはただの狂人とほぼ変わらない。
ただし――自らの狂念と、外の世界との間に、何らかの合意、あるいは折り合いをつけた者。ままならぬ自己を抱えながら、まったく異質な世界に取り巻かれているという現状を心から認めることができた者。自らの欲望を一切曲げることなく、世界を肯定できた者。そうした、何らかの悟りを得た小世界たちは、外世界の圧力を押し退けて願望法則を体外に漏出させることができるようになる。
――それが歪律領域である。
歪律領域の性質や形態は、元となった知性体の願いによってさまざまである。富を求めた者は、範囲内の金品を引き寄せるような領域を作り出すだろう。愛を求めた者は、自らによって好ましい対象を好意的にさせる領域を作り出すだろう。ただし――こうした当たり前の願いが歪律領域にまで至ることはまずない。強く願って生き、行動していれば、その欲はある程度は満たせてしまうものである。満たされた欲望は落着いてしまい、狂念には到底届かない。願いと現実の落差が大きければ大きいほど、その魂は魔法変異を起こしやすくなるのだ。
だがここに矛盾が生じる。理想と現実の落差が大きいほど小世界は誕生しやすくなるが、しかし落差が大きいほど外世界を肯定することは難しくなる。
歪律領域覚醒者は、その矛盾を乗り越えた希少存在であり、世界にそう何人もいない。
オブスキュア王国を統べる森の意志は、神代の昔に矛盾を乗り越えた。その願望法則は幽骨の形をとって外界に漏出し、エルフたちとの絆となっているのだ。
ゆえに。
懐より純白の短剣を取り出し、幽骨の壁を無造作に斬りつけた。
本来、突き立つはずもない。幽骨の強度は鋼鉄より上だ。だが――
ぬるり、と。
壁に縦一文字の裂け目が生じた。破壊されたのではなく、幽骨が自然と口を開けたのだ。
この牢獄に転移されてきた白き短剣には、とある人物の歪律領域が宿っている。彼の抱いた極めて特殊な執着、狂念が、その骨のごとき刀身に漲っている。
抱いた願いは――「万象、ことごとく無意味たれ」。
およそ因果と呼ばれるものに意図を認めない。脈絡を認めない。宿業を認めない。世界を、手前勝手な誰かに都合のいい茶番に堕してなるものか。我らの生きる現実は、常に理不尽で、唐突で、不条理で、偶然に支配されていて、だからこそ生きるに値する。戦う価値があるのだ、と。
発現する歪律領域の性質――「他の歪律領域の否定」。世界をあるべき姿に戻すべし。
「ふうん、けっこう深いところにあったんだな、この牢屋」
短剣が作り出した裂け目を越え、〈道化師〉は悠々と虜囚の身を脱した。
出ようと思えばいつでも出られた。しかし〈道化師〉ひとり自由になったところで意味はない。ギデオンと連携しなくては。それまでは、誰に邪魔されることなくオブスキュア王国の中枢にいられる囚われの立場をあえて甘受してきたのだ。
〈道化師〉は頬に微笑を乗せる。体の周囲に譜面めいた魔方陣を浮かび上がらせ、ふわりと宙に浮きあがる。
「さあ、終わりを始めようかギデオン。愛深きゆえに愛より背を向けたる男よ。あなたの悲願は今こそ成就する」
そして、上へ上へと短剣を振るい、待ち人の元へと一直線に幽骨を掘り進んだ。
●
夜の森を、腐肉の群れが闊歩する。
呻き一つあげぬまま、聖なる揺籃を侵す。生命の気配を探知すれば、それまでの緩慢な動作からは想像もできぬほどの速さで襲い掛かり、腐食の呪いを感染させる。
国境での交戦で失った分を、不死の軍団はすでに取り戻しつつあった。森に棲む大型の獣たちが、新たなる眷族となって戦列に並んだのだ。だが――上限は五万体。森の生態系に対する被害は限定的なものに収まった。
それらの状況を、戦術妖精たちからの情報送信によってフィンは逐一把握している。
夜の森を、騎士たちが樹精鹿の背に跨って風のように疾走していた。
その中の一騎、リーネの背中にしがみつく形で、フィンは彼らと行動を共にする。
「フィンどの、まだでしょうか?」
リーネはじれている。アンデッドが森に入って狼藉を働いているのがとにかく嫌なのだろう。
しかし、国境に配した戦術妖精からは、いまだ敵の全軍が森に入ったという報告はない。
「まだであります。――作戦区域の北北東部、敵の一群が禁止ラインに接近中であります」
「うー、では向かうとしましょう」
それから、フィンとオブスキュア騎士の一団は、転移網と樹精鹿を駆使して森中を駆けまわった。敵の群れに突っ込み、すぐに一転逃げを打つ。そうした散発的攻撃を繰り返しながら、アンデッドどもの分布をコントロールした。追い立て、蹴散らし、あるいはわざと追わせ、敵の機動にひとつの傾向を与える。
すなわち、禁厭法の本当の境界線に気づかせない形にするのだ。
これを悟られた場合、ギデオンは即座に森からの撤退を命じることだろう。そうなっては元の木阿弥だ。また森の南限で睨み合い、しめ縄を燃やす守るの泥沼な消耗戦を行わざるを得なくなる。わざわざ森の中に誘い込んだ意味が全くない。
そもそも彼の目的はオブスキュア王国を軍事的に征服することではない。五万もの眷族どもはただの目くらまし、時間稼ぎに過ぎない。一刻も早くアンデッドどもを殲滅し、王都へと駆けつけなくてはならないのだ。
そのためにも、禁厭法の性質を敵に誤解しておいてもらう必要があった。
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