見出し画像

バタフライ効果。運命の数秒|世界は偶然でできている

ブラジルの地で一匹の蝶が羽ばたき、そのわずかな空気の震えが巡り巡って、遠く離れたテキサスの地に竜巻を巻き起こす。

エドワード・ローレンツ

気象学者エドワード・ローレンツが提唱した「バタフライ効果」という概念は、今やカオス理論の枠を超え、歴史の深層を読み解く不可欠なキーワードとなった。

初期条件における極めて微細な差異が、時間の経過とともに増幅され、やがて予測不能なほど巨大な結果をもたらす。

私たちの歩んできた文明は、一見すると必然の積み重ねのように思えるが、その実体は、誰にも制御できない偶然という名の糸で織り上げられた危うい構造体である。

もしあの時、あの場所で、あのわずかな出来事が起きなければ、現代の地図や私たちの生活は全く別の姿をしていたに違いない。歴史の歯車を音もなく狂わせた、知られざる「蝶の羽ばたき」の正体に迫る。



▼ひゃくえむ。新装版

100mだけ誰よりも速ければ、どんな問題も解決する── ◇『チ。-地球の運動について-』の魚豊、“全力疾走”の連載デビュー作!! 「100m走」に魅せられた人間たちの、狂気と情熱の青春譚!!

▼MICRO LIFE 図鑑 美しきミクロの世界

▼【完全メシ】日清食品 キーマカレーメシ

Amazon広告を含みます。


【1】運命を分けた「曲がり角」:第一次世界大戦の勃発

サラエボ駅に到着したフランツ・フェルディナントとゾフィー

 1914年6月28日。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナントとその妻ソフィーは、併合されたばかりのボスニアの州都サラエボを訪れていた。

沿道には大勢の市民が詰めかけ、祝祭のムードに包まれていた。しかし、その華やかさの裏側には、セルビア系民族主義組織「黒手組」による暗殺計画が潜んでいた。

午前10時すぎ、車列に向かって爆弾が投げ込まれた。しかし、爆弾は後続の車を破壊するにとどまり、皇太子夫妻は奇跡的に難を逃れた。

本来であれば、ここで視察を切り上げ、直ちに安全な場所へ避難すべきであった。しかし、皇太子は爆発で負傷した随行員を見舞うため、病院への訪問を強く希望した。

この人道的な決断が、最悪のバタフライ効果を生むことになる。予定のルートは急遽変更された。

しかし、その情報が先導車や皇太子の運転手であるレオポルド・ロイカに正確に伝わっていなかった。ロイカは本来の予定通り、フランツ・ヨゼフ通りへと右折してしまった。同乗していた州知事のポティオレクが間違いを指摘し、ロイカは慌ててブレーキを踏んだ。

車が停車したのは、ラテン橋のたもとにあったシラーのデリカテッセンの前であった。そこには、暗殺計画に失敗し、自暴自棄になってサンドイッチを食べていた実行犯のひとり、ガヴリロ・プリンツィプが立ち尽くしていた。

サラエボ事件を描いた新聞挿絵

目の前に、標的である皇太子が予期せぬ形で現れたのである。プリンツィプは躊躇することなく拳銃を抜き、放たれた銃弾は皇太子夫妻の命を奪った。

フランツ・フェルディナントとゾフィーの暗殺を報じる『ニューヨーク・タイムズ』

このわずか数メートルの道間違い、そして数秒の停車。その些細な重なりが、同盟関係にあった欧州諸国を巻き込む巨大な戦火、第一次世界大戦を引き起こした。

左上から時計回りに、西部戦線の戦場、英軍の戦車、ガリポリの戦いで沈む英軍の戦艦、ソンムの戦いでガスマスクを着けて戦う英軍兵士、独軍の戦闘機

4年に及ぶ戦いにより、4つの帝国が崩壊し、1000万を超える兵士の命が消えた。もし、あの曲がり角を間違えなければ、20世紀の歴史は全く異なる軌跡を描いていたであろう。


【2】鍵ひとつが沈めた巨船:タイタニック号の悲劇

デビッド・ブレアは、タイタニック号の二等航海士で、処女航海前にその役職から「降格」させられた人物である。

 1912年4月。不沈艦と謳われたタイタニック号の処女航海において、双眼鏡という基本的な装備が欠如していた事実はあまりにも皮肉である。

出航の直前、人事異動により二等航海士のデイビッド・ブレアが急遽船を降りることになった。彼は混乱の中で、双眼鏡が保管されたロッカーの鍵を私服のポケットに入れたまま、下船してしまったのである。

後任の航海士はロッカーを開けることができず、氷山を監視する見張り員たちは、北北大西洋の漆黒の海を裸眼で凝視するしかなかった。月明かりもなく、波も穏やかで白波が立たない。氷山を視認するのは至難の業であった。

「沈没するタイタニック」Willy Stöwer 画

もし、あの鍵が船に残り、双眼鏡が使えていれば、氷山は少なくとも数秒早く発見されていたはずだ。巨大な船体を回避させるために必要な、わずかな時間の猶予。

ポケットの中の鍵という、日常の些細な忘却が、1500人以上の命を深海へと沈める決定打となった。


【3】天空の雲が変えた標的:長崎と小倉の運命

ファットマンのモックアップ

 1945年8月9日。原子爆弾「ファットマン」を搭載した爆撃機ボックスカーが目指した第一目標は、長崎ではなかった。福岡県の小倉である。

当時、小倉には巨大な兵器工場があり、米軍はここを最優先の攻撃対象としていた。しかし、小倉上空に到達した爆撃機を待ち受けていたのは、厚い雲と前日の八幡空襲による煙であった。

1945年8月6日と9日の原爆投下の飛行ルート

目視での投下を絶対条件としていた米軍は、三度にわたって投下を試みたが、地上の視界は確保できなかった。燃料計の針が刻々と下がり、対空砲火が激しさを増す中、機長は小倉を放棄し、第二目標である長崎への転進を決断した。

わずか数十キロ離れた場所で、空を覆った雲という気象の綾。その偶然が、一方は壊滅を免れ、もう一方は地獄と化すという、あまりにも残酷な運命の分かれ道となった。気象の気まぐれが、日本の戦後史を決定づけたのである。


【4】閉め忘れた窓から届いた救済:ペニシリンの発見

アレクサンダー・フレミング

 1928年。細菌学者アレクサンダー・フレミングは、ロンドンのセント・メアリー病院で休暇に入ろうとしていた。

彼は多忙のあまり、実験室の整理を忘れ、ブドウ球菌を培養していたシャーレをそのまま放置してしまった。さらに、換気のために開けていた窓も、閉めることなく研究室を後にした。休暇中、その開いた窓から偶然にもアオカビの胞子が舞い込んだ。

帰宅したフレミングが目にしたのは、アオカビの周囲だけブドウ球菌が死滅しているという、不可解な光景であった。

この「不注意」と「偶然」の重なりこそが、人類初の抗生物質ペニシリン発見の瞬間であった。

記念切手

もし彼が几帳面に窓を閉め、シャーレを片付けていれば、現代医学の革命は数十年遅れ、数億人の命が感染症によって失われていたかもしれない。


【5】誤読されたメモが壊した壁:ベルリンの壁崩壊

壁の前のブランデンブルク門(左:東側、右:西側、1961年)

 1989年11月9日。冷戦の象徴であったベルリンの壁は、政治的な決断ではなく、一人の男の「読み間違い」によって崩壊した。

ギュンター・シャボフスキー

東ドイツの政府広報官ギュンター・シャボウスキーは、生放送の記者会見で、旅行の自由化に関する閣議決定のメモを渡された。彼はその詳細な内容を事前に把握しておらず、記者の質問に対して焦りながら答えた。

「いつから発効するのか」という問いに対し、本来は「翌朝から」とすべきところを、彼はメモの末尾を読み飛ばし、「私の認識では……今すぐ、遅滞なくです」と断言してしまったのである。

この放送は瞬く間に広がり、数万人の市民が検問所に殺到した。現場の国境警備隊には何も知らされていなかったが、群衆の勢いに抗えず、ついにゲートを開放した。

一人の官僚が発した数秒の失言が、物理的な壁のみならず、世界を二分した冷戦体制そのものを瓦解させた。


【6】パーティーの憤怒が変えた掌の上:iPhone誕生の裏側

スティーブ・ジョブズ

 2000年代初頭。スティーブ・ジョブズはあるパーティーに出席していた。そこで彼は、マイクロソフトの幹部から、開発中のタブレットPCとスタイラス(ペン)がいかに優れているかを執拗に自慢された。

ジョブズはこの男の傲慢さと、ペンを使うという発想そのものに猛烈な不快感を覚えた。

翌日、出社した彼はチームに命じた。「スタイラスなどいらない。人間が生まれ持った最高の道具、指で操作するマルチタッチディスプレイを作れ」と。

出典:https://gigazine.net/news/20150922-apple-pencil-stylus-jobs-hated/

当初はタブレットの開発から始まったこのプロジェクトは、やがて携帯電話と融合し、iPhoneへと結実する。

一人の男との些細な口論、そこで抱いた意地と怒りが、物理キーボードを排したスマートフォンの形を決定づけた。

あの不快なパーティーがなければ、今私たちが手にしているデバイスの姿は、全く異なるものになっていたはずだ。


 バタフライ効果は気象予測の限界を示すものだが、現代のスーパーコンピュータを駆使しても、長期的な天候を完全に予測できないのはこの「初期値の鋭敏性」があるためである。

また、エンターテインメントの分野でも『バタフライ・エフェクト』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』といった作品が、この概念を軸に運命の不確実性を描き、多くの人々の想像力を刺激し続けている。

参考文献

• ジェイムズ・グリック『カオス―新しい科学をつくる』
• NHKスペシャル取材班『映像の世紀』
• ウォルター・アイザックソン『スティーブ・ジョブズ』
• アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦』

いいなと思ったら応援しよう!

Beyond Times (分野を超えて深掘りするメディア) Beyond Timesの執筆活動は、すべて自主運営によって行っています。執筆の継続には、多くの時間と労力を要します。もし本記事に価値を感じていただけましたら、ご支援を賜れますと幸いです。いただいた応援は、今後の制作活動の糧として大切に活用させていただきます。

この記事が参加している募集