【小説】さらば、愛しきポンコツ勇者たちよ 第3話 経理部の勇者
「──彼、まだ“エクセル方眼紙”使ってるらしいよ」
Slackの雑談チャンネルに、そんな書き込みが流れてきたのは年度末の頃だった。
「また?」「マジか……」といったスタンプがぽつぽつと並ぶ。 でも誰も、直接は注意しない。彼が“経理部の勇者”と呼ばれていることに、誰も疑問を持っていなかったからだ。
彼が作る帳票は、すべて方眼紙だった。マス目を揃え、色で区切り、線で囲む。まるでパズルのようなレイアウト。
セルの結合に次ぐ結合。数式もどこか不安定で、印刷すると見切れる。それでも彼は、「見やすさ重視ですから」と胸を張っていた。
部内では何度か、「スプレッドシートへの移行どうですか」と提案された。 だが彼は言うのだった。 「いや、エクセルの方が“魂”がこもるんです」
それを聞いた若手は、そっと顔を伏せた。
記帳作業が彼のメイン業務だった。会計システムに仕訳を入力し、出納帳と突き合わせ、月次の〆処理を進める。
一見、そつなくこなしているように見えた。だが、ある時ふと僕が尋ねた。 「ここの売上計上、請求書とズレてませんか?」
彼は一瞬黙った。 「……すみません、請求書、まだ見てませんでした」
──その瞬間、何人かの時間が止まった。
「記帳=会計」と思っていたのだろう。彼にとって、数字は“画面上に入力するもの”であり、“実物に基づくもの”ではなかった。
さらに言えば、彼の中では“記帳こそが経理”だった。 予実管理?資金計画?経営分析?──それは「経理がやるべき仕事ではない」とすら思っていた節がある。
「そういうのは、経営企画の仕事じゃないですか?」 そう言って、さらりと会話を終わらせる。
実際、経営企画から予実管理を依頼された際も、彼はこう返した。 「出所のわからないデータの検証はできません」
──普段から記帳に専念しているにもかかわらず、数字の動きには一切関心がないことを、自ら証明するような一言だった。
だが不思議と、嫌味がなかった。どこまでも“素”だった。
彼のファイルには、マクロが組まれていた。 開くと警告が出て、動かすには許可が必要。しかも説明が一切ない。
「どうやって作ったんですか?」と聞くと、彼はこう答えた。 「前の職場の人が使ってたやつを、ちょっといじっただけです」
つまり──誰もその中身を知らない。
そして、そのファイルが一部の月次処理に“必要不可欠”になっていることもまた、全員が知っていた。
そんな彼が、一度だけ全社表彰を受けたことがあった。
年末、急な資金繰り対応が必要になった時のこと。 会計データの精査が間に合わず、どの債権が回収可能か不明瞭な状態だった。
「この表に、“取引先ごとの入金実績”あります」
そう言って彼が出したのは、例の方眼紙フォーマットだった。
そこには、取引先別・入金日・金額が細かく色分けされて記録されていた。しかも3年分。本人曰く「趣味で残してたんです」とのことだった。
その表をもとに、部長が銀行対応を乗り切り、資金ショートを回避した。
「まさか、この資料で助けられるとは……」 そう言って、部長は苦笑した。
全社メールでの表彰文には、こう書かれていた。 『経理部○○さん、地道な記録が会社を救いました』
Slackには、拍手のスタンプが並んだ。 でも、彼はすぐには気づかなかったらしい。 「昼、外にカレー食べに行ってました」と言っていた。
異動は、穏やかに決まった。 誰も反対はしなかったし、誰も彼を責めなかった。
最後の日、彼は自席のPCをゆっくりとログオフした。 「この帳票、来月からは別の人が触るんですよね」
そう言って、丁寧に使い方マニュアルを置いていった。 パワポで作られたその資料は、妙にスライドが多く、マクロの説明は「まず、信じてください」から始まっていた。
思わず吹き出した後輩がいた。
でも、その後輩はこうも言った。 「……なんか、この人、嫌いになれないんすよね」
供養録: 「関数より、数字そのものに興味を持てたらよかったね」
(第4話へ続く)
