〈死の巫姫〉の肖像 #9 終
しゃくり上げながらこっちを睨んでくる幼い少年と向き合う。その眼光から、自然と伝わってくるものがある。
彼は、何か、喪ったのか? 命を捨ててでも守りたかったものを、ことごとく踏みにじられたのか?
目を閉じる。思考に沈む。己の中にある答えを探す。
その瞬間、ふと、頭をぐるりと囲むように熱を感じた。
「む」
「あ……」
目を開けると、シャーリィに被せられた〈哀しみよりも藍きもの〉が、光を帯びていた。
かつてはシャロンを見初め、その悲劇の一因ともなった神統器。
それがなぜか、魔力を放射しはじめていた。
「何だ……?」
眉をひそめたその刹那。
全身が、大きく脈打った。視界がぶれ、酩酊が押し寄せてくる。
流れ込んでくるものがある。
意識が押し流されそうなほどの勢いで、さまざまな感情が殺到してくる。
――それは、ひそやかに咲き、散っていった、一輪の花の物語。
神統器に記憶されてきた、担い手の想い。
これまでシャーリィが見続けてきた夢の、最後のひとかけら。
●
〈トアンが死ぬまでに、出産権を獲得しなければならない。〉
〈わたしは〈哀しみよりも藍きもの〉を頭に乗せ、自らの生命の根源となっている精霊力を、魔力に変換した。以前とは比較にならないほど、大量に。〉
〈急速に痩せ衰えてゆくわたしを前に、誰もがこの荒行を止めた。とても見てはいられないと、涙ながらに懇願してきた。〉
〈だけど――わたしの額に、相も変わらず神統器の輝きがあるのを見て、誰も強くは出られなかった。〉
〈わたしのこの行いを、他ならぬ神統器が承認しているのだ。理由はわからないけれど、何らかの正当性があるのは確かだった。〉
〈当然だ。わたしはもうトアン以外の人を異性として愛することはできない。この気持ちは、わたし自身にすらどうしようもないものだ。オブスキュア王家の断絶を免れようと思ったら、トアンが亡くなる前に出産権を獲得するしかない。〈哀しみよりも藍きもの〉だけが、わたしの気持ちと事情を正しく理解していた。〉
〈――みんな、ごめん。でも、こうするしかないの。〉
〈頬がこけた。肋骨が浮かび上がった。眼窩が落ち窪んだ。おなかがぽっこりと膨らんだ。〉
〈髪が抜けてしまったときは、さすがに気持ちが萎えた。一人肩を震わせることしかできなかった。〉
〈だけど、トアンはどんな有り様になっても変わらず抱きしめてくれた。彼がいなければ、とても耐えられなかっただろう。〉
〈そして――数十年後、わたしは出産権を獲得した。〉
〈オブスキュア王国は、上から下まで歓喜を爆発させた。祝祭は数か月続き、みんな昼夜を問わず大騒ぎだった。〉
〈七都市のいたるところが飾り付けられ、篝火が焚かれ、歌声が止むことはなかった。〉
〈荒行をやめ、栄養を取り、髪を伸ばし――急速に女らしい丸みを取り戻してゆく自らの肉体に、安堵の息をこぼす。〉
〈黒曜石の鏡で、いろんな角度から自分の顔を確認し、髪を梳り、さまざまな表情をつくる。〉
〈「大丈夫。あなたは綺麗よ」〉
〈母上が後ろからわたしの肩を抱き、頬にキスをした。〉
〈その場で渡された、出産権所有者の証である幽骨の腕輪を身に付け、わたしはトアンの前に立った。〉
〈彼は半泣きでこちらを見つめ、何も言わぬままわたしの唇を奪った。〉
〈夢のような時間が過ぎ、わたしの幽骨輪がひとりでに朽ちた木に変じ、崩れ去っていった。〉
〈二人で微笑んで、その日はずっと一緒にいようと思った。トアンと手を取り合って、父上と母上に感謝を述べた。理由も話さず無茶なことをしてきた娘を、それでも支え続けてくれた二人には感謝してもし足りなかった。〉
〈幸福であることが、なんだか信じられなかった。自分のような娘が、好きな人と一緒になって子供にまで恵まれるなんて。〉
〈このまま、すべてうまくいくのではないか。わたしは幸せになってしまうのではないか。そんな考えがふと胸をよぎる。〉
〈だが。〉
〈「敵襲! 敵襲です! オークどもが!」〉
〈わたしはその瞬間、何かを悟った。〉
〈あぁ、そのときが来たんだな――と。〉
〈静かで、透明な哀しみが、胸を満たした。〉
〈彼の袖を掴み、今日は離れたくない、と懇願した。心の底では無駄であることを悟りつつ。〉
〈「大丈夫だよ。ギデオンさまとアーブラスさまもいるし、僕の出番なんてないさ」〉
〈そう言って幽骨の甲冑を着装し、〈聖樹の門〉へと消えてゆく彼を、わたしはもっと強く止めるべきだったのだろうか。〉
〈そうすれば、あるいはもっと違う結末もあり得たのだろうか。〉
〈静かに、首を振る。〉
〈今ならわかる。すべては必然なのだということが。〉
〈命の流転。〈死の巫姫〉としての認識。現世と幽世の境を歩むわたしだけは、これが永遠の別れなどではないことを知っていたから。〉
〈わたしは、人でなしだ。〉
〈自分を罵倒しているのではなく、事実としてそうだった。〉
〈この想いは、人が抱くべきものではない。〉
〈――大いなる循環の中で、これは意味のある死なのだ。〉
〈トアン。あぁ、トアン。〉
〈その瞬間、きっとあなたは無念の涙をこぼしてしまうのでしょう。わたしとこの子を残して逝かねばならない運命を呪ってしまうのかもしれない。自分自身を責めてしまうのかもしれない。〉
〈そんな必要はないのに、トアンはきっとそうしてしまうのだろう。〉
〈それが痛ましくて、ひとり静かに嗚咽した。〉
〈すべては、わたしに現世への執着を抱かせないようにするために用意された筋書きだった。〉
〈誰が、という問いに答えるのは難しい。一番わかりやすいのは「森の意志」だけど、それだけじゃない。〉
〈幽世に安らう、無数の祖霊たちの願いでもあった。神代から現代までに王国で召された、すべてのエルフたちの。〉
〈抗うことは簡単だった。人の生き死にを、勝手に決めるな――そう反発することもできた。〉
〈だけど……わたしはもう知っている。民草の生の幸福を守ることと同じくらい、民草の死後の安寧を守ることは大切だ。実感を込めて、断言できる。〉
〈生れ落ちた意味。子を成した意味。〉
〈今はもう、はっきりと理解できていたから。〉
〈そうやって気持ちを強く持っても、彼がオークの凶刃にかかってこの世を去ったという報せは、さすがに堪えた。〉
〈生ある娘としてのわたしは泣き叫び、〈死の巫姫〉としてのわたしは厳かに彼の御霊の安寧を祈願した。〉
〈大丈夫――幽世を覗き見て、トアンはちゃんとそこにいることを確かめた。大丈夫、大丈夫だ。〉
〈可哀想なトアン。いますぐそちらに逝って、抱きしめてあげたかった。だけど、それはまだ駄目だ。〉
〈務めを果たさなければ。〉
〈わたしにしかできない責務。〉
〈根底にあるのは、幽世は有限の世界だと言うこと。〉
〈まだまだ余裕はあるけれど、いずれ死者の御霊を収めきれなくなる時は来る。〉
〈ではどうするか。幽世を広くするより他にない。〉
〈さもなくば、永遠の救いなどは謳えない。〉
〈わたしは、そのための布石。幽世が新たな領域を獲得するための「楔」を生み出す存在。〉
〈わたしは、生まれながらに半分死んでいる娘。かつて死んだエルフの娘の魂が、受肉した存在。肉体には紛れもなく父上と母上の血が流れているけれど、この魂は厳密には二人の子とは言えない。その在りようは自然なものとは言えず、存在を維持するには常に魔力を消費しつづけねばならない。これが、わたしに魔力が少ない理由だった。〉
〈死者の娘が、生者との間に子を成すことで、現世の情報を取り込む結節点となるのだ。〉
〈今わたしのお腹に宿っているのは、幽世そのものの感覚器官となる存在だった。〉
〈幽世と言う世界を構成し、維持しているのは、死したエルフの御霊の記憶である。だけど、生の感覚を伴わない記憶は急速に風化し、ものの百年と経たないうちに意味を喪失する。〉
〈御魂同士で情報を共有しようとも、それらは所詮伝聞に過ぎない。彼らはすぐに、生きていた頃の濃密な感覚情報を実感として忘れてしまう。幽世の人口は、エルフが死すたびに増え続けているが、「まだ実感を保っている御魂」の数は常に一定であり、全体から見た割合は低下の一途をたどっている。〉
〈必要なのは、伝聞によらない生きた情報だ。それだけが、幽世に新たな息吹を吹き込み、次の一万年を耐えうる強度を幽骨の基礎骨格に与えられる。〉
〈ゆえにこの子は、あまり長く現世に留まることはできないだろう。〉
〈愛しい気持ちが膨れ上がり、わたしはお腹を撫でた。生まれながらに生きる意味を定められているのは、幸か? 不幸か?〉
〈それは当人次第だと、わたしは感じている。〉
〈この世に生れ落ちてからの数刻。そのわずかな時間が、この子の生涯のすべてだ。だからせめて、愛の記憶で満たしてあげよう。〉
〈――シャーナ。〉
〈そう名付けることにしていた。トアンと決めた名だ。〉
〈これからほどなくシャーナの向かう幽世が、愛に満ちたものとなるように。〉
〈わたしはただ、そのときを待った。〉
〈父上、母上。きっとわたしが、悲嘆に塞ぎ込んでいると思っていることでしょう。〉
〈もちろん、悲しい気持ちはある。普通の女の子みたいに、生きて幸せを掴みたかった気持ちはある。〉
〈だけど同時に、心は満ちているの。自分の人生に意味があったかどうか――なんていう苦悩とは、少なくとも無縁だったから。〉
〈だからどうか、心配しないで――そう言いたいのはやまやまなのだけど、どう話したところで「悲しみのあまり錯乱した」としか思われないような気がする。どこまでも生者だった二人と、決してわかり合うことはできないことが、少し残念だった。〉
〈だけど……愛していたわ。大好きだった。それだけは間違いない。生んでくれて、ありがとう。抱き締め、抱き上げてくれて。〉
〈――愛してくれて。〉
〈だからきっと、わたしは二人に、ううん、わたしを好きでいてくれたオブスキュアの人々すべてに、ひどいことをしようとしている。〉
〈シャーナが生まれて、幽世に召されるのを見届けたら、わたしも自ら命を絶つつもりだ。〉
〈よっぽど、すべてを話そうか迷った。〉
〈あるいは、トアンとシャーナには待ってもらって、生者としての寿命を全うしようかとも。〉
〈だけど――それは駄目だ。〉
〈父上と母上は、きっとわたしに遠慮して、第二子を作らない。わたしは深く愛されてきた。だから、わかる。あの二人は、決してわたしという継嗣を切ることができない。オブスキュア王家を継ぐのは、わたしの子供以外ありえないと、むしろ頑なになってしまう。〉
〈そしてやがて、責務よりも愛を重んずるようになり――神統器に見放されてしまうだろう。それだけは駄目だ。権威なくして王国はあり得ない。〉
〈だから、わたしは二人の思い出になるしかない。強制的に、二人にとってのシャロン・ジュード・オブスキュアを過去のものにするしかない。たとえ、みんなを深く傷つけ、悲しませることになっても。〉
〈大丈夫、母上なら、きっと立ち直ってくれる。父上は自力では立ち直れないだろうけど、二人目の子供が生まれれば、それでもわたしという存在を心の片隅に静かに置くことはできるだろう。〉
〈そしていつか、二人が幽世に来たときは、すべて笑い話になっているのだ。〉
〈わたしはそれだけを願い、静かにお腹を撫でつづけた。〉
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