『ソシオパスフレーム』──探偵・寅子、覚醒前夜。
📢本編を読む前に
本編を読み進める前に、お願いがあります。
この物語は、『久兵衛、最期の事件』の続編にあたります。
源久兵衛という警部が、白石輝道という男を追い、証拠を掴めないまま命を落とした——その事件を、まだご存じでない方は、ぜひ先に前作をお読みいただくことをお勧めします。
本作の主人公・源寅子は、あの事件から八年が経った今も、祖父を失った日を抱えたまま生きています。前作を読んでいただいていると、寅子が人差し指と親指で作る小さな四角の意味が、また違って見えるはずです。
白石輝道という名前も、前作とこの物語を続けて読むことで、初めてその輪郭の全体が見えてきます。
🔗前作『久兵衛、最期の事件』は以下のリンクからお読みいただけます。
そして、もうひとつ、この物語『ソシオパスフレーム』にも続きがあります。
次回作への重要な伏線が詰まった本作を、どうぞ楽しんでください。
⚠️トリガーワーニング
最後に、もう一つだけ事前にお伝えしておきます。
本作は完全なフィクションであり、実在の人物や団体、事件等とは一切関係がありません。
本作はサスペンスおよびミステリーとしての設定上、物語に登場するこの手記が暴こうとするのは、人間の善意や正義感が裏返る恐ろしい瞬間です。そのため作中には、冤罪、ネット上の誹謗中傷、そして自死を巡る生々しい描写が含まれています。 読者の方によっては、現実の出来事と重なり、強い心理的負荷を感じる可能性があります。どうか、ご自身の心を守ることを最優先に、辛いと感じた時はページを閉じるなど、無理をせずにお読みいただければ幸いです。
👤『ソシオパスフレーム』登場人物解説
白石 輝道(しらいし・てるみち)
この物語に登場しない男。どこにも、直接の加害者としては名前が出てこない。誰かを操り、誰かに旗を持たせ、誰かが動くのを待つ。命じない。手を汚さない。それでも人が死ぬ。顧問の欄にすら名前がない。

宮武 正(みやたけ・ただし)
元地方紙記者、現フリーランス。「誰かが書かなければ、なかったことになる」——その一言を信じて、何年もかけて白石輝道という男を追い続けた。会社にも警察にも見放され、家族にも話せないまま、一人で書き続けた。娘の部屋のぬいぐるみの中に、自分の全部を隠した父親。

宮武 真理(みやたけ・まり)
正の娘、大学三年生。父の死から一年、書斎のドアを開けられずにいた。くすんだ水色のぬいぐるみの中にUSBメモリを見つけた日から、彼女の一年が動き始める。悲しみを怒りに、怒りを決意に変えた。父が書けなかった続きを、書こうとしている。

柏木 悠人(かしわぎ・はやと)
弁護士。白石の言葉を最初に受け取った人間。「あの人と話していると、自分が何をすべきか、見えてくる気がする」——その言葉を口にした時、すでに何かが始まっていた。取材を重ねるごとに痩せ、視線を上げられなくなり、最後は龍崎を訴える側に回った。白石の名前を出すと、顔ごと固まる。

丹波 誠一郎(たんば・せいいちろう)
教誨師。白石が服役中、最も長く寄り添った人物。「白石さんは、人を傷つけるような人ではありません」——その確信は、最初の取材から最後まで、一度も揺らがなかった。嘘をつかない人間だ、と正は思い続けた。その判断が、正を橋に連れていった。

龍崎 ヒカル(りゅうざき・ひかる)
冤罪被害者。「あなたには、それをやる資格がある」——白石のその一言で動き出した男。傷ついた人間に正義の旗を持たせると、何が起きるか。龍崎は知らなかった。白石は最初から知っていた。使い捨てられた駒は、最後まで自分が駒だとは気づかなかった。

源 寅子(みなもと・とらこ)
久兵衛の孫娘、大学三年生。八年前、祖父を失った。白石という名前を、ずっと心の奥に持ち続けてきた。人差し指と親指で作る小さな四角——幼い頃に祖父に教わったおまじない。見たいものだけが、真ん中にくる。その四角の中に、まだ何も見えない。

【📖本編】『ソシオパスフレーム』──白石輝道を追った、ある記者の手記
序章 ぬいぐるみの中の父
父の書斎のドアを開けるのに、真理は一年かかった。
葬儀の日、棺に納める前の最後の対面で、真理は父の頬に触れた。その冷たさが、今も指先に残っている気がする。あれから何度も、この部屋の前までは来た。ドアノブに手をかけたこともある。けれどその度に、何かが喉の奥につかえて、引き返した。
「そろそろ、あなたの部屋にあるものだけでも整理しておきなさい」
母にそう言われたのは、先週のことだった。母自身、まだこの部屋を片付けられずにいる。真理に頼んだのは、自分にはまだ無理だから、という意味でもあったのだろう。三回忌にはまだ早い。だが、何かのきっかけがなければ、この部屋はきっと、何年経っても、あの日のままで止まり続ける。
今日こそは、と決めて、真理はドアを開けた。

父の匂いがした。
古い紙とインクと、たまに吸っていた煙草の、もう何年も染みついた匂い。明かりをつけると、書斎は記憶の中とまったく同じ姿で、真理を迎えた。本棚にぎっしりと詰まった取材資料。デスクの上に置かれたままの、使いかけのボールペン。まるで父が、ついさっきまでそこに座っていて、ちょっと席を外しただけのような気配だった。
真理にとって、父はずっと、特別な人だった。
新聞記者という仕事を、子供の頃は誇らしく思っていた。父の名前が載った記事を、学校の図書室で見つけては、こっそり一番目立つところに置き直したりしたこともある。父は家ではほとんど語らなかったが、たまに漏らす言葉の端々に、自分の仕事への誇りのようなものが滲んでいた。
「誰かが書かなければ、なかったことになる」
いつだったか、夕食の席でそう言っていたのを覚えている。何の話の流れだったかは、もう思い出せない。だが、その一言だけは、ずっと真理の中に残っていた。真理が大学でジャーナリズム研究会に入ったのも、突き詰めれば、その一言が始まりだったのかもしれない。
父は、誰かに認められたくて記事を書く人ではなかった。地方紙の、決して大きくはない記事のために、何日も何週間もかけて裏を取り、誰も読まないかもしれない事実を、それでも丁寧に積み上げる人だった。そういう不器用な実直さを、真理は子供心に、誇りに思っていた。
その父が、もういない。
夜、橋のたもとで足を滑らせた。それだけのことだと、警察は言った。真理は、最初はただ呆然とした。次に、現実感のないまま、葬儀の手続きを母と二人でこなした。そうして気づけば一年が経っていた。悲しみは、消えたわけではなかった。ただ、日常という重しの下に、押し込められていただけだった。
段ボール箱を三つ用意し、真理は書斎の片付けに取りかかった。
古い取材ノート。業界紙の切り抜き。捨てるに捨てられなかったらしい、雑多な品々。一つ一つを手に取るたび、その奥に父の輪郭が見えるようで、真理は何度も手を止めた。書斎を片付け終えたのは、夕方近くになってからだった。
自分の部屋に戻り、真理は何の気なしに本棚の隅に目をやった。
くすんだ水色の、小さなぬいぐるみが座っている。
頭のサイズに比して胴体がいくぶん大きく、目はボタンのように単純な丸で、口元には控えめな笑みが縫い付けられている。「少年探偵ヒトシ」という、もう何年も前から続いているシリーズのキャラクターだった。子供向けに始まったはずなのに、いつの間にか大人になったファンも離れない、息の長いアニメだった。真理も、物心ついた頃からずっと観ていた。
高校一年の、ある休みの日のことだ。
「新作、観に行きたいんだけど」
真理がそうねだると、父は呆れたように笑った。
「お前、もう高校生だろう。いつまでアニメなんだよ」
そう言いながらも、結局その週末、二人は連れ立って映画館に向かった。父は映画に没入することなどない人だったが、その日に限って、館内が暗くなってから、何度か隣でわずかに身じろぎする気配があった。
その回は、黒幕が誰かを動かして、誰かを死なせる話だった。少年探偵がどれほど鮮やかに謎を解いても、その黒幕を裁く法律はどこにもない——そういう筋書きだった。
映画館を出た後の定食屋で、父はしばらく箸を止めたまま、何かを考えているようだった。
「現実にも、こういう人間がいたら、ちょっと怖いな」
ぽつりと、そう言った。
真理は、ただの感想だと思っていた。映画の余韻に浸った、軽い独り言だと。
だが今になって思い返せば、父の目は、スクリーンの余韻ではなく、もっと遠い何かを見ていた。
それから一月ほど経った、真理の誕生日のことだった。父は紙袋を一つ、真理に差し出した。
「お前が一番好きなやつだ」
中から出てきたのは、先日一緒に映画館で観てきたばかりの、あのキャラクターのぬいぐるみだった。
「いまさら?」
真理は笑いながらそう言ったが、父は何も答えず、ただ少し、いつもより長く真理の顔を見ていた。
あれが高校一年の誕生日だった。あれから大学に上がり、もう何年も経つ。あのときの父の表情の意味を、真理は今になって考える。
あの時から、本棚の隅に置きっぱなしにしていたぬいぐるみだった。手に取るのは久しぶりだった。真理はそれを取り上げ、込み上げてくるものをこらえきれず、強く胸に抱きしめた。
そのとき、腕の中で、何か硬いものの感触があった。
最初は、気のせいかと思った。だが、もう一度抱きしめてみても、感触は同じだった。背中を確かめると、ファスナーの縫い目のすぐ脇に、一度針を通し直したような、ごくわずかな段差があった。何年も気づかずにいたほど、丁寧な仕事だった。
気になって開けてみると、綿の中に、不自然に硬いものが埋め込まれているのに気づいた。
自分が触れた覚えのない場所だった。
綿をかき分けると、布でくるまれた小さな塊が出てきた。ビニール袋を二重にし、その上からさらに薄いガーゼ地で包んである。隠すことを、明確に意識した梱包の仕方だった。
開けると、USBメモリが一本、出てきた。
ラベルはない。型番も古い。父が普段使っていたパソコンの周辺機器の中には、見た覚えのないものだった。
真理は、しばらくそれを手のひらに乗せたまま、動けなかった。

父の死は、事故として処理されている。
夜、取材先からの帰り道、橋のたもとで転落した。酒は飲んでいなかった。足元がふらついた形跡もなかった。警察は「不注意による転落」と結論づけ、それ以上の捜査は行われなかった。
父は、高い場所が苦手な人だった。実家の屋根の雪下ろしさえ、いつも業者を呼んでいた。そんな父が、欄干の低い、夜の暗い橋を、なぜわざわざ歩いていたのか。真理はその疑問を、誰にもうまく言葉にできなかった。警察に話しても、「お酒が入っていなくても、足を滑らせることはありますから」と、穏やかに、けれど取り合うつもりのない調子で返されただけだった。
真理にはずっと、納得できないものがあった。父はあの晩、誰かに会いに行くと言っていた。誰に、とは言わなかった。いつものことだった。仕事の話は家に持ち込まない人だった。
その「誰か」が、このUSBメモリの中に、答えとして眠っているのかもしれない。
真理は、震える手で、ノートパソコンを開いた。
USBメモリを差し込み、読み込んだ先頭のファイルを開く。ファイル名はなかった。ただ、更新日時だけが、父が死んだ日の時刻を示していた。
画面に、文字が現れた。
〈これは殺人の記録だ。そして、私が最後まで名前を書けなかった男の話だ。〉
息が、止まった。
真理はしばらく、ただその一行を見つめていた。
殺人、という文字が、画面の中で妙に白く浮いて見えた。父が記録したのは事件の記録だ。それは分かる。だが「私が最後まで名前を書けなかった」という言葉が、真理の思考をそこで止めた。名前を書けなかった。書かなかったのではない。書け、なかった。その一語の重さが、じわじわと染みてくるのに、少し時間がかかった。
手のひらが、汗ばんでいた。心臓が、いやな速さで打っていた。
真理は一度、ノートパソコンを閉じた。閉じたところで、何かが変わるわけではないのに、そうせずにはいられなかった。膝を抱え、しばらくの間、ただ呼吸だけをしていた。
父はあの夜、橋から落ちたのではない。
いや、そんなはずがない、と思おうとしていた一年だった。事故であってほしい、という願いが、いつの間にか「事故だったのだろう」という諦めに変わりかけていた。その諦めが、たった一行の文章で、音を立てて崩れていくのが分かった。
もう一度、画面を開いた。
手記は、淡々とした文体で綴られていた。日付。場所。会った人物の名前。聞いた言葉。父らしい、感情を排した記録のしかただった。だが読み進めるうち、その抑制された文章の行間から、何か、薄い恐怖のようなものが滲み出てくるのを、真理は感じ取った。
ある夜の記述に、こう書かれていた。
〈今日、編集長に呼ばれた。あの件からは手を引け、と言われた。理由は聞かなかった。聞いても、答えはもう決まっているのが分かったからだ。〉
別の日の記述には、こうあった。
〈妻にも真理にも、何も話していない。話せば、きっと心配する。今はまだ、何も確かなことが言えない。〉
自分の名前を見つけたとき、真理は声を出さずに泣いた。
父は、ずっと一人だったのだ。会社からも見放され、誰にも相談できず、それでも調べることをやめなかった。家に帰れば、いつも通りの父だった。仕事の愚痴一つこぼさなかった。あの静かな夕食の向こう側に、これだけの孤独があったことを、真理は何一つ知らなかった。
涙を拭いながら、真理は、ぬいぐるみの背中のことを思い出していた。
父は、誰にも——会社にも、警察にも、おそらくは妻にさえも——この記録を託せなかった。託せる相手が、娘の部屋に置かれた、子供の頃のぬいぐるみしかなかった。それがどれほどの孤立だったか、想像すると、また喉の奥が熱くなった。
悲しみは、しばらくすると、別のものに変わり始めた。
怒りだった。
誰に対する怒りなのか、最初ははっきりしなかった。父を見捨てた編集長か。事故として片付けた警察か。それとも、手記の中に繰り返し現れる、あの名前にか。
白石輝道。
手記が進むにつれ、その名前が背負っているものの重さが、少しずつ明らかになっていった。誰かが追い詰められ、誰かが沈黙させられ、誰かが死んでいた。その全てに、この名前が、決して表には出ないまま、影のように関わっていた。
真理は、もう泣いていなかった。
代わりに、ある決意だけが、静かに固まっていくのを感じていた。父が最後に託したものを、ここで終わらせるわけにはいかない。
手記の中ほどに、もう一つの名前が現れたのは、それからしばらく後のことだった。
源久兵衛。
かつて警察官だった人物で、ある殺人教唆の疑いを追っていたが、立証できないまま亡くなった、とあった。詳しい経緯までは、書かれていなかった。そして、その久兵衛には、いつも傍らに連れていた孫娘がいた、という関係者の証言が記されていた。
真理は、その一文に、何度も視線を戻した。
父は一人で、この巨大な何かに立ち向かおうとしていた。だが、もしかしたら、自分より先に、同じものに気づいていた人間がいたのかもしれない。同じものを失った人間が、どこかにいるのかもしれない。
その「孫娘」を探そう、と決めたのは、ほとんど反射のようなものだった。
真理は、何日もかけて手記を最後まで読み終えた。
読み終えたとき、悲しみも怒りも、形を変えてはいたが、消えてはいなかった。ただ、その両方を抱えたまま、真理は動き出すことができるようになっていた。
手がかりは少なかった。久兵衛という名前、事件のあった町、おおよその年代。真理はジャーナリズム研究会で培った勘を頼りに、インターネットにない情報は地元の図書館の縮刷版から当時の記事を洗い、町内会の名簿の写しを古書店で見つけ出し、何人もの「もしかしたらご存知かもしれません」と問う相手に、断られながらも当たり続けた。
そうして数週間後、ようやく辿り着いた答えは、拍子抜けするほど近くにあった。
その孫娘は、真理と同じ大学に、しかも同じ学年で通っていた。
大学の中庭は、昼休みの喧騒に包まれていた。
真理は、教えられた通りの場所で、その人物を待った。事前に調べた顔写真と、目の前を歩いてくる人物が一致した瞬間、心臓が一つ大きく波打った。
「すみません」
声をかけると、相手は足を止め、ぱっとこちらを振り向いた。長い髪を一つに束ね、利発そうな目をした女性だった。驚いた様子はあったが、それよりも先に、人懐っこい笑みのほうが顔に浮かんでいた。
「はい、私ですか?」
「源寅子さん、ですよね」
「そうですけど……」
寅子は小首を傾げながらも、警戒する素振りは見せなかった。むしろ、見知らぬ相手に名前を言い当てられたことを、ちょっとした出来事として面白がっているような気配すらあった。
「宮武真理といいます。大学は違う学部ですが、同じ三年です」
「真理さん。なんか、私のこと探してました?」
あっけらかんとした口調だった。真理は、深呼吸を一つした。回り道をするつもりは、最初からなかった。
「久兵衛さんの事件のことで、伺いたいことがあるんです」
その名前を口にした瞬間、寅子の表情から、すっと笑みが引いた。
明るかった目の奥に、別の色が差し込んでくる。それは、忘れていた記憶を不意打ちで突きつけられた人間の顔だった。けれど怯えてはいなかった。むしろ、八年間ずっと閉じたままにしていた扉に、誰かが外から手をかけた——そういう顔だった。
「……久兵衛の」
寅子の声から、さっきまでの軽さが消えていた。
「祖父の、何を」
「白石という人物に、心当たりはありますか」
その名前を聞いた瞬間、寅子の喉が、小さく動いた。何かを飲み込むような、それでいて何かが込み上げてくるような、複雑な動きだった。
「父が、その人物について調べていました。何年も。そして、亡くなりました」
真理は、続けようとして、一度言葉を止めた。事故として処理されたこと。本当は違うと思っていること。そう言いたかったが、その全部を、この場で性急に語るべきではない気がした。
「父の遺品の中から、手記が見つかったんです。あなたのお祖父様のことも、書かれていました」
寅子は、しばらく何も言わなかった。中庭を行き交う学生たちの声が、二人の周りだけ、遠くに聞こえた。
やがて寅子が口を開いた。声には、もう先ほどの屈託のなさはなかった。
「読ませてもらえますか」
その声には、迷いがなかった。
真理は頷き、鞄からUSBメモリを取り出した。あの日、ぬいぐるみの中から見つけたUSBメモリは、鞄の内ポケットに、いつも入れて持ち歩くようになっていた。
「全部で、結構な量があります。今すぐには、読みきれないかもしれません」

「構いません」
寅子は、まっすぐに真理を見た。八年前のあの日から、ずっと閉じ込めていた何かが、今、解き放たれようとしているのが、その目の色からも分かった。
「私には、知る権利があると思うので」
その晩、寅子は一人、自分の部屋でノートパソコンを開いた。
画面に並んだファイルの名前を、しばらく見つめる。
窓の外では、もう何年も変わらない街の灯りが、いつものように瞬いている。
寅子は、人差し指と親指で、小さな四角をつくった。
画面を、その枠の中に収める。
幼い頃、祖父に教わったおまじないだった。見たいものだけが、真ん中にくる。
寅子は、息を一つ吸い込んでから、最初のファイルをダブルクリックした。
第一章 白石輝道という男
白石輝道という名前を、私が初めて聞いたのは、高齢者詐欺の取材をしていた、ある秋の夕方のことだった。
取材していた高齢の女性は、話の途中でふと、こう言った。
「白石さんに、お金を渡してしまったんです」
その言葉が、どうもひっかかった。なぜとは言えなかった。言葉の端々に、ただの詐欺被害者の口調とは少し違う何か——懐かしむような、あるいは後悔とも呼び難い、奇妙な柔らかさがあった。
翌週、別の被害者に会うと、また同じ名前が出た。さらにもう一人。三人の被害者は、互いを知らなかった。案件も、被害を受けた時期も、手口も、それぞれ違っていた。それなのに、三人とも、同じ名前を口にした。
その夜、自宅の狭い書斎で、私は取材ノートを広げたまま、しばらくペンを止めていた。蛍光灯の光が、白いページに反射していた。窓の外では、車が一台、ゆっくりと通り過ぎていった。
偶然とは思えなかった。しかし、確証もなかった。ただ、この名前をもっと調べなければならない、という感触だけが、ページの上に残っていた。
翌日から、私は白石輝道という男の名前を、別の方向から調べ始めた。
過去の記録を辿るうちに、三件の不審死と、一人の警察官の死が浮かんだ。
大洗、奥多摩、鬼怒川。それぞれ年次の違う同じ町内会が催す旅行中に、人が死んでいた。いずれも自殺あるいは傷害致死として処理されていた。白石輝道は、その三件に関与したとして、かつて殺人教唆容疑で逮捕されたことがあった。捜査を主導したのは、当時現役の警部だった源久兵衛という人物だった。
当時の関係者への取材を重ねるうちに、私はその経緯を少しずつ再構成していった。
容疑そのものは、早い段階で固まっていたらしかった。三件の不審死に白石が関わっている、という見立ては、捜査の中で積み上がっていった。だが、「操った」という事実を直接示す物証が、最後まで揃わなかった。白石は、誰かに何かを命じた形跡を残さなかった。勾留が続く中、起訴を待つ白石の態度は、終始、落ち着いていたという。
その勾留中に、源久兵衛は死んだ。
当時の捜査関係者によると、白石に操られたとされた一人の女性が、ある式典の場で、久兵衛を刺した。動機は「久兵衛が自分の夫を殺した」という、白石が吹き込んだ偽りだった。久兵衛はその場で絶命した。事件を最も深く知っていた人間が、その事件によって消えた。
捜査は実質的に止まり、白石は嫌疑不十分で釈放された。
その後、白石に法の手が届いたのは、まったく別の経緯だった。警視庁捜査二課が長年内偵していた、高齢者を狙った常習詐欺の容疑だ。久兵衛が追っていたのと同じ男が、別の場所で、別の被害者から金を吸い上げていた。二つの捜査線は、最後の最後で交差した。
懲役五年。白石はその刑期を、府中刑務所で過ごした。
この経緯を調べ終えた夜、私は資料を積み上げた机の前で、冷めたコーヒーをそのまま置いていた。三件の事件で逃げ切り、捜査していた警部まで死んだ。法は白石に届かなかった。詐欺罪という、まったく別の入口からしか、この男には近づけなかった。
その男が、五年の服役を終えて、今、外にいる。
白石の獄中での様子を最初に教えてくれたのは、退職した元刑務官だった。
待ち合わせたのは、郊外のファミリーレストランだった。平日の昼過ぎで、客はほとんどいなかった。向かいの席に座った男は、メニューを一度も開かなかった。注文を聞きに来た店員に、コーヒーだけを短く言った。それだけの動作の中に、長年、他人の行動を観察することを仕事にしてきた人間の、無駄のなさがあった。
白石の収監当初の様子を聞くと、男は少し考えてから答えた。

「最初の一年は、問題を起こすわけでもなく、かといって打ち解けるわけでもなく、ただそこにいる、という感じでした。どんな人間にも、何かしら読める部分があるものなんですが、白石は——」
男は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「読めなかった。それが一番、気になっていました」
「変化があったのは、いつ頃ですか」
「収監から二年が過ぎた頃です。新聞の社会面を熱心に読むようになって。ちょうど、SNSというものが紙面に出始めた頃でした」
「新聞を読んでいる時の様子は、どうでしたか」
男は、少し間を置いてから、こう言った。
「ある時から顔が、変わったんです。なんというか——」
男は視線をテーブルに落とし、言葉を探すように指先を動かした。
「新しい玩具を見つけた幼子の好奇な顔、って言えばいいのか。でも、無垢な子供の顔とは違うんです。もっと、静かで、冷たくて。私はあの表情を、今でも思い出すことがあります」
男は、それ以上は言わなかった。だが、言葉よりも、その沈黙の方が、何かを語っていた。
私はペンを走らせながら、自分の指先が少し冷たくなっているのに気づいた。店内の空調のせいかもしれなかった。
更生を考えている人間の顔ではない。
その言葉は、男の口から出たわけではない。だが私の頭の中で、自然にそう形を取った。私はそれを、そのまま手帳に書き写した。

国選弁護人として白石に接触し、私選に切り替えた弁護士の名前は、柏木悠人といった。当時、まだ三十代に入ったばかりの、若い弁護士だった。
最初に連絡を取ったとき、柏木は短く断った。
「白石さんのことは、お話しできません」
それだけだった。電話はすぐに切れた。
受話器を置いて、私は手帳を開いた。弁護士が依頼人のことを話さないのは当然だ。だが、守秘義務を理由にする時の、あの事務的な落ち着きとは、少し違う気がした。声が固かった。ただ固いだけではなく、何かを押し込めているような固さだった。
私はそう自分に言い聞かせながら、手帳に短く書き留めた。「柏木——拒否」と。ペンが、その先に続かなかった。しばらくして、余白に小さく書き足した。「再度、アプローチを検討」と。
元刑務官への取材の中で、柏木の名前が自然に出てきたのは、その後のことだった。
「柏木さんっていう、若い先生でした」と、男は言った。「接見のたびに顔を合わせていたから、自然と言葉を交わすことも多くて。最初は国選で来ていたのが、途中から私選に切り替わって」
「接見の後の様子は、どうでしたか」
「それが、妙だったんですよ」
男は少し間を置いた。視線がテーブルの縁に落ちた。
「白石との接見が終わるたびに、なんというか、すっきりした顔をして出てくるんです。最初はただ、仕事熱心な先生だなと思っていた。でも、何度か顔を合わせるうちに、こんなことを言っていたんです」
「『あの人と話していると、なぜか、自分が何をすべきか、見えてくる気がする』って」
私はその言葉を、手帳にそのまま書き写した。
ペンを置いてから、その一文をもう一度読んだ。弁護士が依頼人について語る言葉としては、奇妙だった。「何をすべきか、見えてくる」。法的な気づきがあった人間の言葉ではない。何か別のものを受け取った人間の言葉だった。
ファミリーレストランを出ると、駐車場の端で、男が一度だけ振り返った。
「白石という人間は、私には最後まで分からなかった」と、男は言った。「ただ、あの幼子みたいな顔だけは、忘れられないんです。ああいう顔をする人間が、また外に出ているということが」
男は、そこで言葉を止めた。続けなかった。
秋の光の中で、男の背中が遠くなっていった。
もう一人、獄中の白石をよく知る人間がいた。丹波誠一郎。白石が服役中に接見していた教誨師だ。

取材の申し込みに、丹波はすぐに応じてくれた。
待ち合わせた喫茶店は、駅から少し離れた、汐見銀座商店街の中にあった。アーケードを歩いていると、空に丸いアドバルーンが浮かんでいるのが見えた。この商店街には似合わない、妙なものだと思いながら、通り過ぎた。ガラス張りの窓から、午後の低い陽が斜めに差し込んでいた。店内は空いていた。奥のテーブルに案内されると、木の椅子がわずかに軋んだ。
丹波は、約束の時間より少し早く来ていた。五十代半ばの、物静かな男だった。白髪が目立ち始めた頭を、いつも少し前に傾ける癖があった。両手はテーブルの上で軽く組まれていた。コーヒーには、まだ湯気があった。
「白石さんは、獄中で本当に変わろうとしていました」
丹波は、そう切り出した。声は低く、一言一言を確かめるように選んでいた。
「最初の頃は、心を閉ざしていました。誰とも話さず、運動の時間も独りでいた。でも、二年ほど経った頃から、少しずつ変わっていった。聖書を読むようにもなって。私との対話も、徐々に深くなっていきました」
「どんなことを話していましたか」
「命の重さについて、よく話しました。人を傷つけることの罪深さについて」
丹波は一度、視線をテーブルに落とした。組んでいた手の指が、わずかに動いた。
「ある時、白石さんがこんなことを言ったんです。追い詰められた人間が首を吊るのは、本当に追い詰められた証だ、と。自殺予防の話をしていた文脈でした。あの言葉は、今でも耳に残っています」
私はそれを、手帳に書き写した。
ペンが、一瞬止まった。
窓の外を、自転車が一台、ゆっくりと通り過ぎた。私はそのまま、次の質問に移った。
「白石さんの担当弁護士と、面識はありましたか」
丹波は、少し考えてから答えた。
「柏木さん、ですね。何度か、この店でお話ししたことがあります。接見の帰りに、少し立ち寄ってくださることがあって」
「どんな様子でしたか」
「最初の頃は、疲れた顔をされていました。当時、別の案件で、ずいぶん理不尽な目に遭っておられたようで」
丹波は続けた。担当していた依頼人が、ネット上で激しく攻撃されていたこと。痴漢の疑いをかけられた男性が、裁判では不起訴になったにもかかわらず、世間の攻撃が止まらなかったこと。柏木自身も、痴漢を擁護する弁護士として同じように叩かれていたこと。
「柏木さんが担当弁護士として攻撃を受ける中で、白石さんに相談されたようです」
丹波はコーヒーカップを両手で包むように持ち、続けた。
「白石さんはこうおっしゃったと、柏木さんから聞いたことがあります。『先生、昔、似たような目に遭った男を知っている』と」
私はペンを走らせながら、先を促した。
「白石さんは、『その男は、世間に向けて何かを訴えるんじゃなく、ただ、何人かの人間に、こう囁いたそうです。あなたのような、冷静にものを見られる人が、ひとこと声を上げてくれたら、流れは変わるかもしれない、と。一人や二人じゃない、何人かに、同じことを、別々に。すると、不思議なもので、誰が言い出したわけでもないのに、潮目が変わったそうです』と」
「柏木さんは、その言葉をどう受け取ったんでしょうか」
「実際に試してみたそうです。弁護士仲間や、学生時代の知人に、それぞれ別々に連絡を取って。するとその後、ある時期から、攻撃が急に鎮静化したそうです。柏木さんは、それがうまくいったと思っておられた。白石さんの言葉のおかげだ、とおっしゃっていました」
丹波は視線をテーブルに落とした。穏やかな顔だった。善いことを語る人間の顔だった。
私はペンを止めた。
その鎮静化の裏に、何があったのか。私はすでに、柏木を調べる中である程度のことを知っていた。柏木へのネット攻撃を最も激しく続けていたアカウントがあった。「正義マン@許せない」という名で、柏木の依頼人の勤務先に電話攻撃を呼びかけ、フォロワーを煽り続けていた。

そのアカウントは、ある時期から突然、過去の発言を掘り起こされ、同じように叩かれ始めた。更新が途絶え、その後、自殺したという噂が流れた。
「そのアカウントのことは、ご存知でしたか」と、私は丹波に聞いた。
丹波は、少し間を置いた。その間が、これまでの返答のどれとも、わずかに質が違った。
「聞いてはいます。気の毒なことでした」
丹波は、それだけ言った。そして、自分でコーヒーカップを少し動かした。音を立てないように、静かに。

なぜコーヒーカップを、音も立てずに動かしたのか。私はそれだけを、手帳の隅に書き留めた。
私は次の質問に移った。
「出所後の白石さんのことは、ご存知ですか」
「いいえ。出所後は連絡が途絶えました。でも、それでいいんです」
丹波は静かに言った。
「私の仕事は、ここまでですから」
丹波はそう言いながら、コートを手に取った。立ち上がる前に、窓の外の汐見銀座商店街をちらりと見た。有線から、古い歌謡曲が流れていた。
「お好きなんですか、こういう曲」と、私は何気なく聞いた。
「ええ」と、丹波は少し表情を和らげた。「昭和の歌はいいですね。カラオケで歌うのが、数少ない息抜きで。あの時代の歌は、歌詞に人の業が滲み出ている気がして。たいていは歌えますよ、昭和の歌謡曲なら」
それだけ言って、丹波は軽く頭を下げ、店を出た。
喫茶店を出ると、汐見銀座商店街には夕方の人通りが戻り始めていた。私はコートの襟を立てながら、歩いた。
先ほどまで窓越しに見えていた丹波の横顔を、頭の中で反芻していた。白石の更生を、本当に信じている人間だ、とは思った。
だが、元刑務官の言葉が、歩いても歩いても、ついてくる。消えなかった。
新しい玩具を見つけた幼子の好奇な顔。
刑務官はあの表情に、恐れを感じていた。丹波はその同じ男の中に、更生の可能性を見ていた。二人は、同じ男を見ていた。だが、見えているものが、まるで違った。
この取材を始めてから、私が初めて手帳に書けなかった問いは、こうだった。
どちらが正しいのか、私には、まだ分からない。
第二章 冤罪という入口
柏木の依頼人。痴漢の疑いをかけられた男、龍崎ヒカルに会ったのは、白石が出所してから二年目——獄中時代の経緯を、取材を通じておおよそ掴み終えた頃のことだった。
最初に連絡を取ったとき、龍崎は驚くほどあっさりと取材に応じた。むしろ、待っていたかのようだった。
待ち合わせ場所に現れた龍崎は、想像していたよりも若々しく見えた。あの一件から何年も経っているはずだった。だが龍崎は、まるで昨日のことのように、痴漢冤罪の経緯を語り始めた。
待ち合わせたのは、駅前の再開発地区に建った、明るい内装の喫茶店だった。周囲の客は、ノートパソコンを広げた若者や、打ち合わせらしき二人組ばかりで、誰も他人に関心を払っていなかった。龍崎は窓際の席を自分で選んだ。外が見える場所を好む人間か、あるいは出口に近い場所を選ぶ癖がついた人間か、その時点では判断がつかなかった。
駅のホームで突然腕を掴まれたこと。身に覚えのない容疑を、その場で否定しきれなかったこと。警察署での長い拘束時間。そして、解放された後に待っていた、もう一つの、終わりのない拘束のこと。
数日のうちに、SNS上に龍崎の名前と顔写真が拡散された。勤務先の名前も、自宅の最寄り駅も、誰かが調べ上げて投稿した。「痴漢犯人を野放しにするな」という投稿が、一週間で数千単位に達した。会社には抗議の電話が鳴り続けた。
龍崎は職を失った。
「あの時は、本当に地獄でしたよ」
龍崎はそう前置きして、テーブルの上に置いたスマートフォンを、指先でわずかに回した。話しながらも視線が窓の外を向くことが何度かあった。外には何もなかった。ガラスの向こうに、人が行き交う歩道があるだけだった。それでも龍崎は、時折そちらを確認するように目をやった。
「ネットに僕の名前と顔写真が出回って、会社にも電話がかかってきて。妻は、しばらく実家に帰っていました」
「裁判の結果は」
「不起訴です。証拠が不十分だったから。でも」
龍崎は、少し笑った。乾いた、自嘲に近い笑いだった。
「世間の記憶って、そういう経緯を参照しないんですよ。不起訴になった痴漢、という像だけが残って。再就職の面接は、ことごとく落ちました」
「あの頃、僕を中傷していた連中の中に、特にひどいのがいたんです」
龍崎は、そう言って、スマートフォンを取り出した。画面には、古いスクリーンショットが何枚も保存されていた。「正義マン@許せない」というアカウントの投稿の数々だった。

「こいつが、一番ひどかった。僕の勤務先に電話をかけろって、フォロワーに呼びかけてたんです。今でも、忘れられません」
龍崎の指が、画面をなぞる。その手つきには、何年も経って沈殿した、明確な憎しみがあった。
「でも、こいつ、最後は自業自得だったみたいですよ。過去にいじめの被害者を中傷してたことがバレて、叩かれて、消えました。その後、自殺したって噂が流れて」
「ざまあみろ、って思いましたね。正直」
龍崎は薄く笑った。その笑いを見ながら、私はペンを動かし続けていた。
笑いそのものに、問題はない。追い詰められた人間が、自分を追い詰めた相手の末路に溜飲を下げる。それは自然なことだ。だが私が引っかかったのは、笑い方ではなかった。「自業自得だった」という言葉の確信の強さだった。
誰かが攻撃を受け、追い詰められ、消えた。その因果を、龍崎はあまりにも当然のこととして語った。まるで、そうなるべくしてなった、と知っていたかのように。
私はその感触を、言葉にできないまま、手帳の余白に小さく印をつけた。
「私が変われたのは、白石さんのおかげなんです」
龍崎は、突然そう言った。
「私の弁護士だった柏木さんの紹介で、お会いした人です」
白石は、龍崎にこう言ったという。
「冤罪被害者の会を作るといい。あなたには、それをやる資格がある」
「ずっと、自分には何もできないって思ってた」と、龍崎は言った。「でも、あの人は違った。あなたにしかできないことがある、って言ってくれたんです」
私はその言葉を手帳に書き留めながら、ペンを少し止めた。
資格がある、という言葉だ。
傷ついた人間に向かって、その傷そのものが「資格」だと言う。追い詰められ、社会から切り捨てられたと感じている人間に向かって、だからこそお前にしかできないことがある、と言う。
龍崎が最も聞きたかった言葉だった、と私は思った。
白石はそれを知っていて、言った。
元刑務官が語っていた言葉が、頭の中でもう一度鳴った。新しい玩具を見つけた幼子の好奇な顔、という言葉が。
「冤罪被害者の会」は、白石の出所から三か月ほどで立ち上がった。
表の顔は龍崎だった。法律顧問として柏木悠人が加わった。
この三者の関係に気づいた時、私は手帳を捲って、以前書いた記録を読み返した。龍崎は被害者として前に出る。柏木は法的な裏付けを与える。白石は表に出ない。
丹波から聞いた、あの構造と、まったく同じだった。

会の活動は、最初は地道なものだった。冤罪被害を訴える人々の証言を集め、発信する。柏木が法的観点からコメントを加える。表面だけを見れば、正当な活動に見えた。
だが、しばらく観察していると、会の発信の仕方に一つの特徴があることに気づいた。
批判者への対応が、攻撃的すぎた。会の主張に疑問を呈した発信者に対して、複数のアカウントが一斉に反論を開始する。その反論は論点を外れて人格攻撃に向かうことが多く、相手が発信をやめるまで続いた。
後に、この動きを調べた。複数のアカウントの投稿時刻を照合すると、ある不自然なパターンが浮かんだ。深夜の同じ時間帯に、似た文体の投稿が、複数のアカウントから同時に出ている。
誰かが、意図を持って動かしている。
柏木へのアプローチは、三度断られた。四度目に、ようやく事務所の近くの喫茶店で会えた。
柏木は入口近くのテーブルを選んだ。出口に近い席だった。昼過ぎの店内は明るく、窓から車道が見えた。コーヒーを注文したが、一口も飲まなかった。
四十代半ばだった。スーツの上着はきちんとしていたが、襟元が少し緩んでいた。テーブルの上に置いた両手は、会話の間ずっと静止したままだった。指が動かないことが、かえって目についた。人間は何かを抑えているとき、動く場合と、動かなくなる場合がある。柏木は後者だった。
冤罪被害者の会の話を向けると、柏木の声にわずかに力が入った。
「みんな、喜んでいます。やりがいを感じています」
善いことをしているという確信が、その言葉の裏にあるのが分かった。だが、私が次の問いを出すと、その確信が少し揺れた。
「批判者への対応が、行き過ぎているように見えます。複数のアカウントが一斉に攻撃する、という動きについては、どうお考えですか」
柏木は、テーブルの木目に視線を落とした。
数秒の沈黙があった。
「行き過ぎはよくない、とは思っています」
柏木はゆっくりと言葉を選んだ。
「ただ、冤罪を正すためには、ある程度の力が必要な場面もある。必要悪、と言えるかもしれません」
そこで一度、言葉が止まった。視線は、木目から動かなかった。
「白石さんとの関係は、もう調べておられるでしょうから、話します。以前、白石さんから、こういう時の対処法を教わったことがあります。知人に頼んで、発信を手伝ってもらうことも、ありました」
それ以上は、語らなかった。コーヒーカップの横に、砂糖の小袋が一つ、手をつけられないまま置かれていた。
喫茶店を出た後、私は手帳の余白に書き留めた。
「証拠はない。だが、構造は見えている」と。
その後も、私は龍崎の動向を追い続けた。
会の活動が軌道に乗り始めた頃、龍崎が運営するアカウントに、定期的にこんな投稿が並ぶようになっていた。
「またひとり、冤罪の被害者が出ました。今度の加害者は、こちらです」
そう書かれた投稿には、ある人物の名前と、勤務先らしき情報が添えられていた。
最初、私はその投稿を、単純に「冤罪事件の告発」として読んでいた。だが、リンク先の記事を辿り、「加害者」とされた人物たちを一人ずつ調べていくうちに、あることに気づいた。
「加害者」として名指された人物たちの多くは、誰かを誹謗中傷したとされる人間たちだった。しかし、その根拠はあまりにも薄かった。客とのトラブルをSNSに書き込んだだけの飲食店主。地域の集まりで誰かへの不満を口にしただけの主婦。そして、龍崎の活動そのものに疑問を呈した者たちも、同じように標的になっていた。「冤罪被害者の会は少し行き過ぎではないか」と口にしただけの者。「もう少し慎重に判断すべきでは」と返信しただけの者。いずれも、「冤罪を作り出す側の人間」として名指しされ、フォロワーによる攻撃の標的になっていた。
かつて龍崎自身も、その標的だったはずだ。
身に覚えのない容疑をかけられ、証拠もないまま犯人扱いされ、会社への電話攻撃で職を失った。その龍崎が今、自分を批判する者たちに対して、まったく同じ手口を使っていた。名指し。拡散。攻撃。
私は、ある種の眩暈に似たものを感じた。
別の機会に、私は龍崎に直接この点を問うた。龍崎は、迷いなく答えた。
「僕の場合は、本当に何もしていなかった。完全な濡れ衣だった。でも、僕たちが取り上げるのは、ちゃんと根拠のある話ですよ」
「批判しただけの人を、加害者として名指しするのは行き過ぎではないですか」
「批判という名目で、冤罪被害者をさらに傷つけている人間がいる。それは、立派な加害じゃないですか」
その口調には、迷いがなかった。
龍崎は、嘘をついているわけではない。彼は本気で、自分の行動と、かつて自分が受けた仕打ちとが、まったく別のものだと信じている。
自分が受けたことは、理不尽な暴力だった。 自分がしていることは、正義の行使だった。
だが、その正義の旗の下で、確実に誰かの生活が壊れていた。そして、それを止める仕組みは、どこにもなかった。
白石は、このことを最初から見越していたのだろうか。
傷ついた人間に「資格がある」と言葉をかけ、正義の旗を持たせ、その旗を批判者に向けさせる。自分は何もしていない。命じてもいない。ただ、人が傷つく仕組みだけが、静かに再生産されながら動き続ける。
龍崎に最初に会った日の帰り道を、私はよく思い出す。
駅前の雑踏を抜けながら、「自業自得だった」という言葉の確信の強さが、頭から離れなかった。龍崎は知っていたわけではない。だが、あの確信はどこから来たのか。
答えは、まだ出なかった。ただ、手帳の余白につけた小さな印だけが、翌日も、その翌日も、気になり続けた。
第三章 関口義男の死
「冤罪被害者の会」が設立されてから一年半ほどが経った頃、一人の人物が、私の調査に入ってきた。
関口義男。地方都市で小さな飲食店を営む、五十代の店長だった。
関口は、龍崎の活動に標的にされた人物の一人だった。ある客とのトラブルを自分のSNSに書き込んだことで、龍崎のアカウントに「冤罪を作り出す側の人間」として取り上げられた。店には心無いレビューが大量に投稿され、客足は目に見えて減った。関口は結局、店を畳まざるを得なかった。
廃業から数か月後、関口が地域のコミュニティの中で、こんな話を始めたことを、取材活動のなかで聞いた。
「冤罪被害者の会の龍崎という男は、本当は痴漢をしてたんですよ」
龍崎の冤罪について、SNS上ではなく、顔の見える場所で、直接、そう語り始めたのだ。
店を潰された恨みが、そうさせているのか。それとも、本当に証拠があるのか。私はその両方の可能性を頭に置きながら、関口に連絡を取った。
電話口でしばらく間があってから、関口はこう言った。
「証拠があるんです。ちゃんとした証拠が。でも、今は話せないが」
その声には、恨みの色よりも、怯えの色の方が、濃かった。
「いつなら話せますか」
「もう少し待ってほしい」
それだけだった。具体的な日付は出なかった。私は待った。一週間後にまた連絡した。「もう少し待ってほしい」という答えが返ってきた。そのやり取りを、二度繰り返した。
三度目に電話をかけた日、繋がらなかった。翌日も、翌々日も。
その三日後の朝、別のルートから入った情報で、関口義男が亡くなったことを知った。
自宅での首吊り。警察は自殺と判断した。
私はペンを置いた。
頭の中が、うまく働かなかった。関口は「証拠がある」と言っていた。「今は話せない」と言っていた。あの声にあった怯えは、何に対するものだったのか。私は待っていた。その間に、関口は死んだ。
もし私が、もう少し強引に話を聞こうとしていたら。「今は話せない」という言葉の裏に何があるのかを、もっと早く察していたなら。
そういう問いが、頭の中を回り始めた。
しばらくして、私は取材ノートを開き直した。今は、感情より先に、事実を整理しなければならない。関口は「証拠を持っている」と話していた。龍崎が本当は痴漢をしていたという、証拠を。その関口が、私が取材を申し込んだ直後に死んだ。
店を潰され、恨みを持ち、それでも証拠を手に声を上げようとしていた人間が、消えた。
自殺。警察はそう結論づけた。だが、私の中で、その二文字が、どうしても落ち着く場所を見つけられなかった。
私は関口義男という名前の下に、一行書き加えた。
「この死を、調べる」
関口の妻に会えたのは、死から一週間後だった。
妻は、夫の実家の近くに借りた、小さなアパートで暮らしていた。玄関で靴を脱ぐ間、廊下の先に段ボール箱がいくつか積まれているのが見えた。荷解きの途中で止まったまま、時間だけが過ぎているような気配だった。
通された六畳間には、仏壇が一つ置かれていた。線香の煙が、窓のない部屋にゆるやかに溶けていた。妻は正座したまま、両手を膝の上に重ねていた。目許が腫れていたが、声には妙な静けさがあった。泣き尽くした人間の、あの乾いた落ち着きだった。

「主人は、怖がっていたんです」
妻は、息を一つ整えてから、そう言った。
「誰かに脅されている、って言っていました。一か月ほど前から」
「誰に、と言っていましたか」
「それは、はっきりとは言わなかった。ただ、名前を出すと危ない、と」
妻の視線が、仏壇の写真へと滑った。関口が笑っている写真だった。生前の顔が、線香の煙の向こうにぼんやりと霞んで見えた。
「遺書は、残っていましたか」
「ありました。遺体のそばに、一枚だけ。でも——」
妻はそこで言葉を切り、わずかに顔を伏せた。
「あれは、主人の文章じゃないんです」
「どういう意味ですか」
「主人は、手紙を書く時、必ず時候の挨拶から始める人でした。相手への気遣いの言葉を丁寧に添えてから、それから本題に入る。長年、そういう書き方をしてきた人でした。ところが遺書には、そういった言葉が一切なくて。いきなり、謝罪だけが、短く記してあったんです。まるで、別の人間の手が書いたようで」
妻の声が、そこで幽かに揺れた。
「警察にそう申し上げたんです。でも、筆跡は主人のもので間違いないと言われて」
妻は、そこで一度、口を閉じた。
膝の上に重ねていた手が、わずかに動いた。右手が左手の甲をおおうように、静かに重なった。それだけだった。声は出なかった。泣かなかった。ただ、その手の動きだけが、これまでの乾いた落ち着きとは、少し違った。
しばらくして、妻は顔を上げた。
「主人が、自分で書いたはずがないと、私には分かるんです。でも、それを証明する方法が、私には何もなくて」
私は手帳にペンを走らせながら、妻の言葉を一字一句拾い上げた。
遺書は遺体のそばに一枚だけ。筆跡は本人のもの。しかし、文体が、生前の関口とかけ離れている。
筆跡が本人のものであっても、文章が本人らしくないことは、あり得る。極度の恐怖や混乱の中で書かれたとすれば、文体が変わることもある。だが、妻が「別の人間の手が書いたようで」と感じるほどの剥離があるとすれば、それは別の可能性を示唆していた。
関口の死の三日前に、龍崎から連絡があったことを、私は妻から聞いた。
「龍崎、という人からですか」
「ええ。主人、電話を受けた後、急に様子が変わって。黙ったまま、夕食もほとんど喉を通らなかったようで」
死の三日前、龍崎から連絡。その夜を境に、食も進まぬほどの変調。
私はその事実を、手帳に刻んだ。
その夜、自宅に戻ってから、私は関口が首を吊った状況を、警察の発表資料と照合した。
自宅の浴室のドアノブにロープをかけた状態で発見された。ロープは、市販の汎用品だった。
私はそこで、ペンを止めた。

浴室のドアノブ。私はその一点を、しばらく考えた。
首を吊るための支点として、ドアノブは頼りなさすぎる。高さが膝ほどしかない。体重をかければ、ドアごと開く恐れもある。死を覚悟した人間が、その場所をわざわざ選ぶだろうか。梁があれば梁を使う。鴨居があれば鴨居を使う。それが自然な選択のはずだ。

私はその疑問を、手帳の余白に書き付けた。「発見状況の詳細を確認する」と。
だが、確認する術が、私にはなかった。警察はすでに事件性なしと判断している。遺族が異議を唱えなければ、捜査が再び動くことはない。
この時点で、私の手元に積み上がった疑念は、三つだった。
一つ。遺書の文体が、生前の関口の書き方と乖離している。
二つ。死の三日前に龍崎から連絡があり、その夜から様子が一変した。
三つ。首吊りの支点が、浴室のドアノブだった。
だが、三つが同時に重なるとき、その偶然の積み重なりに、私は素直に頷くことができなかった。
私は考えを手帳に書き、細い横線で消した。
「この死を、調べる」と書いた一行の下に、今夜の記録を書き足した。「疑念は三つ。動機は見える。だが、霧は晴れていない」と。
丹波誠一郎に二度目の取材を申し込んだのは、関口の死から二週間後のことだった。
いつもの喫茶店、いつもの席。丹波は今日も、約束の時間より少し早く来ていた。テーブルの上に、組んだ両手が置かれていた。
関口義男の名前を出すと、丹波は小さく目を伏せた。
「存じています。龍崎さんの活動を、以前から気にかけていましたので。気の毒なことでした」
声は穏やかだった。哀悼の言葉として、不自然なところは何もなかった。
ただ、「以前から気にかけていた」という言葉が、少し、頭の片隅に引っかかった。
「龍崎さんとの関係で、追い詰められていた可能性があると思っています」と、私は言った。「人が誰かを追い詰めていく、という構造について、どうお考えですか」
丹波は、しばらく考えてから答えた。
「追い詰めた側に、悪意がないことの方が、多いと思います」
「どういう意味ですか」
「正義だと信じているからこそ、人は相手が苦しんでいても、手を止められない。自分が正しいという確信が強ければ強いほど、追い詰めることへの抑制が、失われていく。これは、人間の本質的な弱さだと、私は思っています」
丹波は、テーブルの上の組んだ手を、わずかにほどいた。
「関口さんのことで言えば、あの方を追い詰めた人たちも、おそらく自分たちが正義だと信じていたでしょう。その確信が、あの方の生活を奪い、最後には命まで奪った。追い詰めることの罪深さは、その確信の中に隠れているから、本人には見えない。見えないから、止まれない」
私はその言葉を、手帳に書き写した。
書きながら、胸の中で何かが静止した。
丹波の言葉は、表向き、関口を追い詰めた龍崎に向けられていた。だがこの言葉は、別の向きにも放てる言葉だった。白石を追い続けている私自身に向けて。あなたは正義だと信じているから、追い詰めることへの抑制を失っていませんか——そう読めば、この言葉はまったく違う意味を持つ。
ペンが止まった。
違う、と思った。私は取材をしている。事実を積み上げている。関口が死に、麻子が死にかけている。それを追うことと、誰かを追い詰めることは、まったく別のことだ。
そう言い聞かせようとした。
だが、言い聞かせようとすればするほど、丹波の言葉が、少し違う角度から返ってきた。
「追い詰めることの罪深さは、その確信の中に隠れているから、本人には見えない」
本人には、見えない。
違う、とまた思った。私には見えている。だから調べている。見えているから、書こうとしている。それが取材というものだ。
だが、その「見えている」という確信こそが、丹波の言う「確信」と、どこが違うのか。
その問いが頭に入ってきた瞬間、私はペンを置いた。その読み方を、退けた。取材者の悪い癖だ、と自分に言った。
だが、退けた後も、その静止したものは、しばらく胸の中にあった。
「白石さんが、誰かを追い詰めている可能性については、どうお考えですか」
丹波は、静かに首を横に振った。
「白石さんは、人を傷つけるような人ではありません。私はあの方と長い時間を過ごしました。その確信は、変わりません」
揺るぎがなかった。これまでの取材で、何度聞いても、この答えだけは変わらなかった。
喫茶店を出た。夕方の光が、細い路地の向こうに傾いていた。
関口の死と、今日の丹波の言葉が、頭の中で並んでいた。繋がるものが、どこにもなかった。丹波は善意から動いている。その感触も、変わらなかった。
それでも、あの「追い詰めることの罪深さ」という言葉だけが、帰り道の間ずっと、私の後ろをついてきた。
歩きながら、ふと、別のことを思い出した。
最初に丹波と会った喫茶店で、丹波が「正義マン」というアカウントの話を聞いた後、コーヒーカップを音もなく少しだけずらした。あの指の動き。話の内容とは関係のない、ごく小さな動作だった。その時は気にもしなかった。
なぜ今、それを思い出したのか、自分でも分からなかった。
夜の書斎で、私は取材ノートを開いた。
龍崎が関口を消したとすれば、その動機は明快だった。関口が握っていた証拠が露見したこと、そしてその証拠を金に換えようとしていた可能性。龍崎には、関口を黙らせる理由が、十分すぎるほどあった。
だが、私の頭にはもう一つの可能性が引っかかっていた。
龍崎は白石にとって、まだ使い道のある駒だった。その龍崎が、関口の証拠によって窮地に立たされる。白石がその状況を黙って見ていたとは、考えにくかった。
白石は関口の動きを、どこかで把握していたのではないか。把握した上で、龍崎を守るために何かを動かした。丹波を使って、関口を追い詰めた——。
私はその推論を手帳に書き始め、途中で止めた。
ただ、一点だけ、どうしても頭から離れないことがあった。
首吊り、という死に方だ。
以前の取材で、丹波がある言葉を語っていた。「追い詰められた人間が首を吊るのは、本当に追い詰められた証だ」という言葉を。白石が接見室で話した言葉だと、丹波は言っていた。
その言葉と、関口の死に方が、頭の中で重なった。
私は手帳に「首吊り——白石の言葉——関口の死」と書き、その三つの間に矢印を引こうとして、止まった。
引けなかった。繋がっているかもしれない。繋がっていないかもしれない。この一行を書き留めることが、今の私にできる精一杯だった。
机の上で、ペンだけが転がった。拾う気になれなかった。
時計を見ると、深夜を過ぎていた。
第四章 ひかりの庭
関口の死から、二か月が経っていた。
その間、冤罪被害者の会への外部からの批判が、じわじわと高まり始めていた。会の活動に疑問を呈する声が、各地のコミュニティや掲示板に散発的に現れ始めた。どれも小さな声だったが、積み重なると、無視できない量になっていた。
龍崎は、その変化に敏感に反応した。
会の投稿頻度が、ある時期を境に落ちていった。かつては毎日のように更新されていたアカウントが、週に一度、二度へと間引かれていった。告発の投稿が減り、代わりに「私たちは、傷ついた人間の声に寄り添いたい」という、柔らかい言葉が増えていった。
私はその変化を、手帳に書き留めた。
龍崎の言葉が、変わっている。
外に向けて正義を振りかざす言葉から、内に向けて安らぎを語る言葉へ。それはまるで、嵐の前に帆を畳む船のような動きに見えた。
新しいアカウントが立ち上がったのは、それからまもなくのことだった。
「ひかりの庭」。
最初の投稿には、こう書かれていた。
「ここは、誰も否定されない場所です。傷ついたまま、どこにも行けなくなった人のための、小さな庭です」

私はその文章を、何度か読み返した。
冤罪被害者の会の言葉とは、明らかに文体が違った。外に向けた告発ではなく、内に向けた招待だった。龍崎が書いたとは思えないほど、言葉が柔らかく、慎重に選ばれていた。
誰かが、この言葉を書かせたのだろうか。
その考えが頭をよぎった瞬間、私は手帳を閉じた。
私はそのアカウントを、しばらく外から眺め続けた。
参加者が増えていった。最初の一か月で百人を超え、三か月が経つ頃には、五百人に迫ろうとしていた。コミュニティの内側では、誰かが弱音を吐けば、すぐに励ましの言葉が並んだ。誰かが小さな一歩を報告すれば、祝福の声が返ってきた。傷ついた人間が、傷ついた人間同士で寄り添っている。外から眺める限り、それは確かに、温かい場所に見えた。
元会員への取材を始めたのは、ひかりの庭が立ち上がってから半年ほどが経った頃だった。
コミュニティを離れた人間を探すのは、容易ではなかった。離れた理由を語ってくれる人間は、さらに少なかった。連絡を取った何人かは、最初から口を閉ざした。一度だけ会ってくれた人間も、肝心なところで言葉を濁した。
それ自体が、すでに何かを示唆していた。
辞めた理由を語れない人間が、これほど多い集まりとは、何なのか。
それでも根気よく当たり続けるうちに、少しずつ、内側の空気が見えてきた。
ある元会員は、駅前の小さな喫茶店で会った。四十代の女性だった。昼過ぎの店内は混んでいたが、彼女は奥の壁際の席を指定した。周囲の声から距離を置きたがっている、ということは分かった。注文したランチには、ほとんど手をつけなかった。
「外からは、みんなやさしそうに見えるじゃないですか」
女性は、テーブルの木目を見ながら言った。
「でも、中にいると分かるんです。誰かが少しでも、龍崎さんと違うことを言うと、空気が変わる。やさしさって言葉の裏に、同調しないと居場所がなくなる、という圧力があって」
「それは、誰かに強制されるんですか」
「そういうわけじゃないんです。誰も、直接何も言わない。ただ、空気が変わる。それだけで、十分なんです」
私はその言葉を、手帳に書き留めた。
誰も命令しない。誰も強制しない。ただ、空気が変わる。それだけで、人間は動く。
白石がかつて、柏木に語った言葉が頭の中で形を結び始めた。だが、私はその考えを、すぐに手帳の余白に追いやった。
取材を続けるうちに、一人の名前が繰り返し出てくるようになった。
皆川麻子。三十代の女性だった。
複数の元会員が、示し合わせたわけでもないのに、同じ名前を口にした。最初の頃の麻子さんは、明るかった。誰より積極的に発言していた。それが変わった。そういう話が、別々の人間から、同じように語られた。
私は麻子の知人を探し、話を聞いて回った。
麻子がひかりの庭に入ったのは、コミュニティが立ち上がってまもなくの頃だった。それ以前、麻子は長い孤独の中にいた。職場での人間関係に疲れ、友人とも疎遠になり、誰かに必要とされたいという渇望だけが、日々積み上がっていた。
経理の仕事をしていた麻子にとって、数字の裏に隠れた人間の動きを読む目は、職業上の習慣だった。その目が、やがてコミュニティの資金の流れに向いた。
ひかりの庭は、温かい言葉を入口にしながら、参加者から会費を集めていた。感謝の場を作るための運営費、という名目だった。だが、経理の仕事をしている麻子には、その使途の説明が、どうも腑に落ちなかった。
後に、麻子が外部に発信していた投稿のアーカイブを、私は別のルートから入手した。
削除される前の投稿の中に、一枚のスクリーンショットがあった。コミュニティの月次収支報告として共有されたものだった。麻子はそこに、赤いペンで二か所に丸をつけていた。
一つは、「施設利用費」という項目だった。毎月一定額が計上されているが、どの施設かの記載がない。もう一つは、「外部講師謝礼」という項目だった。講師の名前がない。金額だけがある。
その下に、麻子の手書きのメモが残っていた。
〈誰に払っているのか。聞いても答えが来ない。これは、おかしい。〉
たった三行だった。だが、この三行を書いた人間が、その後どうなったかを私は知っていた。
麻子の職場の同僚だった女性が、昼休みの短い時間を割いて会ってくれた。近くの喫茶店の窓際の席で、女性は最初から声を低くして話した。周囲を気にしている様子ではなく、むしろ、声のトーンをあらかじめ決めてきたような、そういう低さだった。
「最初は、気のせいだと思っていたと思います。でも、半年くらい経った頃から、コミュニティの雰囲気がおかしいって言い始めて。同時に、お金の使われ方が不透明だ、って」
「具体的に、どんなことを言っていましたか」
「会員から集めた費用がどこへいくのか、明細を出すべきだ、と。麻子さん、スクリーンショットを撮って、書類を集めていたみたいで。黙っていられない性格だから、と言ってました」
女性は、テーブルの上で指を組んだ。
「外から見ていると、穏やかで温かい場所に見えるって、麻子さんも最初はそう思っていたみたいで。でも、あるところから急に怖くなった、って言ってました。みんなの顔は笑っているのに、何かがおかしい、って。言葉にできないけど、息が詰まる感じがする、って」
麻子はその違和感を、外部に向けて発信し始めた。
最初は穏やかな文章だった。「コミュニティの雰囲気が、少し違う気がする」「資金の使途について、透明性が必要ではないか」という程度の、感想に近い言葉だった。
だが、それで十分だった。
翌日から、複数のアカウントが麻子の投稿に反論を始めた。麻子の過去の発言を掘り起こし、矛盾を指摘するアカウントが現れた。実名こそ出なかったが、特定できるような特徴を並べた投稿が、じわじわと広がっていった。
「眠れないって、言ってました」と、同僚の女性は続けた。「毎晩、スマートフォンを見てしまうって。自分への投稿が増えていくのが分かるから、確認せずにいられないって」
「病院には行っていましたか」
「行って、睡眠薬をもらうようになったのは、その頃からです。飲まないと眠れないって、私にも話してた」
女性は、組んでいた指を静かにほどいた。
「私、もっと早く、何かできたんじゃないかって、今でも思うんです」
その頃、丹波誠一郎がひかりの庭に参加していることを、私は元会員の一人から聞いた。
驚いた。
白石の教誨師だった人物が、白石と繋がりのある龍崎が運営するコミュニティにいる。その符合が、頭の中で鳴った。
三度目の取材を申し込むと、丹波はすぐに応じた。
汐見銀座商店街を歩いていると、また空にアドバルーンが浮かんでいた。前に来た時も、たしかあれがあった。それだけのことだ、と思いながら通り過ぎた。
いつもの席。店に入ると、今日も汐見銀座商店街の有線が窓越しに届いていた。この喫茶店に来るたびに、同じ曲が流れている気がした。
「寄せ集めの ぬくもりが咲く箱庭で 貴女はなぜ 愛の目方を量るのか 傷跡をかばい合う 毛布を剥ぎ取り 正しさという名の 刃を振りかざす 損得ばかりの 冷たい瞳で 守り抜いた窓を こじ開けるなら 白き朝の底で 永遠に凍えなさい」
私はその音を、とくに気に留めなかった。丹波は今日も少し早く来ていた。テーブルの前で、背筋をまっすぐにして座っていた。
「ひかりの庭に参加されていると聞きました」
「はい」と、丹波は言った。防衛するような色が、どこにもなかった。「誰も否定しない、という考え方は、私たちの仕事にも通じるものがあって。傷ついた人間が安心できる場所というのは、大切だと思っています」
「麻子さんという会員のことを、ご存知ですか」
丹波は、少し間を置いた。
「存じています。最近、少しお話しする機会がありました」
「どんなきっかけで」
「麻子さんが、コミュニティへの疑問を外部に向けて発信し始めた頃です。攻撃を受けて、眠れない夜が続いていると聞いて。傷ついている人間がいれば、そばにいたい。それだけのことです」
丹波の声は、穏やかだった。善意の言葉だった。
だが、私の手帳を持つ手が、わずかに止まった。
麻子はコミュニティへの疑問を外部に発信していた。その麻子に、白石を信じている教誨師が近づいた。その時期に麻子は睡眠薬を処方されるようになっていた。
三つの事実が、頭の中で並んだ。
私はその並びを、手帳に書かなかった。
「麻子さんの今の様子は、どうですか」と、私は聞いた。
「少し、心配しています」と、丹波は言った。「攻撃が続いていますから。でも、あの方は芯の強い人だと思っています」
喫茶店を出ると、夕暮れが近かった。ビルの谷間に、細長い空が見えた。
丹波の「心配しています」という言葉が、消えなかった。その言葉が善意から出たものなのか、それとも別の何かから出たものなのか、私には判断がつかなかった。
麻子が死んだのは、それから一か月後のことだった。
夜道で、複数の人間に暴行を受けた。
駅から自宅までの、ごく短い道のりだった。人通りの少ない路地に差しかかったところで、複数の人影に囲まれた。
後に、現場近くの住民への聞き込みで、一つの証言が得られた。事件の数十分前、路地の入口付近に、壁にもたれかかるようにして座り込んでいる女性がいたという。声をかけようとしたが、女性はふらつきながら立ち上がり、路地の奥へと歩いていった。酔っているのか、体調が悪いのか、判断がつかなかった、と証言者は言った。

悲鳴を聞いた近隣の住民が通報し、救急車が到着した時には、麻子は路上に倒れたまま、意識を失っていた。
病院に搬送されたが、翌朝、意識が戻らないまま亡くなった。
死因は、暴行による外傷性ショックと判断された。加害者たちは、まもなく逮捕された。いずれも、ひかりの庭の熱心な会員だった。
警察の調べによれば、加害者たちは「麻子がコミュニティを傷つけている」という強い憎しみを持っていたという。
供述の中に、繰り返し現れる言葉があった。
「許せなかった」
「あの人がいる限り、みんなが安心できる場所が守れないと思った」
「誰かが動かなければ、という気持ちが、ずっとあった」
誰かが動かなければ。
私はその言葉を、手帳に書き留めたまま、しばらく動けなかった。
直接命令する必要はない。ある方向に向けて、怒りと使命感を積み上げていけばいい。やがて、誰かが動く。動かされた誰かは、自分の意志で動いたと信じている。
白石が、かつて柏木に伝えた手口と、構造が重なった。
だが、私が手を止めたのは、そのことだけではなかった。
暴行を受ける前から、すでにふらついていた女性。その証言が、頭から離れなかった。
私は麻子のかかりつけ医への取材を試みた。患者情報という壁がある。難航した。だが複数のルートから、当時の担当医とは別の、院内関係者への接触に成功した。その人物は、匿名を条件に、一つの事実を教えてくれた。
搬送時の血液検査で、麻子の体内から、処方量をはるかに超える睡眠薬が検出されていた。
だが、その事実は、捜査記録の表には出なかった。死因はあくまで暴行による外傷性ショックであり、睡眠薬については処方薬の自己摂取として処理された。捜査の焦点は、逮捕された加害者たちに向いていた。
私はこの事実を手帳に書いた。そして、その下に問いを書いた。「致死量の薬は、どこから来たのか」
外出もままならなくなっていた麻子が、複数の医療機関を回って薬をかき集めることができたとは、考えにくかった。
誰かが、麻子の手の届く場所に、薬を置いた可能性がある。
暴行だけで死に至らなかった場合の保険として。あるいは——暴行よりも先に、薬で決着をつけるつもりだったのかもしれない。
私はその推論を手帳に書き、すぐに細い横線を引いた。
だが、この死には、二つの意図が重なっていた。
外からの暴力と、内側に忍ばせた毒と。どちらか一方が失敗しても、もう一方が残る。そういう設計に見えた。

私は手帳を閉じ、窓の外を見た。雨が、窓ガラスを静かに伝っていた。
関口の死の時は、朝だった。雀が電線から飛び立つのが見えた。
今夜は雨だった。音がなかった。
麻子への「内側に忍ばせた毒」が誰の手によるものか、その問いを抱えながら、私はもう一度、丹波への取材を申し込んだ。
いつもの喫茶店。だが今回は、丹波が来る前に私の方が先に着いた。窓際の席から、汐見銀座商店街を行き交う人を眺めながら待った。
丹波は、傘を閉じながら入ってきた。外は、まだ雨が続いていた。席に着くと、コートの雫を静かに払った。いつもと変わらない、穏やかな所作だった。
「麻子さんが亡くなりました」と、私は言った。
「はい」と、丹波は言った。「存じています」
「ご存知だったんですか」
「連絡をいただきました。悲しいことでした」
誰から連絡をもらったのか、私は聞かなかった。聞くべきだったかもしれない。だが、丹波の顔に浮かんでいた哀悼の表情が、その質問を一瞬遅らせた。
「麻子さんに、睡眠薬を渡したことはありますか」
丹波は、静かに私を見た。
「ありません」
声に、揺れがなかった。
「眠れない夜が続いていると聞いていたので、医療機関に行くよう、お勧めはしました。でも、薬を渡すようなことは、していません」
私はその言葉を、手帳に書いた。書きながら、指先が少し冷たいことに気づいた。
丹波は嘘をついていない、という感触があった。だが、その感触を信じていいのかどうかが、この夜、初めて、少しだけ揺らいだ。
「医療機関に行くよう勧めた。それだけですか」
「はい。それだけです」
雨が、窓ガラスを伝っていた。汐見銀座商店街の灯りが、濡れた路面に滲んでいた。

私は手帳を閉じた。
外に出ると、雨はまだ降っていた。傘を開きながら、丹波の「それだけです」という言葉を、もう一度頭の中で聞いた。
その言葉は嘘ではないかもしれない。だが、「それだけ」という言葉が、何かを縁取っているような気がした。
第五章 信者の沈黙
記事を書こうとしたのは、一度だけだった。
麻子が死んでから半年が過ぎた頃、私は手元の記録を整理して、一つの文章にまとめようとした。白石輝道という男が、龍崎ヒカルのコミュニティを通じて、批判者たちを次々と追い詰めている——そういう内容だった。
書いていて、壁にぶつかった。
事実の積み重ねはあった。矛盾点もあった。だが、白石と二件の死を直接結ぶ線が、どこにもなかった。龍崎には動機があるが、関口の件以外で龍崎が動いたという証拠もない。麻子の体内の睡眠薬が誰の手によるものかも、証明できない。私は書きかけの文章を、保存せずに閉じた。
その三日後、見知らぬアカウントからメッセージが届いた。
「あなたが準備している記事のことを、聞きました。やさしさを否定する人間に、何ができるんですか」
私は記事を、まだ誰にも見せていなかった。保存すらしていなかった。それなのに、「準備している記事」という言葉が使われていた。
私はその一文を、しばらく見ていた。それから画面から目を離し、部屋の中を見回した。いつもの書斎だった。机の上に、取材ノートが積み上がったままになっていた。だが、背中の皮膚が薄く緊張しているのを感じた。
誰かが、私の動きを追っている。
考えられる人間は、限られていた。私がこの調査について、継続的に話してきた人間。柏木は、会うたびに口が重くなっている。龍崎には接触できていない。他の情報源たちは、すでに返信が遅くなり始めていた。
残るのは、丹波誠一郎だった。
丹波は最初の取材から今まで、私が連絡するたびに応じてくれた。私が何を調べているか、話の流れで十分に把握できる立場にいた。だが、丹波が白石に情報を流しているとすれば——その考えが頭の中に入ってきた瞬間、私はペンを止めた。
丹波は白石の更生を信じている。だがそれは、白石に協力することとは違う。信じることと、情報を渡すこととの間には、丹波自身も気づかないような距離がある可能性もある。誰かに何かを話すとき、人は必ずしも意図を持って漏らすわけではない。
だが、他に誰がいるのか。
私はその問いを、手帳の余白に書いた。「誰が、私の動きを知っているのか」と。そして、すぐ下に書いた。「丹波——可能性として除外できない」と。
書いてから、しばらくその二行を見ていた。
丹波を疑う気持ちと、それを疑いたくない気持ちが、同じ重さで並んでいた。どちらかに決められないまま、私は手帳を閉じた。
翌日、同じような文面のメッセージが、別のアカウントから届いた。文体が似ていた。句読点の打ち方が、一つ目のメッセージと同じだった。三日目には、三件になった。いずれも私の名前は出ていなかったが、私の経歴に近い特徴——地方紙出身、フリーランス、特定の地域での取材——が、並べて書かれていた。
誰かが、私の動きを知っていた。
椅子の座面が、急に硬く感じられた。
その頃から、情報源が変わり始めた。
振り返れば、その予兆は、もう少し前からあった。麻子の死の後、取材に応じてくれていた元会員の何人かが、急に返信を遅らせるようになっていた。関口を調べていた時期にも、一人が「もう少し時間をほしい」と言ったまま、連絡が途絶えた。あの時は偶然だと思っていた。だが今になって並べると、それは偶然ではなかったのかもしれない。
最初に沈黙したのは、ひかりの庭の元会員で、複数回話を聞かせてくれていた三十代の会社員だった。ある日を境に、メッセージへの返信が止まった。電話をかけると、着信拒否になっていた。
次に、冤罪被害者の会の元スタッフで、柏木との接点を持っていた女性が、会う約束をした当日に現れなかった。翌日、「やはりお話しするのは難しい」という短いメッセージが届いた。
一週間で、五人が沈黙した。
私は手帳に、沈黙した情報源の名前を書き並べた。名前を一つ数えるたびに、次の名前を探す手が、少し遅くなった。
丹波誠一郎への取材を、改めて申し込んだ。
いつもの喫茶店、いつもの席。店に入ると、また同じ曲が流れていた。何度目だろうと思いながら、席に着いた。
「街の灯を 己の太陽と信じ込み 空を舞う夢を見る 糸の切れた凧よ 雨露をしのいだ この屋根を蹴り飛ばし 自分は特別な 鳥なのだと歌うけれど 風を読むこともできぬ その頼りない翼で 嵐の空へ 飛び立てるはずもない 優しい土へ還りなさい 幻とともに」
丹波が、窓の外に一瞬だけ顔を向けた。それだけだった。丹波は変わらず、約束の時間より少し早く来ていた。窓の外から差し込む光が、テーブルの半分だけを明るく照らしていた。丹波は、その明るい側に座っていた。
「ひかりの庭への参加について、改めて伺いたいことがあります」と、私は言った。「白石さんとの繋がりを知っていながら、なぜ参加されているんですか」
「白石さんとの繋がり、というのは、私が参加した理由ではありません」と、丹波は答えた。「傷ついた人間が安心できる場所というのは、大切だと思っているから、参加しています」
「麻子さんが亡くなった後も、参加を続けているんですか」
「はい、続けています」丹波は、視線を少しだけ落とした。「傷ついた場所に、傷ついたまま留まっている人間がいる。その人たちのそばにいることが、今の私にできることだから、です」
その答えも、丹波の言葉として筋が通っていた。だが、私の疑問は解消されなかった。
「一つ、直接聞いていいですか」
丹波が顔を上げた。
「私が調べていることの内容を、白石さんに話したことはありますか」
しばらく、静かだった。窓の外で、自転車が一台止まった。鍵をかける音が、ガラス越しに聞こえた。
「ありません」
丹波の声は、穏やかだった。揺れがなかった。
「ただ」と、丹波は続けた。「あなたが私に会いに来ていることは、話したことがあります。記者の方と話している、と。それ以上の内容は、話していません」
私はペンを止めた。
記者が自分に会いに来ている、という事実が、白石に届いていた。その事実だけで、白石には十分だったかもしれない。誰が調べているか。どこまで来ているか。丹波がそこまで伝えなくても、白石には自分で確かめる方法があるだろう。
「それを話したのは、いつですか」
「最初に、宮武さんに会った後です。もう、ずいぶん前のことになります」
私は手帳に書いた。「丹波は、私が調べていることそのものは話していない——と言っている。ただ、私の存在は白石に届いていた」と。
喫茶店を出た。駅前の人波に紛れながら、歩いた。
丹波は嘘をついていない、という感触は、今回も変わらなかった。だが、その感触を信じていいのかどうかが、分からなくなっていた。
誠実であることと、白石の側にいないこととは、別の話だ。
その一文が、頭の中で何度も繰り返された。繰り返されるたびに、少しずつ、重くなった。
柏木への二度目の取材を申し込んだのは、その頃だった。前回と同じ喫茶店を指定した。柏木は、今度は一度で了承した。
会ってみると、柏木は以前より痩せていた。頬の肉が落ちていた。スーツは同じような色だったが、少し大きく見えた。テーブルに着くなり、コーヒーではなく水を頼んだ。

私は白石の名前を出した。
柏木の顔から、表情が引いた。前回は指先が小さく動いていた。今回は、顔ごと固まった。動かなくなった、というより、何かが抜けた、という感じだった。
「白石さんのことは、もう、あまり」
柏木は、そこで言葉を止めた。続きが出てこなかった。視線がテーブルの木目に落ちたまま、上がってこなかった。
水のグラスが、テーブルの上に置かれたまま、手をつけられていなかった。私は白石の名前を引っ込め、ひかりの庭の話に切り替えた。柏木の肩から、わずかに力が抜けるのが見えた。
「ひかりの庭の運営について、お聞きしたいことがあります」
柏木は、ゆっくりと頷いた。だが、会話の端々に、何かを計算しているような慎重な間があった。言葉を選んでいる、というより、言えない言葉を回避している、という感じだった。
話しているうちに、一つだけ、柏木が不用意に口にした言葉があった。
「運営上の判断は、私一人でできることではないので」
私はその言葉を聞き流しかけ、止まった。
「他に関与されている方がいるんですか」
柏木は、すぐに顔を上げた。言ってしまった、という色が、一瞬だけ目に出た。
「いえ、組織として、という意味です」
それ以上は語らなかった。話題を変えようとする動きが、柏木の体全体から出ていた。
喫茶店を出た後、私は手帳を開いた。
「柏木——白石の名前で、顔から表情が引いた。前回は指先が動いていた。今回は顔ごと固まった。言えない言葉の量が増えている。そして——運営上の判断を一人でできない、と言いかけた。他に誰かがいる」と書いた。
顧問として名前が出ているのは白石だ。だが柏木が「私一人ではできない」と言うとき、その「誰か」は顧問という肩書きの人間ではない可能性がある。表に出ていない人間が、柏木の判断に関わっている。
その輪郭が、霧の中で少しだけ形を持ち始めた。
夜、私は書斎の椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
机の上に、取材ノートが開いたままになっていた。ここ数日で沈黙した情報源の名前が、ページに並んでいた。七人になっていた。
七人。
その数字を、改めて数えた。一人目が沈黙した時、私は偶然だと思った。二人目の時も、そう思おうとした。だが七人が並んだ今、その言い訳はもう成立しなかった。
誰かが、私の周辺を静かに閉じていっている。
そう認識した瞬間、書斎の空気が、少し変わった気がした。何かが変わったわけではない。蛍光灯の光は同じだった。窓の外の街灯も同じだった。だが、その変わらなさが、少し違う意味を持って見えた。
次は私かもしれない。
その考えが、頭の中に入ってきた。
入ってきた瞬間、背中に冷たいものが走った。以前感じた背中の皮膚の緊張とは、違った。あの時は「誰かが自分の動きを知っている」という感覚だった。今は、もっと直接的だった。もっと近い場所から来ていた。
これを書いている今、自分が怖いと思っていることを、ここに書き留めておく。
感情を書くつもりはなかった。手記というものは、事実を積み上げるものだと思ってきた。だが今夜は、そうできない。
七人が沈黙した。白石の名前は、どこにも出てこない。柏木は口を閉ざしている。丹波は誠実に見える。それなのに、私の周りだけが、少しずつ、静かになっていく。
誰かが書かなければ、なかったことになる。
地方紙に入った頃から、そう思ってきた。今夜もそう思う。だが今夜初めて、その言葉が、自分自身に向かって跳ね返ってくるのを感じている。
私が書けなくなった時、この記録はどこへ行くのか。
蛍光灯を消した。部屋が暗くなった。窓の外の街灯の光だけが、薄く差し込んでいた。
暗い部屋の中で、私はしばらく、ただ座っていた。

書斎の椅子に座ったまま死ぬことが、どういうことか、初めて、具体的に想像した。
第六章 信頼の値段
龍崎が変わったことに気づいたのは、ひかりの庭の投稿を眺めていた時だった。
それまでの龍崎の言葉には、一種の前置きがあった。「みんなと一緒に考えたい」「皆さんの意見を聞かせてほしい」という言葉が、何かを発信するたびに添えられていた。だが、ある時期を境に、その前置きが消えた。
「基金の運用方針を変更します」という投稿があった。「詳細は追ってお知らせします」と。
合議の形が、消えていた。
私はその投稿を、しばらく眺めた。小さな変化だった。だが、言葉の選び方が変わった時、人間の何かが変わっている。私は龍崎の周辺への取材を、改めて始めた。
「ここまできたのは、自分の実力だ」
龍崎がそう言っていたという証言を、元スタッフの一人から聞いたのは、その頃だった。
元スタッフは、駅近くのファストフード店で会った。平日の夕方で、学生が多かった。向かいの席に座った男は、三十代前半だった。トレイの上に置いたコーヒーに手をつけず、最初から声を落として話し始めた。
「最初の頃の龍崎さんは、違ったんです」と、男は言った。「自分の力を過信するような人じゃなかった。むしろ、誰かの助けがないと何もできない、って分かってる人で」
「それが変わった時期は」
「ひかりの未来基金が大きくなってからです。出資者が増えて、メディアにも取り上げられるようになって。その頃から、アドバイスを聞かなくなっていった」

男は少し間を置いた。
「白石さんとの関係も、変わりました。以前は、白石さんが来ると、龍崎さんは必ず時間を作っていた。でも最近は、会議を入れて、会えない日を作るようになって」
私は手を止めた。
白石との関係が変わった。白石が来ても、時間を作らない。それは単なる多忙ではない。意図的な距離の取り方だ。
「白石さんは、それに対して、どんな反応でしたか」
男は少し考えてから、首を横に振った。
「何も言わなかったです。それが、一番怖かった」
ファストフード店の外で、夕方の人波が流れていた。私はその動きを見ながら、手帳に書き足した。「白石は何も言わない。怒らない。ただ、待っている」と。
それから一行空けて、こう書いた。「龍崎が負ける」と。
根拠のある予感だった。龍崎は白石を切ろうとしている。だが、白石を切るための相談相手を、龍崎は誤っている。柏木は最初から白石と繋がっている。龍崎が柏木に頼めば頼むほど、白石はその動きを知る。待っている人間に、自分の手の内を教えながら近づいていく——そういう構図だ。
「ひかりの未来基金」という名前を、私が最初に目にしたのは、ある投資家向けの情報サイトだった。
ひかりの庭を母体とした、新しい事業が動き出していた。表向きは、地域の小規模事業者への融資と、若手起業家の支援を謳う投資ファンドだった。龍崎ヒカルの名前が、代表として掲載されていた。

私はその記事を印刷して、取材ノートに挟んだ。そして、記事の中の一行に、赤いペンで線を引いた。
顧問の欄に、一つの名前があった。
柏木悠人。
私はその名前を、しばらく見ていた。ペンを持ったまま、次の動作ができなかった。これまで調べてきた構造が、ここで一つの形を取った。龍崎の法律顧問だった人間が、ひかりの未来基金の顧問として名前を連ねている。
白石の名前はない。だが、柏木がここにいる。それだけで十分だった。
白石は最後まで、どこにも出てこない。それがこの男の、一貫したやり方だった。
私は赤いペンで、柏木の名前に線を引いた。
龍崎の変化を、私は出資説明会で直接確認した。
一般の参加者として申し込み、会場の後ろの席に座った。地方都市の貸し会議室だった。三十人ほどが集まっていた。私はノートを開き、後ろの席に溶け込んだままペンを走らせた。
壇上の龍崎は、私の記憶にある龍崎とは別の人間のように見えた。
最初に会った時の龍崎には、窓の外を確認する癖があった。出口を気にする目の動きがあった。今、壇上に立った龍崎の視線は、聴衆の上を静かに泳いでいた。誰かの視線を避けるのではなく、自分の視線を配っている人間の目だった。
質疑応答で鋭い質問が飛んでも、表情が動かなかった。淀みなく、数字を答えた。
私はその姿を見ながら、手元のノートに一行書いた。「恐れが消えている」と。
最初に会った日の龍崎には、何かに怯えた人間の緊張があった。それが今はない。傷ついた人間が、傷を忘れた時、何が残るか。誇りか、それとも空洞か。壇上の龍崎がどちらなのか、この場では判断できなかった。
龍崎失脚の報を、私は経済ニュースのサイトで見た。
朝の早い時間だった。コーヒーを飲もうとして、カップを持ったまま、画面を見続けた。
「ひかりの未来基金、横流し疑惑で第三者委員会設置」
記事を読んだ。龍崎が基金の資金を、自身が関係する別の会社に不正に流したという疑惑だった。内部告発があったという。第三者委員会が設置され、調査が始まっているとあった。
私はカップを置いた。コーヒーが少し、テーブルにこぼれた。
その夜、私は書斎の机の上に、訴状の書類の写しを一枚ずつ広げた。知人の弁護士を通じて入手したものだった。部屋は静かだった。
資金の流れを示す書類。龍崎の関与を示す署名のある書類。タイムスタンプが記録されたデータの印刷物。
一枚ずつ、順番に見ていった。
取材をしてきた経験から言えば、本当に不正をした人間の書類は、こんなに整然とはしていない。抜け穴がある。言い訳の痕跡がある。人間が実際にやった不正には、人間の雑さが必ず残る。
だが目の前の書類は、違った。
必要な書類が、過不足なく揃っている。流れが分かりやすく整理されている。龍崎の関与を示す証拠が、疑いを持つ人間に向けて、親切に配置されているように見えた。
私はある一枚の書類を手に取り、電球の光に近づけた。署名の筆跡を見た。署名そのものは本物に見えた。だがその書類が作成されたとされる日付と、別の書類に記録されている会議の記録の日付が、わずかにずれていた。
私は書類を机に戻した。
誰かが証拠を作った、という感触があった。確信と呼ぶには、まだ薄い。だが、この整然さは不自然だった。本物の不正がこれほど読みやすい形を持つことは、まずない。
私は手帳に書いた。「でっち上げの可能性がある」と。
その数日後、ひかりの庭の元会員を通じて繋がっていた関係者から、短いメッセージが届いた。「龍崎さんのことで、大事な話がある」とあった。
会ったのは、郊外の古いファミリーレストランだった。夕方の時間で、客はまばらだった。窓際の席を選んだ。窓の外には、駐車場と、その先に低い山が見えた。
関係者は四十代の女性だった。ひかりの庭の初期からの会員で、内部の資金の動きを把握している立場にいたという。テーブルに着くと、すぐにメニューを閉じた。何も注文しなかった。
「龍崎さん、追い詰められてるんです」と、女性は言った。「横流し疑惑だけじゃなくて、もっとひどい話が出てきそうで」
「どんな話ですか」
女性は少し間を置いた。窓の外に視線が行った。駐車場の向こうの、低い山の輪郭を見ているようだった。

「関口という人、覚えていますか。飲食店の店長だった。首吊りで死んだ」
私の手帳を持つ手が、止まった。
関口さんという名前が、この女性の口から出た。
「龍崎さんが、その人を殺したって話が出ています。関口さんは、龍崎さんが本当は痴漢をしていたという証拠を持っていて、お金を要求したらしい。それで龍崎さんが」
女性は、最後まで言わなかった。言わなくても、分かった。
「その話は、どこから出てきたんですか」
「幹部筋から、だと聞いています」
私はその一言を、手帳に書き留めた。
女性は水を一口飲んでから、立ち上がった。「これ以上は話せません」と言い、店を出ていった。
私はしばらく、窓の外を見ていた。山の輪郭が、夕暮れの中で少し暗くなっていた。
白石はこの事実を、ずっと手放さなかった。使う機会を待ちながら。
ただし、この考えにも、迷いが残った。財務書類があれほど整然と「でっち上げ」られていたのだとすれば、この噂もまた、同じ手で作られたものかもしれない。関口を殺したのは、本当に龍崎なのか。それすらも、白石が用意した物語である可能性を、私は捨てきれずにいた。
その夜、書斎で、私は取材ノートのあるページを開いた。
関口さんに最初に電話した日のページだった。「証拠がある。でも今は話せない」という言葉を書いた、あのページ。「この死を、調べる」という一行が、そのページの最後にあった。
私はずっと、関口を消したのは白石だと思っていた。白石が柏木に何かを吹き込んだ。柏木が龍崎に伝えた。その先に関口の死がある、と。だが柏木には動機がない、という壁に何度もぶつかっていた。
今、その可能性が、別の人間の口から形を持って出てきた。
関口は、龍崎の秘密を持っていた。龍崎に金を要求した。
龍崎が自分で判断して、関口を首吊りに見せかけて殺した——そう考えれば、辻褄は合う。
白石は、その筋書きを知っていた。あるいは、その筋書きそのものを作り上げたのかもしれない。
最初から知っていて、あるいは用意して、切り札として持ち続けていた。
龍崎が白石に反逆した時、その切り札を使った。
でっち上げの書類と、龍崎が人を殺したという話。
真偽のいずれであっても、この二つで、龍崎を完全に追い詰めるには十分だった。
私は手帳を閉じた。
白石は関口を殺していない。だが、もし龍崎が本当に関口を手にかけたのだとすれば、その死の遠因には白石がいる。首吊りのやり方を接見室で語った。
それが柏木に届き、龍崎に届き、その手法が使われたのだとすれば——誰も命じていない。誰の手も汚れていない。
この認識に至るまでに、私は何年もかかった。手帳を閉じた手のひらが、少し冷たかった。
もう一つ、頭から離れないことがあった。
首吊り、という死に方だ。
丹波が語っていた言葉が、頭の中でもう一度鳴った。「追い詰められた人間が首を吊るのは、本当に追い詰められた証だ」という言葉が。白石が接見室で話した言葉だと、丹波は言っていた。
その言葉が、柏木を経由して龍崎に届いた。その言葉通りだとすれば、龍崎は関口を首吊りで殺したことになる。
これは白石の設計だったのか。それとも——龍崎が偶然、同じ方法を選んだのか。
株主代表訴訟が起こされたのは、それから間もなくのことだった。
原告側の弁護士として、柏木悠人の名前があった。ひかりの未来基金の顧問契約は、訴訟の一か月前に、柏木の側から静かに解消されていた。そのことに気づいたのは、登記簿の変更履歴を確認した後のことだった。
私はその名前を、取材ノートに書き写した。ゆっくりと、一文字ずつ。
柏木が、原告側にいる。龍崎の顧問だった人間が、龍崎を訴える側に回っている。
最初から、これが目的だったのかもしれない。私はそう思いながら、しかし断言することも、まだできなかった。
龍崎の死の報を知ったのは、訴訟の報道から三週間後だった。
自宅での首吊り。自殺と判断された。
私は記事を読んで、画面から目を離せなかった。
首吊り。関口と同じ死に方だ。
龍崎が関口を殺したのだとすれば、その龍崎が、同じ方法で死んだことになる。
私は取材ノートを開き、以前書いたページを確認した。丹波が語っていた言葉が、そのページに書いてあった。「追い詰められた人間が首を吊るのは、本当に追い詰められた証だ」という言葉が。
白石がこの言葉を話した。丹波を経由して、柏木に届いた。柏木から龍崎に届いた。その言葉通りに龍崎が関口を殺したのだとすれば、龍崎は自分も同じ方法で死んだことになる。
この連鎖に、偶然はあるか。
龍崎の死が自殺ではない可能性を、私は疑っていた。訴訟で追い詰められた男が、追い詰められたまま死ぬ。それは自然に見える。だが、その死に方が、白石の言葉と重なっている。丹波がひかりの庭に今も参加している。
実行したのは誰か。
翌日、柏木が次期代表として就任するという記事を見た。
ひかりの未来基金の代表として、柏木悠人の名前が発表されていた。
私は取材ノートを開き、最初のページから順に目を通した。白石輝道という名前を初めて書いたページ。柏木が取材を拒否した日のページ。龍崎が現れたページ。関口が死んだページ。麻子が死んだページ。龍崎が死んだページ。
そして今日、柏木が代表になったページ。
白石の名前は、どのページにも、直接の加害者としては出てこなかった。
柏木は、最初からこの場所に向かっていたのかもしれない。白石はそれを知っていて、柏木を動かした。あるいは柏木が自分で判断して動いた。
どちらにしても、証明できない。
この「証明できない」という言葉を、私は何度書いてきただろう。だが今回のこの言葉には、それまでと違う重さがあった。柏木が代表になった。組織は動き続けている。私の調査は、何も止めることができなかった。
窓の外で、雨が降り始めていた。
私はしばらく、雨の音を聞いていた。
久兵衛も、追っていた。関口も、気づいていた。麻子も、声を上げた。龍崎も、反旗を翻した。
みんな、消えた。
白石の名前を残して。
第七章 私の周りで人が死ぬ
柏木が代表に就任した翌日から、私はしばらく、何も動けなかった。調査を始めてからの全てが、脳裏を行き来していた。
龍崎の死を、自殺と断定することに、どうしても納得できなかった。
警察の発表は、簡潔だった。自宅での首吊り。遺書あり。訴訟や批判によるストレスが原因とみられる。それだけだった。
だが龍崎が最後に残した投稿が、頭から離れなかった。
訴訟が報じられてから一週間後のものだった。
「皆さんに、心配と迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。僕は、皆さんから預かった信頼を、裏切るつもりなんて、一度もありませんでした」
私はその文章を、何度か読み返した。
追い詰められた人間の言葉だ、と思った。しかし同時に、誰かに何かを残そうとしている人間の言葉でもあった。自分が消えた後に、自分が信じていたものだけは守ろうとしている。
投稿の末尾に、こうあった。
「皆さんが、僕の言葉で、少しでも救われたことがあったなら、それだけは、本当だったと、信じていてほしいです」
自殺を決意した人間が、こういう言葉を書くだろうか。
あるいは——自殺に見せかけられることを、うっすらと予感していた人間が書く言葉だろうか。
私にはまだ、判断できなかった。
編集長から電話があったのは、龍崎の死から二か月後だった。
地方紙時代の編集長だった。今は別の組織にいる。長い付き合いだった。
「お前、まだ、あの件、調べてるのか」
電話越しの声に、軽さがなかった。
「調べています」
「やめておけ」
「理由を教えてもらえますか」
少し間があった。
「ある筋から、お前の名前を聞いた。深入りしない方がいい、という話だった。俺には、それ以上のことは分からない」
電話は切れた。
私は受話器を置いて、しばらく壁を見ていた。
ある筋から、という言葉が残った。誰が、何の目的で、この編集長に私の名前を届けたのか。善意の警告なのか、それとも警告という形を借りた圧力なのか。
判断がつかなかった。判断がつかないこと自体が、白石の手口と同じだ、と思った。
その頃から、取材協力者への連絡が、ほとんど機能しなくなった。
これまで話を聞かせてくれていた人間が、返信をよこさなくなった。約束した日に現れない人間が出た。「もう話せません」という短い言葉だけが届くこともあった。
ある夜、私は手帳を開き、まだ連絡が取れる人間の名前を確認した。
窓の外の街灯の光だけが、机の上に薄く差し込んでいた。天井の蛍光灯は、いつ消したのか覚えていなかった。名前を一つ数えるたびに、次の名前を探す手が、少し遅くなった。
少なかった。
白石の名前を直接出せる証言者は、もうほとんどいなかった。柏木は沈黙している。丹波は白石を庇い続けている。龍崎は死んだ。
私には、取材ノートだけが残っていた。
これを書いている今、正直に言う。
怖い。
この調査を始めてから、何人の人間が死んだか、もう一度数えた。
関口。麻子。龍崎。
三人だ。三人とも、白石と、あるいは白石が動かした人間たちと、何らかの形で繋がっていた。三人とも、白石の名前は、どこにも出てこないまま、死んでいった。
自分もそうなるかもしれない、という考えが、ある日を境に頭の中に入ってきた。入ってきたまま、出ていかない。出ていかないのに、どう対処すればいいのか分からなかった。
四日間、取材ノートを開けなかった。
食事の時間に台所へ行き、食べて、また書斎に戻った。真理が話しかけてくる声に、短く返事をした。普通に振る舞えていたかどうか、分からない。
四日目の朝、私は取材ノートを開いた。
書けないなら、書けないでいい。だが、書かないことに慣れてしまうのは、もっと危険だ、と思った。ペンを取った。何かを書いた。書いているうちに、少し、動けるようになった。
丹波誠一郎への取材を、もう一度申し込んだ。
今回は、いつもの喫茶店ではなく、丹波の勤務する施設の近くで会った。小さな公園のベンチだった。夕方で、風が冷たかった。丹波は、コートの前を合わせながら、ベンチに座った。
「最近、取材が続いていますね」と、丹波は言った。「体は大丈夫ですか」
その言葉が、善意から出ていることは、分かった。だが私は、その善意を素直に受け取ることが、以前よりも少し難しくなっていた。
「龍崎さんの死について、どう思われますか」と、私は聞いた。
「悲しいことだと思います」
「自殺だと思いますか」
丹波は、少し考えてから答えた。
「人の心の内側は、外からは見えません。あの方がどれほど追い詰められていたか、私には分かりません」
風が吹いて、公園の木の葉が揺れた。
「白石さんは、龍崎さんのことを知っていたと思いますか」
「それは分かりません。出所後の白石さんのことは、私は何も」
「丹波さんはひかりの庭に参加していた。白石さんと龍崎さんは、同じコミュニティに関わっていた。それでも、繋がりはないと」
丹波は、私の顔を見た。これまでの取材で、丹波が私の顔を正面から見たのは、数えるほどしかなかった。
「宮武さん、あなた、疲れていますね」
私は答えなかった。
「白石さんは、人を傷つけるような人ではありません。私はあの方と長い時間を過ごしました。その確信は、変わりません」
風が、もう一度吹いた。木の葉が揺れた。丹波の白髪が、わずかに乱れた。
丹波は、それを直さなかった。
視線も、手も、声も、何も変わらなかった。その言葉を言い終えた後の丹波は、言い終える前の丹波と、まったく同じ姿勢でそこにいた。
私はその静止を、しばらく見ていた。
公園を出た後、私はしばらく歩いた。
丹波は嘘をついていない。この感触は、最初の取材から今まで、変わっていない。
だが今夜初めて、私はこう思った。
もう、問うのをやめようか、と。
答えの出ない問いを抱えたまま、誰かが私の動きを把握したまま、取材ノートを開けない四日間がまた来るかもしれない。そうなる前に、丹波への問いは、いったん閉じた方がいいのかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、私は足を止めた。
この思考自体が、白石の手口と同じだ、と気づいた。問うことを諦めさせる。それだけで十分だ、と。
私は歩き始めた。足が少し、重かった。
夜、私はUSBメモリを一本、用意した。
取材ノートをすべてデジタルで入力し直した。手帳の記録、証言の要約、書類の写真。これまで調べてきたことを、一つのファイルにまとめた。
自分の部屋に置いておくのは、危険だと思った。職場も、同じだ。私の動きを誰かが把握しているなら、どちらも安全ではない。
どこに隠すか。私はしばらく考えた。
真理の部屋が、頭に浮かんだ。
娘の部屋の棚に置いてある、くすんだ水色のぬいぐるみ。高校一年の誕生日に、私が贈ったものだ。
誰も疑わない場所だ、と思った。
だが、もう一つ考えた。
娘の部屋に、これを隠す。それは、この記録をいつか真理に見つけてほしい、という意味でもある。
私は、その意味をしばらく抱えていた。
真理には、何も話していない。白石のことも、死んだ人間のことも、自分が怖いと思っていることも。話せなかった。話せば心配させる。今はまだ、何も確かなことが言えない。そう思ってきた。
だが、ぬいぐるみを選ぶということは、もし自分に何かあった時、真理に見つけてほしい、ということだ。
私は記者だ。書いたものが誰かに届かなければ、書いた意味がない。だが今、その「誰か」として、私が思い浮かべているのは、読者でも編集者でもなかった。
隣の部屋で眠っている娘だった。
深夜、真理の寝息が聞こえることを確認してから、私は娘の部屋に入った。棚のぬいぐるみを手に取った。
軽かった。
こんなに軽いものの中に、全部を入れるのか、と思った。何年もかけて積み上げてきた記録が、この重さのものに収まってしまうのか、と。
私は台所に移り、作業をした。縫い目を丁寧にほどいた。綿の中にUSBメモリを押し込み、ビニール袋で二重に包んでから、タオル地でさらに包んだ。縫い直した。元の形に戻るよう、丁寧に。気づかれないように。

朝になって、何事もなかったように、棚に戻した。
娘に、言えなかった。
机の前に戻ってから、私はしばらく、そのまま座っていた。
書斎の窓の外で、夜がゆっくりと白み始めていた。
真理は今、大学でジャーナリズム研究会に入っていると聞いた。理由を聞いたことがある。「誰かが書かなければ、なかったことになるって、お父さんが言ってたから」と、真理は答えた。
その言葉を、私はうまく受け取れなかった。照れ臭かった、とは違う。自分がその言葉通りに生きてきたかどうか、その夜のことを正直に言えなかった。
だが今は、言いたい。
お前が引き継いだその言葉を、私はここまで、なんとか守ってきた。
関口が死んだ時も。麻子が死んだ時も。龍崎が死んだ時も。誰かが書かなければ、なかったことになる。その一点だけを信じて、ここまで来た。
記者として始めたことが、父親として終わろうとしている。
そのことを、この夜、初めてはっきりと、自分に認めた。
窓の外が、少し明るくなっていた。
真理の部屋の棚に、ぬいぐるみが戻っている。
あの中に、私の全部が入っている。全部、と言っても、何年も費やして積み上げてきたものが、あの小さな塊の中に収まっているだけだ。それだけのことだ。
それだけのことが、今夜の私には、何かを支えているように感じられた。
第八章 手記の最後
白石と柏木を直接結ぶ証拠を、私はまだ持っていなかった。

柏木が白石に篭絡された経緯は、状況証拠として積み上がっている。龍崎への助言、複数の匿名アカウントによる工作、顧問への就任、龍崎失脚への関与——これらは繋がった線として見える。だが、白石が柏木に「何かを命じた」という直接の証拠が、一つもない。
この手記を、誰かが読んでくれるとすれば。その人間が、白石と柏木の繋がりを証明しようとするなら、何が必要か。
私はその問いを手帳に書き、答えを探し続けていた。
取材ノートを最初のページから読み返したのは、龍崎の死から三か月が経った頃だった。
最初の一冊の表紙は、角が擦り切れていた。何年も、鞄の中で揺られてきた痕跡だった。一冊ずつ、順番に読み返した。白石輝道という名前を初めて書いたページ。柏木に最初に断られた日のページ。丹波に初めて会った日のページ。関口が死んだページ。麻子が死んだページ。
読み返しながら、私はある問いを立てていた。
この調査の全体を、最初から最後まで知っている人間は、誰か。
柏木ではない。柏木は白石の名前が出るたびに口を閉ざし、私が何を調べているかを把握できる立場にない。龍崎はもう死んだ。情報源たちは、それぞれ断片しか知らない。
一人だけいた。
丹波誠一郎だった。
最初の取材から今まで、丹波は私が連絡するたびに応じてくれた。私がこれまで積み上げてきた調査の内容を、話の流れの中で、少しずつ、確実に把握できる立場にいた唯一の人間だった。
龍崎の死から三か月が経つ頃には、真理の部屋のぬいぐるみは、もう何度目か分からないほど、私の手で糸をほどかれ、また縫い直されていた。新しく分かったこと、新しく浮かんだ疑念を、その都度USBメモリに書き足しては、元の場所に戻す。真理が気づいた様子はなかった。
その丹波から、メッセージが届いたのは、ノートを読み返した翌日のことだった。
「一度、直接お話ししたいことがあります」
私はしばらく、その一文を見ていた。
丹波を信頼する理由が、本当にあるのか。自分に問い直してみた。
丹波は白石の更生を信じている。ひかりの庭に参加していた。私の存在を白石に伝えていた。これらの事実だけを並べれば、丹波は白石の側にいる人間だ。
だが、この調査の中で、丹波が私を妨害したことは、一度もなかった。
他の証言者たちは、白石の名前が出た瞬間に口を閉じた。柏木は会うたびに痩せ、最後には視線を上げられなくなった。情報源たちは次々と沈黙した。それなのに丹波は、私が連絡するたびに会ってくれた。「分からない」と言い続けながら、それでも来てくれた。
もし最初から白石の側にいたなら、私の調査を止める機会は何度もあった。もっと早い段階で、もっと静かな方法で。それをしなかった。
「宮武さん、あなた、疲れていますね」
公園のベンチで、丹波が言った言葉を思い出した。あの時、丹波は私の顔を正面から見た。その視線の中に、何かがあった。言葉にできない何かが。

そこから先、記憶が勝手に動いた。
最初に会った喫茶店で、丹波がコーヒーカップを音もなくずらした時の、あの指の動き。関口の名前を出した時に、一瞬だけ目を伏せて、すぐに戻した、あの瞬間。「それだけです」と言いながら、何かをその言葉の縁の内側に収めていたような、あの静けさ。麻子が死んだ夜の雨の中で、傘を閉じながら入ってきた時の、いつもと変わらない穏やかな所作。
一つ一つは、善意の人間の動きだった。
だが今、それを並べると、何かが見える気がした。何かが、とは言えなかった。言えないまま、その感触だけが、手のひらの中で重さを持っていた。
それだけで、十分だと思った。
私は、返信した。「いつでも構いません」と。
返信してから、私はしばらく、送ったメッセージを見ていた。
翌日、丹波から電話があった。
電話口の向こうから、かすかに音楽が聞こえた。汐見銀座商店街の有線らしかった。どこかで聞いたことのある曲だった。
「生まれ変わると 祈った場所を 泥靴のままで 踏み躙る人よ 綺麗な仮面で 聖者を気取り 暴いてみせると 影ばかり追う 罪を正すと 嘯きながら 卑しい覗き見を 愛だと呼ぶか 正しすぎる 猛毒を飲み 白き深淵へ 落ちてゆきなさい」
だが、丹波の次の言葉が、その音を消した。
「実は、白石さんと柏木さんを直接繋いでいた人物を、私は知っています」
私は手帳を手元に引き寄せた。
「その方は、宮武さんに話を聞かせてくれると言っています。ただ、会う場所と時間の指定があって」
「構いません」
「橋のたもとで、二十三時に、と言っています。人目を避けたいそうで」
私は、少し考えた。
夜の橋。人目を避ける。
汐見橋——取材を始めた頃に何度か前を通ったことのある橋だった。欄干が低く、夜は人通りがほとんどない。
夜の橋。
その言葉が、頭の中で一度、鈍く鳴った。
だが、丹波からの連絡だった。
私はこの調査の中で、丹波を疑ったことがある。「可能性として除外できない」と手帳に書いたこともある。それでも丹波は、疑うたびに、来てくれた。
電話を切った後、私は手帳を開いた。
今夜、丹波さんから連絡があった、と書いた。そして、会いに行く場所と時間を書いた。
それから、もう一行書いた。
「丹波さんを、私は信じている。あの人だけは、最初から誠実だった」と。
この一行を書きながら、自分がそう書きたいのか、そう書かなければならないのか、区別がつかなかった。だが、書いた。書いたことは、事実だ。
手帳を閉じた。
外は暗かった。時計を見ると、出発まで二時間あった。
昼間、汐見銀座商店街の上にアドバルーンが浮かんでいるのを見た。今日も、あれが出ていた。汐見銀座商店街に来るたびに、あれがある。気にも留めていなかった。
私はコートを着た。
取材ノートを、机の上に並べたままにした。ペンが一本、キャップを外したまま転がっていた。

これだけのものが、娘の部屋のぬいぐるみの中に入っている。
真理、見つけてくれ。
〈今夜、丹波さんから連絡があった。白石と柏木を繋ぐ決定的な証拠を持つ人物に引き合わせてくれるという。橋のたもとで、二十三時に——〉

終章 手記を閉じて
最後のファイルを読み終えた時、部屋の外がすでに明るくなっていた。
寅子は画面から目を離し、窓の外を見た。薄い光が、カーテンの端から差し込んでいた。何時間、読み続けていたのか、時計を確認する気になれなかった。体が重かった。椅子に座ったまま、背中が丸まっていた。
ノートパソコンの画面には、最後の一文が表示されていた。
〈今夜、丹波さんから連絡があった。白石と柏木を繋ぐ決定的な証拠を持つ人物に引き合わせてくれるという。橋のたもとで、二十三時に——〉
寅子は、その一文を、もう一度読んだ。
橋のたもとで。
真理から最初に話を聞いた日のことを思い出した。「父はあの晩、誰かに会いに行く途中だと言っていた」と、真理は言っていた。汐見橋のたもとで転落した。事故として処理された。
この手記の中で、丹波という名前は何度も出てきた。白石の更生を信じる教誨師。善意の人物として、正の取材に応じ続けた人間。正が最後まで信頼した人間。
その丹波が、橋のたもとに正を呼び出した。
寅子はしばらく、その事実を、頭の中で静かに転がした。
断定するには、まだ早いかもしれない。だが、手記を読み通してきた時間の中で積み上がったものが、今、一つの形を取ろうとしていた。
丹波への違和感は、最初から消えなかった。
ひかりの庭への参加。龍崎の死を悲しみながら、その死の真相を問わない態度。「白石さんは、人を傷つけるような人ではありません」という言葉の、揺るぎない確信。
そしてもう一つ。
正がどれだけ追い詰められ、情報源が次々と沈黙していく中でも、丹波だけは毎回来てくれた。正はその事実を、信頼の根拠として受け取った。だが寅子には、別の読み方ができた。
近くにいれば、見える。
調査がどこまで来ているか。正がどこまで気づいているか。
毎回来てくれた理由が、信頼ではなく、観察だったとすれば。
その問いに、今は答えが出ない。それでも、この問いを手放すことはできなかった。
寅子は手のひらを膝の上に置いた。手のひらが、少し冷たかった。
祖父が死んだのは、十二歳の春だった。
式典の場で、一人の女性が久兵衛を刺した。その女性を動かしたのが白石だということを、寅子はその後、少しずつ知っていった。だが証拠は何もなかった。白石の名前は、どこにも残らなかった。
八年経って、同じ男の話を、別の人間の記録の中で読んだ。
手記の中で、白石輝道という名前が出るたびに、寅子は気づかないうちに息を止めていた。
八年間、その名前は寅子の中でずっと、音のない場所に置かれていた。証拠がないから口にできない。誰かに話しても、伝わらない。だから、しまっておいた。しまっておくうちに、その名前は、重さだけが残って、形が見えなくなっていた。
それが、正の手記の中で、何度も、何度も、出てきた。
別の人間が、別の場所で、同じ名前に行き当たっていた。それだけのことだった。だが、画面の中でその名前を見るたびに、八年間しまっておいたものが、少しずつ、縁の方からほどけてくるような感覚があった。
宮武正という記者は、祖父が追っていたのと同じ男を、別の時代に追いかけていた。そして同じように、汐見橋の上で死んだ。
この繰り返しが、寅子の胸の中で、静かに重なった。
泣きたい、という感覚とは違った。もっと奥の方で、何かが固まっていくような感覚だった。
久兵衛が死んだ日のことを、寅子は今でも細部まで覚えている。
式典の会場は、春の光が入りすぎるほど明るかった。大人たちが走り、誰かが叫んだ。寅子は何が起きたのか分からないまま、人の間をすり抜けて祖父のそばに行こうとした。止められた。「来てはいけない」と誰かに言われた。その声が誰のものだったか、今でも思い出せない。
祖父の名前を呼んだかどうかも、覚えていない。
覚えているのは、会場の外に連れ出された後の空の色だった。四月の、薄い青だった。何も起きていないような、静かすぎる空だった。
あの空の色と、今、画面に映っている最後の一文が、どこかで繋がった。
橋のたもとで、二十三時に——。
正もあの夜、どこかで空を見たかもしれない。久兵衛も、あの日、空を見ようとしたかもしれない。同じ男が、二人を同じ方向に向かわせた。
手記の中で、寅子が最も長く留まった場面が、二つあった。
一つは、正が出発前に取材ノートを机の上に並べたままにした、という場面だった。
久兵衛も、同じような手帳を持っていた。古くなるまで使い続けた手帳を。寅子は幼い頃、その手帳の表紙が擦り切れているのを、何度か見た覚えがあった。
その記憶が浮かんだ時、寅子は画面を見たまま、少し動けなかった。胸の奥で、何かが詰まるような感覚があった。涙ではなかった。それよりもっと静かな、奥にある何かだった。
まったく知らない記者と、自分の祖父が、同じものを持ちながら、同じ男を追い、同じ男によって命を奪われた。
もう一つは、USBを仕込む場面だった。
「隣の部屋で眠っている娘だった」という一文が、そこにあった。
正は、記録を届けたい相手として、読者や編集者ではなく、真理を思い浮かべた。娘の寝息を確認してから、娘のぬいぐるみを手に取り、その中に自分の全部を隠した。
その一文を読んだ時、寅子は真理のことを考えた。この手記が真理の手に届くまでの時間を考えた。父が死んで一年、真理が書斎を片付けて、ぬいぐるみを抱きしめて、硬いものの感触に気づくまでの、あの一年を。
正は、その一年を知っていた。だからこそ、あの場所に隠した。
真理に連絡したのは、その朝だった。
「読み終わった。会えますか」とだけ送った。
すぐに返信が来た。「今日、どこでも」と。
待ち合わせた場所は、大学の中庭だった。真理と最初に会った、あの場所だ。
真理は、寅子が近づくのを見て、立ち上がった。顔色が悪かった。おそらく寅子と同じように、ほとんど眠れていないのだろう。
二人は、しばらく何も言わずに、ベンチに並んで座った。
午前の光が、木々の間から差し込んでいた。学生たちが、いつものように中庭を行き交っていた。その動きが、今の寅子には、少し遠いものとして見えた。
どちらも、何も言い出せなかった。
手記を読み終えた後の重さが、まだ体の中にあった。その重さを言葉にすることが、どちらにもできないでいた。
先に口を開いたのは、真理だった。
「最後の一文、読んだ」
「うん」
また、沈黙があった。
「お父さん、最後まで、丹波さんを信じてたんです」と、真理は言った。声が、少し揺れていた。「手記の中で、何度も会って、何度も話して。それでも、疑わなかった」
「正さんには、理由があった」と、寅子は言った。「他の証言者が全員黙っていく中で、丹波さんだけは会い続けてくれた。それは本当のことだったはずだから」
「だから、死んだ」
真理の声が、細くなった。
寅子は何も言わなかった。言える言葉が、なかった。
しばらくして、真理が顔を上げた。泣いていた。声は出さずに、ただ涙が伝っていた。
「ごめん」と、真理は言った。「泣くつもりじゃなかったんだけど」
「泣いていい」と、寅子は言った。
真理は、少しの間、泣いた。寅子は隣に座ったまま、中庭の光を見ていた。
やがて真理が、目を拭いた。
「お父さんは、ちゃんと残してくれた」と、寅子は言った。「全部を書いて、真理ちゃんが見つけられる場所に隠した。白石という男が何をしたか、柏木が何者か。全部」
「でも、証明できていない」
「そう。だから、私たちがやる」
真理が、寅子の方を向いた。
「一人でやるつもり?」
「寅子さんがいれば、一人じゃない」
中庭を出た後、寅子は少し立ち止まった。
空が晴れていた。午前の光が、建物の間から斜めに差していた。
寅子は、人差し指と親指で、小さな四角をつくった。

幼い頃、久兵衛に教わったおまじないだった。見たいものだけが、真ん中にくる。
四角を作った指先に、朝の光が当たった。冷たい空気の中で、指先だけが、少し温かかった。
何を切り取るべきか、まだ分からなかった。
白石輝道という男の輪郭か。宮武正が書ききれなかった続きか。
それとも——丹波誠一郎という名前か。
手記を通じて正が最後まで信じた人間。その信頼が、正を橋に連れていった。その人間が、今もどこかにいる。
四角の中に、何も見えなかった。
まだ、見えない。
ただ、一つだけ分かっていることがあった。
祖父は一人で追い、死んだ。正も一人で追い、死んだ。
その事実が、指先の温かさとともに、確かにそこにあった。
寅子は、ゆっくりと手を下ろした。
真理の背中が、少し先に見えた。
白石と柏木が率いる組織は、今日も動いている。
自分は一人ではない。
寅子は歩き始めた。
「誰かが書かなければ、なかったことになる」
正の⾔葉が、今、寅⼦の中にも根を下ろしていた。祖父から⾃分へ。
正から真理へ。⾔葉は、⼈から⼈へ、静かに引き継がれていく。
寅⼦は、もう⼀度、四⾓の中を覗いた。
まだ何も⾒えない。だが、⾒ようとする⼈間が、⼆⼈になっていた。
続く。
【近日公開予定】続編『インビジブルフレーム:The Frame Is Set』 予告編
――「誰も命じていない。誰の手も汚れていない」
姿なきソシオパス・白石輝道。 法の網をすり抜けた男の悪意は、個人から組織へ、そしてついに「都市」そのものへと増殖していく。 市民の「普通」を静かに書き換えていく、見えない支配。
父の遺した手記を手に、白石の影を追う真理と寅子。 しかし、隠された真実へと迫る彼女たちを待っていたのは、信じていた世界が根底から覆るほどの「絶望」だった。
――聞こえていたはずのあの歌が。 ――見えていたはずのあの空が。 日常の風景に溶け込んでいたすべてが、冷酷な【暗号】だったと気づく時。
「お父さんが書いていた通りだ」
証拠すらも握りつぶす巨大な権力の闇。 正義が届かない場所で、追い詰められた真理が踏み込もうとする「一線」とは――。
迫り来る見えない枠組み(インビジブルフレーム)。 冷たい夜風が吹く汐見橋の上で、寅子の叫びが響く。
「泣いている暇なんてないって、教わったでしょ!」
敵はあなたに銃を向けない。 ただ、あなたが何を「普通」と感じるかを変えるだけだ。
――自分の「普通」を疑え。以前は、違っていなかったか?
続編『インビジブルフレーム:The Frame Is Set』予告動画はこちらから
🐯寅子から、最後まで読んでくださったあなたへ
最後まで読んでくださって、ありがとうございます!
……読み終わって、どうでしたか?
私ね、この手記を最初に読んだ夜、朝まで眠れませんでした。
白石輝道。
この名前、覚えておいてください。
誰にも命じていない。手も汚れていない。
なのに、人が死んでいく。
祖父も、宮武正さんも、同じものを追いかけて死にました。
それを知った時、悲しいより先に、怒りが来ました。
許せない、って。
法律で裁けないなら、裁けるようにする。
証拠がないなら、証拠をみつける。
それが私にできることだと思っています。
まだ二十歳の大学生が何を言ってるの、って思うかもしれません。
でも、祖父も正さんも、最初はただ「おかしい」と思っただけだったはずです。
私も、そこから始めます。
人差し指と親指で、小さな四角を作ってみてください。
その中に、まだ何も見えなくていいんです。
見えかけているものを、一緒に追いかけてください。
真理ちゃんと私は、もう歩き始めています。
白石輝道の名前を、法廷の場に出すまで、この四角を下ろしません。
また絶対読みに来てくださいね!待ってますよ!
🔍 源 寅子🐯✌️
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