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魔都上海、幻の競馬史。(関連本の感想メモと、ラジオ📻コンテンツ)

先週、かつての上海競馬に関して書かれた本を読みました、という記事を書きました。


以下、本を読んでの「感想メモ」と、著者の張寧さん(台湾の中央研究院近代史研究所に所属する研究者)の「対談記事」をソースとして作成したラジオコンテンツ(AI音声コンテンツ)となります。

ソース(AIに読んでもらう素材)が多すぎたのか、17分強と長めの音声コンテンツになってしまいましたが、上海競馬の興亡の経緯に興味のある方いらしたら、聴いてみてください。

また、AIは漢字の読み方に頼りないところがあり、相変わらずケアレスミスが多く、いきなり「半ば」を「はんば」と読んだりして、おっとと、、とな
りますが、ご容赦を😅



ソースは、これらのものを使いました。

①「异国事物的转译 近代上海的跑马,跑狗和回力球赛(異国事物の転訳、近代上海の競馬とドッグレースとハイアライ)」の読書感想メモ。

・イギリスの19世紀は激動の時代で、イギリス競馬は変化の真っ只中だった。なので、イギリス人が上海で競馬文化を根付かせようとしても、そもそもイギリスですでに成熟した文化を移植しようとしたわけではなかった、というのはこの本を読み、気付かされた。
・イギリスにおいての変化の大きな要素は2つ。1つは、鉄道普及により、地方性がうすまり交流が増え、レース体系が整備されていったこと。
・また、労働者の収入増で、競馬に参与する人々の裾野が広がる一方、賭博の面が強くなり、貴族がいっそう管理を強める方向に進んだ事。
・肝心の競馬の主役たる馬であるが、イギリスではサラブレッドによる競馬が行われたが、上海では馬は「モンゴル馬(体高150-160cmぐらい)」が主流だった。
・これは、輸送の問題で、サラブレッドの輸入は難しかった。モンゴル馬は見栄えは悪かった(小さいので、騎手とのバランスが、サラブレッドに比べると悪かったのだろう。)。しかし、タフでよく走った。
・上海競馬の運営面では、工部局のボードメンバー選出にも繋がる、上海跑馬パオマー総会(上海レーシングクラブ)の幹部に名を連ねることは重みのあることだった。
・初代のSir Edmund Hornby(霍恩比爵士)は、イギリスでも上流階級出身という、中国に来たイギリス人の中で珍しい出自を持っていた。上海では1867年〜1870年、1873年と、二度、上海跑馬パオマー総会の首席を務めた。
・Hornby氏は、競馬を深く愛し、トレーナーとしても競馬に関わった。馬を過度にトレーニングさせず、彼が手がけた馬はよく走ったという。
・Hornby氏自身はしかし、競馬で勝ったことはなく、賭けたこともなかったが、関連の収支は、わずかに16英ポンド(現代の貨幣価値では100-200万円程度と見られる)の負けに過ぎなかった。これは本に書かれていないので想像だが、馬はよく訓練され、よく走ったということなので、優勝はしなかったが、上位入賞が多かったのかもしれない。
・6回、20年に渡り上海跑馬パオマー総会の首席を務めたMcLeod氏は、スコットランド出身。総会の職務は兼任ではあったが、競馬を愛し、実績としても、1888年にパリミュチュアル方式を導入して黒字化に導いた。
・財務体質の改善により、1891年には美景园(Belle Vue)が上海跑馬パオマー総会の不動産の一部になり、レースを控えた馬の移動がスムーズになり、また観戦スペースが広がった。また、トータライザー導入により、2台使用で20頭まで同時にレースに出られるようになり、賭博としての面白さが増した事でファンの興味を向上させ、結果として賭け金も増えた。

②「狂骉年代:西洋赛马在中国(激動の時代・中国における西洋競馬)」の読書感想メモ。

・前作(「异国事物的转译」)より読みやすかった。
・本の前書きによると、張寧さんも自分は学者なので証拠なしに書けないので、どうしても割愛が多くなるのだが、この本はけっこう細かいことも書けたそう。どうぞコーヒーなど飲みながら、ゆっくりお読みください、とのこと。
・基本は前作と重複多い。
・ただ、前作でやや冗長に感じた上海跑馬パオマー総会(上海レーシングクラブ)の成り立ち、歴代の主席を務めたイギリス人幹部の経歴や実績の紹介、会員選出方法の詳細などは省かれている。
・特に二章以降、前作では割愛したと思われる新出の内容多く、面白い。
・第二の競馬場である江湾ジアンワン競馬場の成り立ちは、想像よりもしっかりしていた。イギリス帰りの中国人・叶子衡イエズ・ヘン、経験豊かなダラス一家の関わりなど。
・三章は主に三つ目の競馬場である遠東ユエンドン公共運動場の話で、発起人は上海の暗黒街の顔役(中国語で青帮=チンバン)の杜月笙ドゥ・ユエシェンだった。この競馬場は、1926年に初開催を行なった。
・暗黒街の顔役ということで競馬運営を利用して金儲けなどたくらんだのではと勘ぐりたくなるが、杜月笙ドゥ・ユエシェンを中心とした主催者たちによる競馬運営はまっとうに行われ、また、中国の自然災害救済・慈善事業に競馬を活用する(1931年)など、社会貢献にも積極的だった。
・1926年12月4日には、「金尊赛(ジンズンサイ)」を実施。優勝賞金1.5万元が注目を集めた。このレースは、距離1.25英マイル(約2012メートル)で、イギリスのアスコットゴールドカップを見本とした。優勝カップは二年連続で優勝しないと所有できない規則で、1937年に抗日戦争の影響で競馬開催ができなくなるまで、二年連続優勝の馬主は現れなかった。
・1934年の開催日数は、3つの競馬場を合わせると76日にも達した。7月と8月を除くと、毎週少なくとも1日以上の開催があったことになる。
・1922年秋シーズンからは詳しい報道も始まり、記者による「予測」の提供も始まったという。レースにおける最後の追い込みの秒数まで書かれていたという。また、レースが終わると新聞が場内に落ち葉のように舞った、というのは現代の競馬に通じるものがあると感じた。もっとも、最近は日本ではマナーの向上により新聞が競馬場に落ちていることはほとんどないが。
・「香槟票シアンビンピャオ(シャンペン投票券)」について、前作でも紹介はあったが、本作では、より詳しく書かれていた。
・総会の発行枚数は最多時には8~9万枚に達した。第二、第三の競馬場も同様の券種を発売したが、規模ははるかに小さく、1〜2万枚に留まった。一等賞を当てた人のいろいろなエピソードは大衆の興味を引き、新聞記事でよく取り上げられた。
・ちなみに、一等賞の「22.4万元」は、現在の貨幣価値では1億〜1.3億円相当とのこと。
・しかし、国家主導の宝くじ(正式名称は「国民政府航空公路建設奨券」、略して「航券」)が発売され人気を博すと、「香槟票(シャンペン投票券)」の売れ行きは鈍っていった。なお、国家主導の宝くじには、下二桁70元、下一桁20元の当たりもあり、現在の日本の宝くじによく似ている。
・第5章で、女性の競馬参加について書かれている。女性が、競馬場で最新のファッションなどを披露し、"見られる対象"から、女性たちが馬主として"参加していく"変遷について書かれている。
・その中で、「淑女银袋赛(レディース・パース)」の副賞が凝っていて素敵だなと思った。
・1878年の上海で開かれた春の競馬大会において、銀賞として与えられた「銀の帯」 は、馬の「くつわ」に似た形の台座の上に置かれたが、その台座は、各厩舎の色を使ったカラフルなリボンで装飾され、傷つかないよう、ガラスの保護ケースで守られていた。実物の資料はないのだろう、本に写真は掲載されていなかったのが残念。
・19世紀は、イギリス人主体で競馬が行われ、「古き良き時代の租界」とイギリス人は振り返ったという。しかし、20世紀に入ってからは、イギリス人以外の人種が増え、意義が薄れていったという。
・女性の活躍が目立った「上海ペーパーハントクラブの話」の紹介にもページが割かれ、興味深かった。
・競馬一家に育ったMiss Billie Couttsの生涯が紹介されている。彼女は、1922年、18歳でペーパーハントの騎手となった。
・ペーパーハントとは、本国イギリスで行う狐狩りを、上海の環境では狐狩りはできないので、あらかじめ決められたルート上に紙片を撒き、紙片の指示(小川を渡る、隊列で進む、など)に従いながら、ゴールを目指す、という形に変化させたもの。Miss Billie Couttsのペーパーハントの実力は男性にも認められ、1926年春開催第3レースでは、ルート決定も任されたほどだった。
・また、上海跑馬パオマー総会が女性が馬主になることを認めた1920年には、早速ユダヤ人女性馬主のMimi(Mrs.Ellis Hayim)がコメディキングという黒い馬で勝ち取ったという。
・第6章の、上海競馬の終焉、つまり、競馬場が、現在の人民広場に変わる経緯を綴った部分も面白かった。
・復活の気配もあったようだが、最終的には競馬場は「植民地支配の象徴」ということで、廃用となった。
・復活させるかどうか議論が紛糾する中で、上海市政府や上海跑馬パオマー総会が、「競馬はほとんど賭博じゃない。限りなく娯楽に近い」と主張したというが、無理のある主張と感じた。
・競馬ファンとして、そして今上海に生活している身としては、上海で競馬が続いていればよかったなと思うが、植民地時代の上海市民の気持ちを想像すると、競馬廃止は止むなし、という感想を持った。

③播客|跑马厅的兴亡:马会政治、上海青帮与近代体育赌博狂潮(忽左忽右Leftright・2024年10月22日の放送)
※著者・張寧さん出演の対談/【競馬場の興亡:競馬会の政治、上海青帮、近代スポーツと賭博の熱狂】。以下は、対談の一部。

本期介绍
源自英国的近代赛马运动,在帝国殖民与扩张的航程中,于世界各地开枝散叶,并在各文化的土壤中“转译”、兴衰。赛马不仅是速度与激情的碰撞,更是文化交融与冲突的缩影。在上海,赛马运动如何从一项外来事物,逐渐融入市民生活,成为老上海记忆中不可或缺的一部分?在浜水相隔的跑马厅看台之后,华人境遇怎样?叶子衡、杜月笙、张啸林,叱咤风云的上海滩华人名流如何与赛马结下不解之缘?“马照跑,舞照跳”,跑马厅如何从帝国主义的象征,转变为人民的广场?旧世纪的喧哗与骚动,回声在尘土飞扬的赛马场。欢迎收听本期嘉宾《狂骉年代》作者张宁老师带来的精彩讲述!

白相人与马:青帮以中国赛马会爬升阶级

张宁
中国赛马会的重要性在于,赛马文化逐步从外国人传到中国人的上层,像叶子衡一样,再往下传到了中产新兴阶级。但是我所谓的“失控”是因为赛马本身是有很强的阶级性,特别是赛马俱乐部里面,就像上海跑马总会跟万国体育会,它都是赛马俱乐部成为这个俱乐部的会员,你必须是马主,而且要有一定的身份跟地位。可是中国赛马会里面的成员有很多都是青帮。

以前我们就知道杜月笙和张啸林是中国赛马会的董事,那时候大家的第一个反应说,那他们是不是从中作弊,趁机赚赛马的钱?没有,他们没有作弊,他们也没有要赚赛马的钱,他们当马主其实是赔钱,因为养一匹马,就像我前面说的,其实要花很多的钱。而你要赢奖金也不是那么的容易,他们相反的,他们在中国赛马会里是规规矩矩的,遵照一切的制度,他们也给自己的马房取一个英文名字,给自己选了骑士应该要穿的衣服的颜色,所有东西都照规矩来。但是我所谓的失控指的是,他们再怎么样,他们还是白相人。就算杜月笙后来能够可以跟国民政府来来往往,如何受到蒋介石器重,或者如何成为什么银行的董事长,是法租界汽车公司的,调解各式各样的纠纷,但是说到底他们是白相人。他们不是正经的生意人。

有些人会说,诶,搞不好他后来当了这么多的董事长跟总经理,以后大家可能就觉得他已经漂白了,其实不是,他是必要的时候采取各种手段去获得他要的东西,这个东西是不会变的,他跟他手下的人都是这个样子。他在某种程度上打破了赛马会的内在的阶级。从英国人的角度,如果英国人能够控制的话,他们是绝对不想发生这种事情的。当事情是转变成这样子的时候,三个赛马会聚会的时候,也只能笑嘻嘻地跟杜月笙和张啸林,还有其他手下的一群人,大家都混在一起。可是中国赛马会本身的出现,以及它确立了位置,加上它又有一个金尊奖大赛,让整个赛马文化朝向一个没有预料的方向转变。

程衍樑
前面你说到有一点特别有意思,哪怕像杜月笙、黄金荣、张啸林这样的人,他们在赛马运动当中表现出来的还是非常规矩的,并没有大家想象中的那样,虽然赛马有非常强的这种下注赌博的要素,这些青帮的大亨们并没有通过这件事去为自己进行牟利。他们似乎是把赛马当成一个对外公关的这样的一个工具,所以做戏要做足,这个可能有利于他们的阶级攀升。

张宁
也是,而且杜月笙跟张啸林还有黄金荣,他们其实都是法租界出来的,黄金荣你知道他是法租界的华捕嘛,也就是探长,张啸林跟杜月笙他们也都是在城隍庙附近,靠法租界那里的,所以他们发迹是发在法租界,鸦片走私等等也都是在法租界。杜月笙跟张啸林都希望在公共租界能够被承认,那赛马会是一个很好的地方,你如果靠你自己的能力,靠你自己的马赢得了赛事,大家都会给你鼓掌。那你如果是偷鸡摸狗,或者给马下药,要自己的骑士比赛的时候踢对方的马,这样子的话没有人会把你看在眼里。

「一步之遥」原型:赌马失利引发杀人案

程衍樑
我看了您的新书才发现,原来有一个案件在上海滩20年代非常有名,阎瑞生杀人案。这个故事前几年被姜文改编成电影《一步之遥》,整个事件的导火索是阎瑞生赌马票失利,血本无归输了钱,所以他才去谋杀王莲英。

张宁
这个东西其实很值得写,因为事实上,阎瑞生应该有一个很好的家庭背景,可是因为他出了这个事,家人都不肯出面,所以我查不出他的父亲母亲是谁。我看过一则资料,说他是一个好家庭出身的人,震旦大学毕业,法语说得好,而且还是一个天主教徒,在洋行工作。他也很爱玩,流连花丛,或者各式各样的好玩的东西他都去玩。可是到最后(居然)会被逼成到这个样子,出此下策。我猜想他开始的时候也并不想要杀掉王莲英,而只是想要她身上的珠宝,可是三弄两不弄,最后变成了一个命案。

程衍樑
他们赌马的场地是不是就在江湾体育场?

张宁
对,他在江湾跑马场赌的,他应该是买了非常多的马票,不然600块要在一天之内买完,还不是一件容易的事情,因为一张马票5块钱,你想他要下多少次注?

程衍樑
而且那600块钱也是他向他相好的另一位娼妓,应该叫题红馆借来的。

张宁
对,他向题红馆借了钻戒,拿钻戒去当铺当了600块。拿了这600块到江湾跑马场,想要以小博大,他要是赢了,就可以把先前的债务都给偿掉,没想到600块血本无归,这下好了,手上没有了600块,没有办法去赎钻戒。题红馆就一直跟他说,你不是说借一天就好吗?家里的“妈妈”回头发现了会要找我麻烦的。就一直催他,他没有了办法,就只好出此下策。

程衍樑
确实是一个民国奇案,而且这个案件应该是当时就被改编成了像海派京剧,还有当时最早期的中国电影都拍过这个故事。

张宁
对,它是最早被改编成话剧,改编成电影,是中国第一部剧情长片。

不疾不徐:人民政府对跑马厅和洋行的处理政策

程衍樑
到了1949年5月份以后,上海再一次迎来了全面的接管,解放军渡江,接管了整个上海。这就拉出来一个问题,我们好像看到并不是在49年就直接把跑马场整个征收回去了,是到了50年代初才算是把它变成了一个公共用地。在49年上海的权力交接中,当时跑马场或者上海赛马会的这群人,他们的去留命运是什么样的?

张宁
很多上海的外商保持了一些希望,觉得这又是一个改朝换代而已,我们只要能够好好的跟新政权沟通,过去的事情还是会一样继续发生,过去怎么做,咱们就现在怎么做这样。可是渐渐他们发现,事情好像不像他们想的那样,新政权跟国民政府是完全不一样的,它有非常清楚的理念,有实施的方法,它的目标是确定的,不是摇来摇去,会因为现实某些需要而改变。等他们逐渐发现这些的时候,就到了1950年左右,他们逐渐理解了是不可能回去的。人民政府非常小心地处理洋行的问题,同时也处理跑马厅的问题,他们采取的是一种不疾不徐的方式,我不急,我们慢慢来,最后急的人是你。

首先这些洋行的工厂还有跑马厅是不准开除人的,工人工资要继续发。工厂也不能关门,工资要继续发,它生产的东西卖不出去,所以没有收入。对跑马厅来讲,没有赛马,上海的外国人社群也逐渐离开,它也没有收入,同时还要付几百个工人的薪水。再加上人民政府征税,要付土地税、营业税,还要付胜利债券。这些你都要做,那这样他们就开始受不了了,对于洋行来讲,他们就逐渐把骨干的人抽走,只留下一两个比较不重要的人。到后来他们就觉得这样下去不是办法,特别跑马厅是分成两个业主,外面的跑道是上海跑马总会,中间一块大的绿地是上海运动事业基金会,上海运动事业基金会在1950年就先投降了,他就主动写信给陈毅市长说,他愿意用捐献的方式把地产移交给人民政府,让上海市民可以运动,可以做体育,这时候跟人民政府联络的凯瑟克,是上海怡和洋行大班,也是运动事业基金会的最后一任主席。

凯瑟克这个人很好玩,他是1906年出生,会讲上海话,还会讲苏州话,他祖父就在上海,他的祖父还有他的一个叔祖,还有他的爸爸,他的哥哥,都是怡和洋行的大班,同时也是工部局的总董,运动事业基金会的主席,所以他是上海租界外人社群里一个非常重要的家庭。到了1950年代,他逐渐明白这个情况没有办法再继续下去,与其在这边拖,不如就把地捐给政府,也许可以唤起新政府对外侨的一些善意。他跟外事处联络的时候讲了一句话,说当时候我们买进来这块地的时候很便宜,现在是应该还给中国的时候了。

我写到这个地方的时候,一方面觉得很解气,人民政府用一种兵不血刃的方式把外国人给赶走了。另外一方面我其实也有点感动,这代表外国人在华势力真正的结束,而且当时的人已经知道这是一个时代结束了,不会再回来了。

程衍樑
是,尤其这个凯瑟克家族,他在香港至今仍然是一个非常重要的家族,当年是威廉·渣甸的后代,大家如果去看香港的历史,没有他们的祖先,可能就没有后来香港成为殖民地这一段历史。这个家族在上海的这段经历,包括您刚提到了他们应该是三代人从1865年就在上海,他本人也是在上海出生的,其实就是一个上海人,只不过他是一个外国人的血统。从这个角度来讲的话,确实在那之后,上海跑马的故事就告一段落了。

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