第3話:燻る(くゆる)微熱の残響(記録No.020)|後編|管理官ニナの記録室|真相の標本箱
はじめに
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本編
【後編:鏡の裏(うら)】
「……男が、怖い? 命の恩人を怖がるなんて。
……あ、もしかして、その男は指名手配犯だったとか?」
佐藤は、自分の中から湧き上がってくる「不都合な想像」を打ち消すように、矢継ぎ早に質問を投げた。
パズルの断片が噛み合うたびに、彼が「トラウマ」だと思い込んでいた記憶の蓋が、不気味に震え始めている。
「いいえ……質問を続けなさい。
救済と、略奪。その本当の意味に気づくまで」
「……その女性と男は、知り合いでしたか?」
「はい」
「……彼女は、自分の意志でそこに住んでいたんですか?」
「いいえ」
「……意志ではない? ……まさか、彼女は男に『閉じ込められていた』?」
「はい」
佐藤の顔から、急速に血の気が引いていく。
「……男が彼女を助け出したのは、善意ではなかった?」
「はい」
「男は、自分の『所有物』が壊れるのを防ごうとしただけだった……?」
「はい」
「彼女は、外へ出れば『ヒーローとして称賛される犯人』の支配下に一生置かれると悟った。……だから……」
佐藤は、枯れた声で呟いた。
「……救われる絶望より、死による解放を……選んだ……」
「……答えを、どうぞ」
【真相の標本】
「【正解】は……男の正体は彼女を長年監禁していた誘拐犯であり、彼女は英雄として称賛される犯人の支配下に戻る絶望に耐えきれず、死を選んだから……」
自分の口から出た答えが、毒となって全身に回る。
ニナはゆっくりと立ち上がり、白手袋をはめた指先で、佐藤の「汚れ一つない手」に触れた。
「標本の男は、世間に嘘をついてまで、自分の獲物を手元に残そうとした。
……けれど、佐藤さん。あなたはさらにその上を行く『芸術家』ね」
「……あ……」
「あなたは、火の中に飛び込んだ。
けれど、彼女が煤に汚れ、恐怖に顔を歪ませる姿を見た瞬間……興ざめしてしまった。
あなたが愛していたのは、地下室で清らかに飼い慣らされていた『作品』であって、人目に晒され、醜く助けを求める『人間』ではなかった」
ニナの翡翠色の瞳が、佐藤の深淵を暴く。
「だからあなたは、事故を装って手を離した。
自分の作品が、醜い姿で他人の目に触れるくらいなら、いっそ美しい記憶のまま灰にしてしまおうと。
……そう、あなたの手で葬ったのね」
「…………」
「あなたが抱えている『重苦しさ』。
それは罪悪感ではない。
……十年の歳月をかけた最高傑作を自ら壊してしまった損失感。
そして、空っぽになったアトリエを埋める『次のキャンバス』が、どこを探しても見つからないことへの焦燥でしょう?」
「…………」
佐藤は何も答えられなかった。
震えていたのは悲しみからではない。
次の獲物を求めて、内側から自分を突き動かす、狂気的な飢餓感のせいだったのだ 。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
地味で真面目そうだった男の相好が、獣のように醜く歪んでいる。
「……空っぽなんだ。俺のキャンバスは。なら、お前で埋めればいい」
佐藤がテーブルを蹴り飛ばし、ニナの細い首に手を伸ばした。
だが、ニナは眉一つ動かさない。
ただ、手元にある冷めた紅茶を、最後の一口まで静かに飲み干した。
「……記録No.020。不適格な観測者。……並びに、未解決の『不条理』」
ニナが静かにそう口にした瞬間。
腰の鍵束が、これまでにないほど激しく、硬質な音を立てた。
チャリ……ッ!!

その音と同時に、佐藤の動きが、まるで映像を一時停止したかのようにピタリと止まる。
「な、あ……が……っ!?」
佐藤の叫びが、声にならないノイズへと変わる。彼の輪郭が、足元から「黒い文字の羅列」へと分解され始めていた。
「この部屋に『暴力』という不純物は必要ないわ。
……佐藤さん。あなたは自らの罪を『作品』と呼んだ。
なら、永遠にその中に閉じ込めてあげる」
ニナが白手袋をはめた指先で虚空をなぞると、部屋の引き出しの一つが、ひとりでに勢いよく飛び出した。
佐藤の肉体が、絶叫ごと薄い「ガラスのタイル」に圧縮されていく。
彼が犯した監禁の罪、燃え盛る家、そして彼自身の卑屈な魂。
そのすべてが、数行のテキストとしてタイルに刻まれ、引き出しの中へと「収容」された。
バタン、と重苦しい音を立てて引き出しが閉まる。 部屋には、再び元の静寂が戻った 。
ニナはわずかに顔をしかめ、自分の右手を見つめた。
今、この指先から何かが
——あるはずの機能が、永遠に剥がれ落ちたような奇妙な軽さを感じる。
代わりに胸の奥を通り過ぎたのは、見知らぬ誰かの手が、自分の手を包んでいたような、ひどく大切な温もりの残響。
「……っ」
けれど今の彼女には、その「温かさ」がどのような感覚であったのか、もう正解を導き出すことはできなかった。
沸き上がったはずの微かな震えは、すぐに無機質な沈黙へと塗りつぶされていく。
「……編集長。今日の標本も、なかなか綺麗な『ひび割れ』を見せてくれたわね」
彼女は独りごちながら、飲み残した冷めた紅茶を一口含んだ。
他人の命を自分の作品だと定義した男。
その末路を記録した新しい鍵が、静かに鍵束に加わっている。
チャリ……。
「さて……次は、どんな不幸が、この扉を叩くかしら」

