『確認したから悪くない』という思考停止に潜む危うさ──りょさんと、こなし意識のこと。敬意の書棚シリーズ
こんにちは、Bell noteです。
先日、りょさんの記事を読み、「りょさん、えらいな~」と思いました。
仕事の場面で、ほんの少し違和感を覚えながらも流してしまい、それがミスにつながった──そんなことは誰にでも起こります。けれども、りょさんはそれを「魔が差した」と正直に書き残し、自分の戒めとしようとしていました。その姿勢に、潔さと誠実さを感じたのです。
記事には、同僚の言葉も出てきます。
「私は確認を頼んだから悪くない」
この一言に触れたとき、私は少し考えました。
一見、筋が通っているようにも聞こえます。上司や同僚にチェックを頼み、承認を得たのだから、自分の役割は果たした、という理屈です。でも、その発想には大事なものが抜け落ちている。自分の中に生まれた違和感を受け止める、という視点。というか、その同僚の方はそもそも、違和感をもっていないかもしれません。
りょさんは「なぜ見過ごしてしまったのか」と自分に矢印を向けました。だからこそ、次に同じ状況に立ったときは、違和感を無視せず行動できるはずです。
一方で同僚の言葉は、矢印を外に向けてしまっている。他人に確認さえしてもらえば、自分はもう自由だ──その思考では、同じ見落としを繰り返しても痛まないでしょう。
この二つの姿勢の差を読んでいて、私は以前に目にした三浦悠佑弁護士のnote記事を思い出しました。そこで紹介されていたのが「こなし意識」という言葉です。形式的にプロセスを踏むことで安心し、責任を手放した気になってしまう心のあり方を、そう呼んでいました。
表面上は秩序を守っているように見えながら、その実、次のトラブルを育ててしまう。りょさんの同僚の発言は、この「こなし意識」を端的に表しているように思えたのです。
🖋会社の現場でよく見かける「こなし意識」
この「こなし意識」、決して珍しいものではありません。
大小を問わず、どんな会社の中にもひっそりと息づいています。
たとえば会議の場。上司が「それでいい」と言えば、細かく考えることをやめてしまう。
回覧板のように書類を回し、最後に印鑑がそろえば「もう自分の責任は終わった」と胸をなで下ろす。
マニュアルどおりに項目をチェックしただけで、実際の現場を目にしなくても「これで大丈夫」と思い込む。
こうした場面は、誰しも心当たりがあるはずです。
そして、その背景にあるのは「まあ、いっか」という小さな油断です。小さな油断が重なり合うと、やがて大きな見落としに変わる。組織で起きる不正や事故の多くは、派手な事件というより、そうした油断の積み重ねが形を変えて表れるものではないでしょうか。
こなし意識のやっかいなところは、外から見ると“秩序を守っているように見える”点にあります。会議は開かれている、書類は回っている、マニュアルは守られている──形式的には正しく進んでいる。しかし、その内側では「自分で考えなくても責任は回避できる」という心理が働き続けているのです。
りょさんの同僚が口にした「私は確認を頼んだから悪くない」という言葉も、この延長線上にあります。
プロセスを踏んだから安心、後は誰かが責任を取ればいい──その考え方は、一見もっともらしくても、自分自身が成長するきっかけを失わせ、組織にとってはリスクを増やす方向にしか働かない。
つまり「こなし意識」とは、単なる怠慢ではなく、形式に寄りかかることで自らの判断を手放す心の習慣なのです。
🖋三浦弁護士の記事が示すこと
この姿勢の違いを考えていたとき、ふと思い出したのが冒頭で触れた三浦先生の記事でした。
三浦先生は「法律の話をせずに、法律の問題を解決する」という少しユニークな信念を掲げる企業法務の弁護士です。条文や規則の正しさだけを押しつけるのではなく、人の言葉や感情に翻訳しながら、組織に根付く課題を解きほぐしていく──そういうアプローチを取る方だそうです 。
その三浦先生が紹介されていたパーソル総合研究所の調査に、目を引く数字がありました。
不正や不祥事が発生した企業では、「こなし意識」が不正のない企業に比べて4〜5倍も多く見られたというのです。
この結果が示しているのは、「ルールさえ守らせれば、組織は健全になる」という私たちがつい抱きがちな思い込みの危うさです。ルールの周知や研修、チェックリストの導入──そうした取り組みが、必ずしもリスクを減らす方向に働かない。むしろ「これをやっておけば責任は自分に返ってこない」という免罪符のような安心感を生み出し、人を形式に走らせる。これが「こなし意識」のやっかいなところです。
三浦先生は、この構造を「情緒的共感を欠いたコンプライアンスは有害」という言葉で表しました。
つまり、法律やルールを理解するだけでは足りない。そこに「なぜ必要なのか」という物語が伴わなければ、人は本気で行動を変えないということです。
考えてみれば、これは私たちの日常感覚にも通じます。
「なぜ挨拶が大事なのか」を知らずに、ただ形式として頭を下げるだけの挨拶は、相手に響かない。
「なぜマニュアルを守るのか」を理解せずに、チェックリストに丸印をつけるだけでは、肝心の安全は守られない。
形式の裏にある“なぜ”を感じ取れないまま繰り返される行為は、かえって危険を呼び寄せてしまう。
りょさんの同僚が「私は確認を頼んだから悪くない」と言ったとき、その言葉はまさに「こなし意識」の縮図に見えました。
一方で、りょさん自身は「違和感を無視した自分が悪い」と正直に振り返った。そこには、他者に迷惑をかけたかもしれないという痛みへの共感がありました。
三浦先生のデータと、りょさんの記事の描写。
一方は数字の世界から、もう一方は個人の体験から。
両者が同じ構図を映し出していることに気づいたとき、私はこの問題の本質をより鮮明に理解できたように思います。
🖋りょさんの誠実さが照らすもの
ここで、再びりょさんの記事に立ち返りたいと思います。
りょさんは「違和感を見逃した」と率直に書いていました。自分の弱さをそのまま認め、迷惑をかけた相手のことを思いながら反省していた。その姿勢は、決して大げさではなく、むしろ淡々としているのに、読む側には強い誠実さとして伝わってきました。
人は往々にして、失敗の原因を外に探しがちです。状況が悪かったとか、相手も確認してくれたはずだとか、言い訳はいくらでも並べられる。ところが、りょさんはあえて自分に矢印を向けました。「違和感を感じていたのに無視した自分が悪かった」と。ここに、彼女の誠実さがにじみ出ています。
この姿勢は、まさに「情緒的共感」に立脚したものだと感じます。形式やルールに寄りかかるのではなく、「自分の行為が誰にどう影響したか」を自分ごととして受け止める。共感を伴う視点があれば、人は次に同じ場面に立ったとき、立ち止まって行動を変えることができる。だからこそ、同じ過ちを繰り返す可能性は格段に下がるのです。
一方で、同僚の「私は確認を頼んだから悪くない」という発言には、その共感は僅かも見えません。手続きの正しさに依存し、相手への影響を自分の責任として感じ取ろうとしない。そこでは「なぜそれをやるのか」という問いが置き去りにされています。結果として、同じような見落としをまた繰り返してしまうでしょう。
りょさんと同僚──二人の対比は、三浦先生の記事がデータで示していた構図そのものです。
一方は健全な成長につながる共感のプロセスを持ち、もう一方は有害なループに閉じ込められている。数字や調査報告では少し遠く感じられる「健全」と「有害」という言葉が、りょさんの記事を通すと、ぐっと身近なものとして迫ってきます。
🖋結びに
「コンプライアンス」という言葉自体は、今や誰もが耳にしています。
法令順守や倫理観、あるいはポリティカル・コレクトネスの話題にいたるまで、マスコミやインターネットを通じて日々目にしない日はありません。
ただ、多くの場合それは大企業の不祥事や社会的な問題と結びついて語られ、どこか自分の働く現場や日常とは距離のある出来事として受け止められがちです。
「会社の一社員としての自分」と「世間で騒がれているコンプライアンス問題」とのあいだに、なかなか橋がかかっていない──そこにギャップがあるのだと思います。
けれども、実際にはもっと身近なところにその本質はあります。
会議で「上司が見たから大丈夫」と思ったり、書類に印鑑がそろった時点で安心したり。あるいは自分の中に小さな違和感を覚えながら、「まあ、いっか」と流してしまったり。そうした日常の小さな判断の積み重ねが、実はコンプライアンスと地続きなのです。
りょさんが正直に綴った体験は、そのことを教えてくれます。
誰にでもある迷いや油断を、弱さとしてさらけ出し、自分の言葉に置き換える。そこで見えてくるのは、自分ごととしての姿です。誰もが似たような場面に立ち、同じように心の中で揺れ動んでいる。問題は、そこでどう振る舞うかです。その違いが、人としての奥行きを決め、組織の健全さをも左右していくのだと思います。
そして最後に、こうした気づきを言葉の補助線として示してくださった三浦先生にも、感謝をお伝えしたいと思います。
数字や調査だけでは届きにくい「危うさ」を、りょさんの日常の記録と重ね合わせたとき、そこにリアリティが生まれる。データと生活の言葉が交差する瞬間に、学びは深まり、私自身の「敬意の書棚」に新しい一冊が加わえさせていただきました。
🖋最後に:お二人に対しての御礼とお詫び
三浦先生へ
断りなく勝手に記事にしてしまったことを何卒ご容赦ください。
今回の記事では、三浦先生が紹介されていた調査や視点を参考にさせていただきました。
「こなし意識」や「情緒的共感の欠如がもたらす危うさ」という視点は、専門的な研究データを背景にしながらも、私たちの日常に通じる実感として理解することができ、大変勉強になりました。
ありがとうございました。
りょさんへ
りょさんの記事は、よく読みに行っていますが、特別に大きなテーマを掲げているわけではなくても、日常の何気ない出来事から、いつもふとした気づきになることが多いのです。りょさんご本人はそんな意図はないのかもしれませんが……。だからこそ自然で、身に沁みるものがあります。今回もそのひとつでした。ありがとうございました。
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