【小説】さらば、愛しきポンコツ勇者たちよ 第4話 法務部の勇者
「──社長のご意向ですので」
それが彼の口癖だった。 法務部の彼は、決して声を荒らげることはなかった。常に冷静で、言葉を選び、感情を持ち込まずに対応する。 ……ただし、それは誰に対しても、ではなかった。
部長に対しても、現場に対しても、慎重で理性的だった。 でも──社長にだけは、なぜか、判断を委ねていた。
「これ、さすがに無理じゃないですか?」 ある日、営業部から彼に持ち込まれた契約書は、明らかに不利な条件が並んでいた。
「反社チェックも、微妙にグレーで……」 「これ、瑕疵担保の条文、おかしくないですか?」
そう尋ねても、彼は頷くだけだった。
「……社長が、この条件で進めるようにと仰っていますので」 「法的には問題ないです。ただし、グレーではありますが」
それは、いつものことだった。 社長がそう言えば、彼はそれに従う。現場の不安は、法的リスクよりも軽かった。
だから現場は、いつしか彼に“盾”としての期待を抱かなくなった。
「この人は、止めてくれない」
彼がそうなった背景には、社内の空気も影響していた。 かつて、社長の判断に異を唱えた者がいた。 その人物は、数ヶ月後に子会社へ異動になったという。 理由は不明。だが、その噂は、法務の中でも静かに広がっていた。
──社長に逆らってはいけない。
それは明文化されていない掟だった。 彼も、それを肌で理解していた。
一度だけ──彼が「待った」をかけたことがある。
新規事業の立ち上げに向け、複雑な業務委託契約が交わされる直前だった。 その内容には、明らかな利益相反が含まれていた。
社長は言った。 「問題ないでしょ? 相手とは信頼関係あるし、うちの法務も通してる」
そのとき、彼は言ったのだ。 「少し、お待ちいただけませんか」
社長が目を細めた。
「何かあるの?」 「……いえ。法的には問題ありません。ただ、少しだけ気になっている点がありまして」
数秒の沈黙。 でもそれだけだった。
「じゃあ、気にならないってことで。進めてください」
彼は、それ以上、言えなかった。 結局、そのまま契約は締結された。
後から現場は言った。 「あの“ためらい”、本当は止めてほしかったんですよ」
でも彼は、あくまで“法務”だった。 止める力も、止める勇気も──ほんの少しだけ、足りなかった。
彼は几帳面だった。 契約書のフォーマットや押印フローには異常なほど厳しく、文言のズレや印影のズレにも目を光らせていた。
「契約書の“原本性”を守るためには、1ミリのズレも見逃せません」 彼は本気だった。
だがその一方で、「この条文の意図って?」と尋ねられると、少し口ごもった。
「……社長がご希望された内容なので」
構文や句読点の修正には熱心でも、内容のリスク説明はどこか曖昧だった。
社内では年に一度、コンプライアンス研修がeラーニング形式で実施されていた。 主催は法務部。 彼も当然、登壇者として録画映像に登場していた。
だが、話しているのはマニュアルを読み上げているような内容ばかり。 現場社員は、動画の再生スピードを倍速にして、無言で終わるのを待っていた。
「……結局、何がダメで、何がOKなんですかね」
そんな呟きが、よくSlackのサブチャンネルに流れていた。
あるとき、経営企画部からの依頼で、あるM&A契約の草案をレビューすることになった。 彼はひと目見て言った。
「……これは、法務の範囲では対応できかねます」
「いや、契約の話なんだけど……」 「出所の不明なデータに基づく内容について、法的な検証はできません」
──普段、記帳処理の“事実”だけを積み上げてきた経理部員のような、極端なスタンスだった。 数字の流れや、意図の背景には無関心だった。
だから現場はまた、そっとSlackを閉じるしかなかった。
異動の知らせが流れたのは、期末の朝会だった。 彼は笑って言った。
「次は、関連会社のコンプラ部門に行きます。まあ、似たようなもんですね」
Slackには、送別のスタンプが並んだ。 そのうちのひとつに、こう返信していたらしい。
「……あの時、本当は止めたかったんですよ」
きっと、彼なりの“戦い”だったのだ。
その日の帰り道、経営企画のひとりがぽつりと漏らした。 「“コンプラ”って、何のためにあるんでしょうね」
誰も答えなかった。 でも、心のどこかで、全員がその問いを抱えていた。
供養録: 「次こそは、“真のコンプラ”を果たしてね」
(第5話へ続く)
