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【小説】さらば、愛しきポンコツ勇者たちよ 第2話 人事部の勇者

「──人事部のあの人、まだ細かい給与計算任されていないらしいですよ」

経理部の誰かがそう漏らしたのは、年の瀬の昼休みだった。

「え、マジで?入社して何年目?」 「いや、もう5年目。でも“戦略人事”って立場らしいっす」

僕はその会話を、湯気の向こうで聞いていた。

“勇者”と呼ばれていた彼(いや、彼女だった)は、人事部に配属された当初から少し浮いていた。 たしかに人当たりは良かったし、声も通る。説明も丁寧だ。 だが、“現場”に向いていなかった。

入社初年度から、彼女の机にはやたらと分厚い本が積まれていた。 『人的資本経営の未来』『HRBP大全』『行動経済学から読み解く組織論』── タイトルだけで、正直むず痒くなるようなものばかりだった。

Slackではしばしば、こんな投稿が流れてきた。

「今後の人的資本投資について、部内ディスカッションをしたいです!」 「“ジョブ型”をどう再設計するか、皆さんの意見を聞きたいです!」

……でも、その直後に送られてくる給与明細に、平気で誤記がある。


最初の頃は、周囲も戸惑っていた。

給与計算ソフトの操作ミス。 交通費申請の集計ミス(定期区間を考慮していない)。 出張日数と旅費の不一致──

「これ、間違ってますよ」と指摘されても、彼女は笑っていた。 「すみません、実務はまだ修行中でして……」

ところが、その笑顔の裏にあるのは“危機感のなさ”ではなかった。 “プライド”だった。

「人事は“人”を動かす戦略部署であるべきです」 「給与計算は大事。でも、そこだけに埋もれたくはないんです」

そう言い切る彼女に、当時はちょっと苛立ちも覚えた。 現場がバタバタしてるときに、何を優先してるんだ、って。

でも、少しずつ見えてきた。

彼女は、たしかに“実務”は苦手だった。 でも、「人をちゃんと見よう」とする姿勢は、誰よりも真剣だった。

朝の挨拶も、Slackでの返信も、ちょっとだけ丁寧だった。 他の誰かが気づかないような“沈黙している若手”に、さりげなく声をかけていた。

「最近、あの子元気ないですね」 彼女がそんなことを言うとき、たいていその“あの子”は、本当に何かを抱えていた。


ある年の年末調整、事件は起きた。

給与テーブルの税区分を一部更新し忘れ、申告者の手取り額にずれが出た。 しかも、それに気づいたのは年内最終営業日の午後。

社内はざわついた。 「これは、さすがにまずいでしょ……」 「誰がチェックしてたの?」

彼女の名前が挙がった。 けれど、その日、彼女は出社していなかった。 部内でも「今日いないの?」と動揺の声が広がった。

数時間後、社内ネットにこんな投稿が上がった。

先ほどの年末調整に関する件、確認不足でご迷惑をおかけしました。 全件再確認し、来週月曜までに修正対応します。 ※本日以降は休暇予定でしたが、対応完了までは作業に入ります。

あれだけ“戦略人事”を語っていた彼女が、 年末年始のスケジュールを返上して、ひとりで帳票を見直していた。

深夜、オフィスの灯りがひとつだけ点いていたと、守衛が言っていた。 その横を通った夜勤明けのエンジニアが、「あ、人事の人まだいたんですね」と驚いていた。

提出された修正版の資料は、いつもよりずっと整っていた。 無駄な色づかいもなければ、余白もきちんと確保されていた。 備考欄のメモには、ひとつひとつの確認履歴が丁寧に記載されていた。

「なんか……らしくないですね」 同じ部署の誰かがつぶやいた。 でも、その声に、誰も笑わなかった。


異動の話が出たのは、それから半年後のことだった。

朝会で彼女は言った。 「この春から、別の部門で新しいチャレンジをさせていただくことになりました」

机の上にあった分厚い本たちは、すべて段ボールに収まっていた。 それを見て、思わず笑ってしまった後輩がいた。

「なんか、あの本たちも異動してくみたいですね」

Slackには、「異動おめでとうございます!」というメッセージがいくつも並んでいた。 彼女は、それに対してこう返したらしい。

「次の職場でも、“人”のこと、ちゃんと考えてみます」

彼女が一部の部員にだけ送ってきたメッセージがあるそうだ。

「加点式の人事、ってあると思うんです。私みたいな不器用な人間が、ちょっとでも認められるような……そんな場所、作れたらいいなって」

たぶん、まだうまくできなかったことばかりなんだろう。 でも、どこかで誰かが、あの人に少しだけ救われていたのは間違いない。


供養録: 「いなくなったら、本棚がスカスカになってたよ」

(第3話へ続く)


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