友誼のはじまり
ギデオンは、じれていた。
眷族たちによる時間稼ぎは当面上手く機能している。王都の幽骨牢に捕らえられているであろう〈道化師〉も行動を開始していた。
今のところ順調ではある。だが、アンデッドに特効の浄化効果を有する不可解な結界が極めつけに厄介であった。
――近づけぬ。
驚くべきことに王国全域を覆い尽くしていた。何なのだこれは。帝国魔導八芒大系に照らし合わせるまでもなく、こんな魔法などありえない。神の領域の力ではないか。
〈大丈夫、僕を……いや、僕はともかく、僕の人脈は信用してくれていいから。なんとかしてあげるよ。女王様に会わずに済むよう、万端舞台は整えておくから〉
懐の竜を象った宝石細工が震え、〈道化師〉の声を伝えてくる。
「大きなお世話だ。私が彼女との対峙を恐れているとでも思っているのか。無駄口を叩いている暇があったら……」
〈恐れていただろう? さもなくばこんな面倒なことになどなってはいないんだよ〉
「何を――」
〈ヤビソー氏がこの浄化呪法を執り行う前にさっさと王都に突入して女王様を確保する道とてあったはずだ。それをしなかったのはなぜだい?〉
「結果論を振りかざすな。浄化結界など予想できるほうがおかしい。それに、力ずくで言うことを聞かせては意味がない。エルフが自ら気付き、自ら決断するのでなくば後に続かぬ」
〈オークやアンデッドをけしかけている時点で力ずくだと思うけど……まぁ、それがあなたの筋目というのならいいさ。僕はそれを全力で支えよう。それに、克服しろとまでは言わない。けれど自覚はしておくべきだ〉
「黙れ。さっさと私のための侵入口を作れ」
苛立ちまぎれに宝石細工を握りしめ、懐にしまう。
あの少年、本当に何者なのか。初めて会ったときには、すでにギデオンは幽鬼王となっていたが、〈道化師〉はこちらに対してまったく恐れの感情を示さなかった。あのような人間と出会ったのは初めてのことである。瘴気の漏出を抑え、仮面をかぶり、無為に存在し続ける日々。すでに生は終わっていたので、シャラウから下された絶対命令は効力を失っていた。しかし――密かに森を去り、人族の帝国に至っても、ギデオンは何の目的も抱くことができなかった。最低限、食べるために何かをするという動機すら持てなかった。ギデオンの体はすでに食事も呼吸も必要としなくなっていたのだ。
人族の営みを、遠巻きに観察するだけの年月が過ぎ去った。エルフに比べれば泡沫のごとき短い生を送る者たち。畑なるものを耕し、日の出から日の入りまで労働に勤しむ奴隷のごとき暮らしぶりを、最初ギデオンは憐れんだ。なぜ自然の恵みに頼らず、自力で糧を作ろうとするのか、全く理解できなかった。
だが、彼らの顔に悲壮感はない。ごく素朴に人生を愛しているようだった。子供たちの歓声で喧しい家庭を見るにつけ、ギデオンはわずかに相好を崩した。彼らには彼らなりの救いがあり、幸福があるのだろう。長すぎる生涯をぼんやりと過ごすエルフに比べ、なんと生き生きとした者たちであろうか。
そうして、百年以上が経った。瘴気を抑え、人族の中で暮らそうとしたこともあったが、さすがに幽鬼王が受け入れられるはずもなかった。ギデオンの正体に気付いた瞬間、彼らは恐怖と嫌悪に満ちた貌で逃げ去っていった。ギデオンは肩をすくめ、人族との共存をあっさりと諦めた。仮に受け入れられたところで、目の回るような変化に満ち満ちた人族社会に適応できるとは思えなかった。オブスキュア王国の優雅な平穏とはまったく対照的な、醜くも輝かしく熱と活気に満ち溢れた世界。
彼らの暮らしと、愛と、業と、争いと、希望と絶望を眺めるにつけ、ギデオンは驚嘆の念に打たれる。
人族は――努力と研鑽によって、自分の未来や世界は変わりうるのだと考えている。
まったくもって驚異的な思想である。運命に、自らの意志で介入しようと言うのだ。伝統と信仰を守ることのみ考え、安寧と停滞の中に安らうエルフ族とは、思考大系が根本的に違う。彼らは常に己の技を改良しようと余念がない。それらの試みはほとんどが失敗に終わるが、稀に社会に重大な変化をもたらす新技術が編み出されることもあった。
そんな折――その少年が、現れたのだ。
彼はこちらを見た。魂の底まで見透かされるような、深く透徹した眼差しだった。
――このまま永遠に、ただ存在し続けるつもりかい?
それしかない。第二の人生に、どういう目的も見出せそうになかった。別離した妻と子供たちのことを思うと胸が張り裂けるようであったが、しかし自分はもはや彼女らの愛を受け取るに値しない。シャラウ。シャイファ。シャーリィ。未来を生きるであろうあの三人の、足を引っ張ってはいけない。すでに道は分かたれた。二度と森に戻るつもりはなかった。
――それなら、ひとつ他愛のない頼みごとをしてもいいかな。
なにを言っている。なぜ縁もゆかりもないお前の頼みなど聞かねばならない。
――なに、たいしたことじゃないよ。友人を探すのを手伝ってほしいんだ。
この人族は何を考えているのか。その心境にどうしても理解が及ばず、ギデオンはとっさに二の句を告げなかった。
だが――考えてみれば暇を持て余していたのは確かである。それに、アンデッドの頂点たるこの身をまるで恐れない人間との出会いは、恐らく貴重なものであろうと思われた。
どうせこれより無為なる永劫を存在し続けることになるさだめだ。百年と経たずにこの世を去る人族と、ほんのひととき行動を共にするのも一興であろう。
ギデオンはため息まじりに、その友人を探す当てはあるのか、と問うた。
それが、〈道化師〉と名乗る奇妙な少年との出会いであった。
生き馬の目を抜くような人族社会での適切な立ち振る舞いというものを、ギデオンは彼から学んだ。〈枢密竜眼機関〉なる組織の一員であるらしく、ギデオンはその外部協力者という肩書を与えられた。
常に悠然たる微笑みを浮かべ、こちらとの語らいを気負わず楽しむその感性、在りように、ギデオンは不思議な感慨を抱く。
いったい、どのような生が、こういう奇妙な魂を育むのだろうか。
ギデオンに比べれば赤子ほどの年月しか生きていない存在であるはずなのだが、そのことをついつい忘れそうになる。
闇黒淵のように深く、魔力結晶のように透明な、その双眸。こちらの心の奥底に、知らぬ間に入り込んで、卑小さや醜さといったギデオン自身が目を背けている痛みの根源にそっと触れて回り、よし、よし、と神妙に頷いている。こちらの誇りも恥もすべてをひっくるめて肯定してくる。
だが同時に、厳しさもまた言動の中にあった。
――あなたはそれでいい。だけど自覚はすべきだ。
それが、〈道化師〉の示す一貫した態度だった。彼の指摘は常にギデオンの急所を貫いた。何度気分を害したかわからないが、しかし不思議と友誼が途切れることはなかった。
彼とともに帝国を駆け抜ける日々。基本的には〈道化師〉の護衛、という形に収まった。〈枢密竜眼機関〉は、帝国内部のさまざまな勢力と折衝し、その動向をそれとなく探り、パワーバランスを保つためのありとあらゆる工作を執行する組織である、らしい。
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