時代の特等席で。交錯する世界史と自分史 #04【人物月旦シリーズスピンオフ】
バブルの波打ち際と、忍者の影 —— 1988年、シドニーの歪み
こんにちは、Bell noteです。
#01回、#02と、サッチャー政権末期の煤(すす)けたロンドンや、
返還前の熱気が渦巻く香港の話をしてきました。
今回は、時計の針をさらに少し戻し、私の海外放浪の「原点」となった場所へ向かいたいと思います。
舞台は、南半球の大陸、オーストラリア。 私が初めて日本の外へ飛び出し、約1年半という時間を過ごした場所です。
プロローグ:現在の「高嶺の花」と、1988年の「ボーナスステージ」
現在、私たちが暮らす日本と、南半球のオーストラリアとの間には、かつてとは真逆の、そして残酷なほどの「経済的な断絶」が横たわっています。
いま、シドニーのカフェで何気なく「フラットホワイト(エスプレッソにスチームミルクを合わせた、オーストラリアで愛されるコーヒー)」を頼むと、平気で5.5ドルから6ドル近くを請求されます。
日本円にしておよそ600円以上。現在のレートや物価上昇を加味すれば、ちょっとしたランチを食べようものなら、3,000円が財布から消えていくのは当たり前です。
それもそのはず、今のオーストラリアは、世界でもトップクラスの「最低賃金」を誇る国になっています。時給は25豪ドル(約2,700円)を超え、日本の最低賃金(約1,120円)の倍以上という水準に達しています。 かつては「物価が安くて過ごしやすい国」だったはずの場所が、今では日本から渡った若者たちが、「出稼ぎ」として農場やカフェで働き、日本で働く正社員より高い給料を得て帰ってくる——そんな「逆転現象」がニュースになるのも、もはや日常の風景となりました。
今の私たちにとって、オーストラリアは気軽に長期滞在して遊べる場所ではなく、覚悟とお金を持って挑む「高嶺の花」になりつつあるのかもしれません。
しかし、私がバックパックを背負って降り立った1987年のオーストラリアは、まるで別の惑星でした。
当時の為替レートは、1豪ドル=80円〜90円前後で推移していました。
街中のカフェで飲むコーヒーは1ドルもしませんでしたし、映画館のチケットも7ドルから9ドル程度(当時の日本円で700円前後)でした。
当時の日本は、バブル景気へと向かう急坂を駆け上がっている真っ最中でした。1985年のプラザ合意以降に急速に進んだ円高は、海外に出た日本人にとって最強の「魔法の杖」でした。
日本でアルバイトをして貯めたなけなしの円を両替するだけで、現地では不釣り合いなほどの購買力を持つことができたのです。
当時の私は、この経済的な優位性を、自分の実力だと勘違いしていました。 働かなくても、あるいは少しのアルバイトをするだけで、豊かに、自由に暮らせてしまう感覚。それはまるで、人生における「ボーナス・ステージ」に迷い込んだような全能感でした。
けれど、当時の私は気づいていなかったのです。その心地よさが、自分の力ではなく、国の勢いという「下駄」を履かせてもらっていただけだったことに。そして、その魔法がいずれ解ける日が来ることに。
そして何より、私が能天気にサーフィンを楽しんでいたその海辺で、オーストラリアという国自体が、建国以来最大級の「祝祭」と、その足元で渦巻く「怒り」の狭間で、激しく揺れ動いていたことに。
1988年。オーストラリアは「建国200周年(Bicentenary)」という歴史的な節目を迎えていました。 シドニー・ハーバーには世界中の帆船が集結し、空には花火が上がり、街中がお祭り騒ぎに包まれていました。しかしその裏側では、先住民(アボリジニ)の人々による「侵略の200年」を告発する大規模なデモが行われ、「White Australia(白豪主義)」の歴史に対する問い直しが噴出していました。
さらに街中では、「ジャパン・マネー」への複雑な視線が注がれていました。不動産を買い漁る日本人投資家への反発、そしてなぜかハイドパークに出没するという「忍者」の噂……。
今回は、そんな「光と影」、そして「熱狂と偏見」が交錯する1988年のシドニーで、何者でもなかった若者が目撃した時代の歪みについてお話しします。
【本連載について】 この物語は、1987年から1989年にかけて私がオーストラリアで体験した記憶をベースに描かれています。当時の私は、世界情勢や歴史的背景を深く理解していたわけではありません。本稿は、当時の肌感覚を現在の視点から補強し、「個人的な記憶(自分史)」と「激動の時代(世界史)」が交差する瞬間を再構成したものです。
第1章:エコノミック・アニマルと「ハイドパークの忍者」
1988年1月26日。オーストラリア・デー。 あの日、シドニーは間違いなく、世界の「熱源」のひとつでした。
1788年にアーサー・フィリップ率いるイギリスの第一船団(ファースト・フリート)がシドニー・コーブに到着してから、ちょうど200年。
「Celebration of a Nation(国家の祝祭)」 というスローガンの下、国全体が建国200周年を祝う一大イベントのクライマックスを迎えていました。
シドニー・ハーバーを見渡せる場所には、夜明け前から何万人もの人々が押し寄せていました。私もその人波に揉まれながら、眼下に広がる光景に息を呑みました。
真っ青な海を埋め尽くすのは、世界中から集まった帆船(トールシップ)の群れです。 かつての植民地時代を再現するように、白い帆を張った巨大な帆船たちが、風を受けて堂々と港に入ってくる「第一船団リエナクトメント航海」。
その周りを無数のクルーザーやヨットが取り囲み、海面が見えないほどの密度でひしめき合っていました。
空を見上げれば、当時としても珍しい巨大な飛行船がゆっくりと旋回し、祝賀ムードを空から煽っていました。 どこを見てもオーストラリア国旗がはためき、顔にペイントをした人々がビールを片手に歓声を上げている。
「この国は今、絶頂にあるんだな」 20歳前の若者だった私は、その圧倒的な「陽」のエネルギーに当てられ、単純に感動していました。
それは、後に「ピーク・オーストラリア」とも呼ばれることになる、ナショナリズムと楽観主義が融合した、まぶしすぎるほどの光景でした。
しかし、その光が強ければ強いほど、足元に伸びる「影」もまた、濃く、深くなるものです。
ハーバーの祝祭から少し離れた路上で、私はもう一つの「熱気」を目撃しました。 それは、歓声ではなく、怒号と祈りが入り混じった、重低音のような響きでした。
"White Australia has a Black History"(白豪主義には黒い歴史がある) "We have survived"(私たちは生き延びた)
アボリジニ(先住民)の人々と、彼らを支持する白人市民たちによる、大規模な抗議デモでした。
彼らはレッドファーンからハイドパークに向けて行進していました。その数、およそ4万人以上。 彼らにとって、1月26日は「建国記念日」などではなく、自分たちの土地と文化が奪われた 「侵略の日」 だったのです。
当時の私は、オーストラリアの歴史や「白豪主義」という言葉の意味を、教科書的な知識としてしか知りませんでした。
しかし、目の前で起きていることは、知識など軽く飛び越えて迫ってきました。 海側では、植民地化の始まりを「偉業」として再現する帆船パレードが行われている。 陸側では、それを「侵略」と呼び、生き残ったことの誇りを叫ぶ人々が歩いている。

当時のボブ・ホーク首相は、この祝祭を国民統合の象徴にしようとしていましたが、私の目に映ったのは、決して交わらない二つの歴史が、同じ時間、同じ場所に存在しているという強烈な「摩擦」でした。
そして、その摩擦の中にいたのは、白人と先住民だけではありませんでした。 祝祭の喧騒の裏で、地元紙の片隅に奇妙なニュースが踊っていたのを覚えています。
「ハイドパークに忍者が出没」
シドニーの中心部にあるハイドパーク周辺で、忍者の格好をした暴漢が通行人を襲った、あるいは不審な動きをしていたというのです。
当時、これは単なる変質者のニュース、あるいは都市伝説として消費されていました。
しかし、今にして思えば、これは当時のオーストラリア社会が抱いていた「日本」への複雑な感情が、歪んだ形で噴出した現象だったのかもしれません。

1980年代後半、日本はバブル景気の絶頂期にあり、オーストラリアへの不動産投資やリゾート開発を猛烈な勢いで進めていました。
「ジャパン・マネーがオーストラリアを買い占める」という潜在的な恐怖と、ハリウッド映画などを通じて流入した「Ninja」というポップカルチャー。この二つが奇妙に混ざり合い、「ハイドパークの忍者」という幻影を生み出したのではないでしょうか。
当時の私は、そんな社会心理など知る由もなく、ただ「変な奴がいるもんだな」と笑っていました。
しかし、現地のオーストラリア人からすれば、私もまた、得体の知れない「金持ちの国から来た若者」の一人に過ぎなかったのかもしれません。
実際には、私はキングスクロスの安宿に住み着き、明日の食費も心配するような貧乏旅行者でした。
しかし私の背後には常に、世界を席巻する「強い円」と「エコノミック・アニマル」としての日本の影が張り付いていたのです。
私はその日、世界史の教科書には載らない「現場の空気」を吸い込んでいました。 祝祭のビールと、抗議のシュプレヒコール、そして忍者の噂。 そのすべてが入り混じる1988年のシドニーの夏。 私は、自分が「歴史の特等席」に座っていることなど知る由もなく、ただその熱気の中を、サンダル履きで歩き回っていたのです。
第2章:バブルの輸出 —— ジョージ・ストリートのUFOキャッチャーと、サーキュラキーの「冷たいコーヒー」
ハイドパークでの「忍者」の噂が、人々が抱く日本への潜在的な恐怖の表れだったとすれば、シドニーの目抜き通りには、もっと直接的で、煌びやかな「日本の消費文化」が溢れ出していました。
私が住んでいたキングスクロスは、ドラッグや売春が横行する「夜の湿った路地裏」でしたが、バスでわずか数分の距離にあるジョージ・ストリート(George Street) は、全く別の顔を持っていました。
映画館やショッピングセンターが立ち並ぶこのメインストリートは、欲望と消費が輝く「昼の表通り」。
再開発されたばかりのクイーン・ビクトリア・ビルディングが優雅に鎮座し、行き交う人々もどこか洗練されて見えました。
そんな輝く通りの一角にあるゲームセンター(アミューズメント・アーケード)に足を踏み入れた時、私は奇妙な既視感に襲われました。 そこには、見慣れた極彩色の光を放つ箱が、我が物顔で並んでいたからです。
UFOキャッチャーです。
セガなどの日本メーカーが開発したこのクレーンゲームは、日本国内での爆発的なブームを経て、海を越えてオーストラリアにまで輸出されていました。 ガラスケースの中に積み上げられたのは、日本のファンシーなぬいぐるみたち。それに興じているのは、体格の良いオージーたちです。彼らが小さなジョイスティックを繊細に操り、真剣な眼差しで「カワイイ」景品を掴もうとしている光景は、なんともシュールでした。 「ここはシドニーのど真ん中なのに、やっていることは新宿や渋谷と変わらない」 それは、日本の過剰なまでの資本とエンターテインメントが、国境を越えて溢れ出していた証左でした。

そして、日本の「影」はゲームだけではありませんでした。
シドニーの海の玄関口、サーキュラキー(Circular Quay)。
オペラハウスとハーバーブリッジを望むこの風光明媚な場所で、ある日、大規模な「アイスコーヒー」のプロモーションイベントが行われていました。主催していたのはネスカフェだったと思います。
オーストラリアには元々、イタリア系移民が持ち込んだエスプレッソ文化が根付いていました。しかし、それはあくまで「熱いコーヒー」の文化です。 そこへ日本企業が持ち込もうとしていたのは、明治時代の日本で生まれたとされる「冷やしコーヒー」の文化でした。
実は、氷で冷やしたコーヒーを飲むというスタイルは、日本が独自に発展させたものです。
明治24年(1891年)頃には東京の氷屋で「氷コーヒー」として振る舞われ、大正時代には喫茶店の定番メニューとして定着していました。世界的にはまだ珍しかったこの「冷たいコーヒー」を、日本企業は新しいライフスタイルとして、夏のシドニーに提案していました。
サーキュラキーの広場では、シェイカーを使って泡立てたアイスコーヒーが配られ、オージーたちが物珍しそうにそれを受け取っていました。
イタリアのエスプレッソ文化が根付くこの地に、日本発の「冷たいコーヒー」を力技でねじ込もうとするその光景。
それは、バブル景気に沸く日本が、自国の文化やスタイルを世界標準にしようとしていた、時代の勢いそのものでした。
ジョージ・ストリートでUFOキャッチャーに小銭を投じ、サーキュラキーでキャンペーンのアイスコーヒーをもらう。 そんな時、私はふと、自分が「経済大国ニッポン」から来た若者であることを思い出さずにはいられませんでした。
しかし、ひとたびバスに乗ってキングスクロスへ戻れば、そこには薄汚れたドミトリーと、明日の食費を切り詰める生活が待っています。
輝くメインストリートの「バブルの輸出」と、
キングスクロスの「底辺の生活」。 この二つの極端な世界を行き来しながら、私は1988年のシドニーが抱える「熱」の断層を、身をもって体験していました。
第3章:捨て値のウニと、ヒルトンの狂騒 —— 価値の「バグ」を食べる
当時の私には、確かに驚くほどお金がありませんでした。 しかし不思議なことに、不安はまったくありませんでした。それどころか、シドニーという街のシステムに潜む「バグ」のような隙間を見つけ出し、そこをすり抜けて生きることに、ある種のゲームのような興奮さえ感じていました。
その最たる例が、ダーリングハーバーにあった、シドニー・フィッシュマーケットでの発見です。
今でこそ、観光客向けのフードコートが整備されたきれいな場所ですが、当時の市場はもっと無骨で、プロの漁師や業者が長靴で闊歩する「現場」そのものでした。
コンクリートの床は常に濡れていて、飛び交うカモメの声と魚の生臭さが充満するその場所で、私は信じられない光景を目にしました。
市場の片隅に積まれた発泡スチロールの箱。
そこに無造作に放り込まれている、黒いトゲトゲの塊。 ウニです。
日本では高級寿司ネタとして珍重されるその食材が、当時のオーストラリアでは「アワビやロブスターを捕る網を傷つける厄介者」という扱いで、文字通り捨て値同然で転がっていたのです。
「これ、もしかして……」 試しに数個買って(というより、小銭で譲ってもらって)宿へ持ち帰り、キッチンで割ってみると、中には鮮やかなオレンジ色の身がぎっしりと詰まっていました。
スプーンですくって口に運べば、濃厚な甘みが脳髄を直撃します。
私は心の中でガッツポーズをしました。
日本でビジネスマンが高い金を払って食べているものを、ここでは、ほぼタダ同然で食べている。
それは「貧しさ」などではなく、情報の非対称性を利用した「賢い勝利」の味がしました。
まだグローバルな寿司ブームが到来して価格が適正化される前、日豪間の価値のズレが生んだ歴史のエアポケットを、誰よりも早く見つけて楽しんでいたのかもしれません。

一方で、私のバイト先であったヒルトン・シドニーでは、また別の角度から「バブル」を眺めていました。
ジョージ・ストリートにそびえるこのホテルは、当時アラン・ボンドなどの「コーポレート・カウボーイ」たちが買収合戦を繰り広げていた、まさにバブルの象徴のような場所でした。
厨房の皿洗いのアルバイトとして、彼らのような者たちが残した高級料理を片付けながら、私は彼らを羨むどころか、どこか冷静な観察者のような気分でいました。
彼らは一晩で私の数ヶ月分の生活費を使い、私は捨て値のウニで王様のような食事をする。
「同じ時代にいるのに、見ている景色がこうも違うか」 それは卑屈な感情ではなく、まるでコメディ映画のワンシーンを特等席で見ているような、奇妙な面白がり方でした。
財布の中身は空っぽでも、私には「若さ」と、いざとなれば日本へ帰ればなんとかなるという「強い円への信頼」がありました。
だからこそ、ヒルトンの裏口で休憩しながら見上げるシドニーの空は、どこまでも青く、不安なんて微塵も感じさせなかったのです。
第4章:多文化の最前線
Little Bloomfield St とヒルトンの裏側
キングスクロスのドミトリーでの生活を経て、私はよりディープな場所へと拠点を移しました。 Little Bloomfield Street, Surry Hills 。
当時はまだジェントリフィケーション(高級化)の波が押し寄せる前で、そこは貧乏な若者や移民、アーティストたちが身を寄せる、古びたテラスハウス(長屋)が並ぶエリアでした。
私が住み着いた長屋は、まさに「吹き溜まり」のような場所でした。
薄い壁一枚隔てた隣に住んでいたのは、人物月旦(#10)でも触れたスティーブをはじめとするイギリス人の若者たちでした。
彼らの多くは、サッチャー政権下の長引く不況と閉塞感漂う英国を飛び出し、新天地を求めてやってきた「経済難民」に近いバックパッカーたちでした。私たちは誰かが開けた壁の穴を通じて隣通し、行き来し、同じ釜の飯を食いながら、将来への不安と希望を共有していました。
私がアルバイトをしていたヒルトンのバックヤード(厨房)も、また別の「世界地図」を描いていました。 表のバンケットルームでは日本人のビジネスマンが優雅に食事をしていましたが、その裏側、熱気と湿気が充満する皿洗い場を取り仕切っていたのは、南米系の人々でした。 マネージャーも、同僚たちの多くも、ペルーやチリなどからの移民でした。
当時、南米ではペルーの「センデロ・ルミノソ」によるテロ活動や、各国の軍事政権後の政情不安が続いており、多くの人々が職と安全を求めてオーストラリアへ渡ってきていたのです。
蒸気と皿のぶつかる音が支配する洗い場で、ふと手が止まる瞬間がありました。 「国から手紙が届かないんだ」 ペルー人の同僚が、洗剤の泡にまみれた手を見つめながら、ポツリと漏らした言葉。
その視線の先には、表のバンケットルームから下げられてきた、手つかずの高級食材が山のように積まれていました。
彼の故郷では爆弾が破裂し、明日をも知れぬ生活がある。壁一枚隔てた表の世界では、バブルの日本人が食べきれないほどの富を浪費している。 皿一枚を洗うその短い時間の間に、世界の残酷なコントラストが凝縮されているようでした。
郊外のベラウラで私が最初にお世話になったホストファミリーもペルー人一家でした。彼らは陽気で、仕事中もスペイン語で冗談を飛ばし合っていましたが、その逞しさの裏には、母国を離れざるを得なかった切実な事情がありました。
そして、この街にはもう一つ、強烈な「色彩」がありました。行きつけの 近所のパブでよく見かけた、ハリウッド女優と見紛うばかりの美しい人たち。彼らの多くは男性でした。 当時のシドニー、特にオックスフォード・ストリート(Oxford Street)に近いこのエリアは、世界有数のゲイ・カルチャーの発信地でした。
しかし、それは現在の「多様性の祭典」として企業スポンサーがつくような華やかな側面だけではありません。
1988年は、HIV/エイズのパンデミックが社会に暗い影を落としていた時期でもあります。 当時、テレビで流れていた政府の啓発CM「Grim Reaper」を、私は今でも鮮明に覚えています。 ボウリング場に現れた死神が、ボールを放つ。そのボールが、ピンの代わりに並べられた無防備な人間たちを次々となぎ倒していく——。
あまりにもショッキングなその映像が流れると、パブの喧騒が一瞬、水を打ったように静まり返りました。それは「病気」というよりも、目に見えない「死刑宣告」が隣り合わせにあるような、冷たく張り詰めた空気でした。
そんな逆風の中で行われたマルディグラ(Mardi Gras)のパレードは、単なるお祭り騒ぎではなく、文字通りの「生存証明」としての熱気を帯びていました。
不況のイギリスから来た隣人、政情不安の南米から来た同僚、死の恐怖と闘うセクシャルマイノリティたち。
そして、バブルマネーという「最強のパスポート」を無自覚にぶら下げていた私。 それぞれの国が抱える事情を背負った人間たちが、シドニーという街の「隙間」で、摩擦し合いながらも、奇妙なバランスで共存していました。 私は、この「リトル・ブルームフィールド・ストリート」という小さな通りの長屋で、世界が混ざり合い、きしみながら回っていく歴史の現場に、ただの住人として立ち会っていました。
結び:反転する未来の分岐点で
ハイドパークの忍者の噂も、フィッシュマーケットの捨て値のウニも、ヒルトンホテルの狂騒も。 これらはすべて、単なる「若き日の思い出」ではなく、1988年という歴史の特異点が吐き出した「時代の熱」そのものでした。
当時の私は、システムの間隙を縫って捨て値のウニを貪りながら、「俺は賢く生きている」と錯覚していました。
しかし、それは大きな勘違いでした。 私が享受していたのは、バブル経済の絶頂へと駆け上がる日本と、資源ブーム前夜のオーストラリアとの間に生じた、歴史のほんの一瞬の「裂け目」が生んだ歪みに過ぎなかったのです。
いまの視点から振り返れば、あの年は「巨大な逆転」の起点でした。
私が無邪気に消費していた「強い円」は、その後「失われた30年」を経て力を失い、逆に当時は捨て値で売られていたオーストラリアの資源は、その後のグローバル経済の中で正当な、あるいは手が出ないほどの高値をつけられるようになりました。
あの時、シドニーの安宿街や市場の片隅に転がっていたのは、まだ誰も価値に気づいていなかった「未来の富」だったのです。
私は、その歴史的な転換点の「波打ち際」に立っていました。
建国200周年の祝祭と抗議、ジャパン・マネーへの羨望と反発、白豪主義から多文化主義への軋み。 それら巨大なエネルギーがぶつかり合う場所には、必ず激しい「摩擦」が生まれます。
Little Bloomfield Stの長屋で、南米の移民やセクシャルマイノリティ、そしてイギリスからのバックパッカーたちと肩を寄せ合って生きた日々は、その摩擦熱を肌で感じるための「特等席」でした。
清潔で、安全で、すべてが効率化された今のシドニーでは、もうあのザラザラとした手触りを感じることはできません。 だからこそ、私は記録しておきます。 かつて世界がもっと不完全で、隙間だらけで、それゆえに個人が入り込む余地があった時代のことを。

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