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ワイマール死闘篇|民主主義が夢見た虹色の楽園(後編)

1929年10月、ニューヨーク・ウォール街で起きた株価暴落は、大西洋を越えて瞬く間にドイツを直撃した。

アメリカからの融資に依存していたワイマールの経済は、砂上の楼閣のごとく崩壊した。失業者は400万人、500万人と膨れ上がり、ベルリンの街頭には再び飢えと絶望が戻ってきた。

前編で描いた「黄金の二十年代」の享楽は、一夜にして罪深い放蕩であったかのように断罪され始める。

▽ワイマール死闘篇|民主主義が夢見た虹色の楽園(前編)



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奈落への秒読み

 かつてカバレットでシャンパンを空けていた人々は、今やスープキッチン(炊き出し)の列に並び、わずかなパンを求めて争った。この急激な没落は、人々の心理に深い爪痕を残した。

昨日までの自由な文化や享楽は、一夜にして国家を蝕む「罪深い放蕩」であったかのように断罪され始める。

経済の破綻は、社会の極端な分極化を招き、議会制民主主義の息根を止めた。中産階級は再び訪れた生活破綻への恐怖から、穏健な中央政党を見捨て、右と左の両極に救いを求めた。

バート・ハルツブルクで行われた右派「国家反対派」の集会。NSDAP党首アドルフ・ヒトラーが突撃隊の敬礼を受ける。(写真:ullstein bild/ullstein bild via Getty Images)

街頭では、ナチスの突撃隊と共産党の赤色戦線戦士同盟が、毎晩のように血みどろの衝突を繰り返した。政治はもはや議場ではなく、路上の暴力によって決する時代へと突入したのである。

警察はもはや治安を維持できず、民主主義の象徴であるはずの国会は、機能不全に陥った。各政党は互いを「売国奴」「裏切り者」と罵り合い、連立工作はことごとく失敗した。

1930年以降、ドイツは国会を無視して大統領が発する緊急令によって統治される「大統領内閣」という名の、事実上の独裁への助走期間に入った。

ヨーゼフ・ゲッベルス

この混乱の中、ナチスは天才的なプロパガンダによって、大衆の怒りを特定の対象へと誘導した。宣伝相となるヨーゼフ・ゲッベルスは、現在の困窮を「ベルリンの退廃」と結びつけた。

カバレットで歌い踊る人々、自立した女性、そして公然と活動する性的マイノリティ。これらすべてが、ドイツの純血と誇りを汚す「文化的なボリシェヴィズム(共産主義的破壊活動)」であり、背後で操るユダヤ的陰謀であると煽り立てたのである。

パンを求める大衆、特に都市の繁栄から取り残された地方の農民や保守層にとって、ナチスが掲げる「強固な秩序」と「ゲルマンの誇り」は、複雑で妥協を要する民主主義の議論よりも遥かに甘美で分かりやすい解決策に見えていた。


聖域の陥落と「退廃」の断罪

1933年1月30日のヒトラー内閣の閣僚。前列左からゲーリング無任所大臣、ヒトラー首相、パーペン副首相。後列左からクロージク財務大臣、フリック内務大臣、ブロンベルク国防大臣、フーゲンベルク経済・農業食糧大臣

 1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーが首相に任命される。それは暴力によるクーデターではなく、ワイマール憲法の枠組みの中で、議会の多数派工作と大統領の任命によって成立した、驚くほど合法的な政権交代であった。

権力を手中に収めたナチスが、その牙を真っ先に剥いたのは、ワイマール文化の最も進歩的な象徴であり、性的自由の砦であった「性科学研究所」であった。ナチスにとって、性の多様性を肯定する研究は、国家の土台である「健全な家庭」を破壊する最悪の害毒であった。

1933年5月6日、ナチス党によって組織されたドイツ学生協会の学生は、ベルリンの性科学研究所の前でデモを行う。

同年5月6日、ナチスに同調する学生連盟と突撃隊が、ベルリンのティアガルテンにあるマグヌス・ヒルシュフェルトの研究所を襲撃した。

彼らは数万冊に及ぶ貴重な学術書、性科学に関する症例記録、さらには世界中から集められた歴史的資料を略奪し、街頭へと放り出した。そこには、トランスジェンダーの人々が自らのアイデンティティを証明するために書き記した日記や、医学的な先駆的研究の成果が含まれていた。

かつてヒルシュフェルトが「科学を通じた正義」を説き、性的マイノリティが安息を得たその聖域は、野蛮な暴力によって徹底的に破壊された。

ベルリンのオペラ広場の「反ドイツ主義」本の焚書に集まる群衆。 1933年5月10日、ドイツ、ベルリン。 クレジット: Wide World Photo

数日後の1933年5月10日の夜、ベルリンのオペラ広場(現在のベーベル広場)で、歴史に残る大規模な「焚書」が行われた。

ヒルシュフェルトの著作、シグムント・フロイトの精神分析学、ハインリヒ・マンの小説、さらにはカール・マルクスの著作。ナチスが「非ドイツ的」と見なした英知の集積が、雨の降る夜空に燃え上がる巨大な炎の中に投じられた。

ゲッベルスは炎を前に「非ドイツ的な精神の終焉」を宣言し、学生たちは狂熱の中で歌を歌った。

この時、ヒルシュフェルトは国際会議での外遊中で難を逃れたが、自らの生涯をかけた研究が灰燼に帰すニュースをパリで聞き、絶望のうちにその二年後、亡命先のニースで世を去ることになる。

性的マイノリティに対する弾圧は、文化の破壊に留まらなかった。

ナチスは1935年、ワイマール時代には事実上死文化していた刑法第175条を大幅に改悪し、男性間の同性愛行為を「重大な犯罪」として定義し直した。

単なる視線や接触でさえも逮捕の対象となり、ゲシュタポは市民の密告を奨励した。

かつての「エルドラド」のような社交の場は閉鎖され、自由の聖地であったベルリンは、相互監視の恐怖が支配する沈黙の街へと変貌した。逮捕された数千人の同性愛者は、裁判もなく強制収容所へと送られた。

ナチスが使用したマーキングコード。

収容所内で彼らの胸に縫い付けられたのは、ユダヤ人の「黄色い星」よりもさらに低い階層と見なされた、屈辱の象徴「ピンクの三角形」であった。

彼らは過酷な強制労働に従事させられ、医学実験の対象となることも珍しくなかった。


自由の葬列、そしてレクイエム

 なぜ、これほどまでに脆く、人類史上最も進歩的だった民主主義は崩壊したのか。

ワイマール共和国の最期を看取った歴史家たちは、口を揃えて「民主主義を守るための意思の欠如」を指摘する。

ワイマール憲法はあまりに寛容であった。

自らを守るための武器を持たず、民主主義を根底から否定する勢力にさえ、平等に表現の自由と政治参加の権利を与えていた。ナチスはその隙を突き、議会政治というルールを利用して権力を掌握し、ひとたび権力を握るやいなや、そのルール自体を法的に抹殺したのである。

1933年3月23日、議場で全権委任法への賛成を要求するアドルフ・ヒトラー

1933年3月の「全権委任法」の成立は、その法的な死刑宣告であった。

独裁が完成すると、ワイマール時代に咲き誇った自由な精神は徹底的に排除された。バウハウスの建築家、表現主義の画家、ジャズ・ミュージシャン。

彼らの作品は「退廃芸術」としてさらし者にされ、あるいは焼却された。

ベルリンの知性を支えていた多くの知識人は、アメリカやイギリスへと亡命し、ドイツの文化的沃野は急速に砂漠化していった。残されたのは、鉄の規律を謳う軍歌と、異端者を排除し、自分たちこそが「選ばれた民」であると信じ込むことで得られる、歪んだ一体感だけであった。

この熱狂は、数年後、全ヨーロッパを焦土と化す第二次世界大戦、そしてホロコーストという人類史最悪の惨劇へと繋がっていくことになる。

しかし、ワイマールの14年間が残した種火は、完全に消えたわけではなかった。

ベルリン宣言は、第二次世界大戦末期の1945年6月5日に発表された、ドイツの敗北およびドイツにおける最高権力をアメリカ合衆国・ソビエト連邦・イギリス・フランスの政府が掌握するという連合国軍の宣言。 (左からモントゴメリー、アイゼンハワー、ジューコフ、ラトル・ド・タシニ。6月5日、ベルリンのケーペニック)

1945年の敗戦後、ドイツが再び民主主義国家として立ち上がる際、その基盤となったのはワイマール憲法が掲げた「個人の尊厳」という理念であった。

ヒルシュフェルトが命をかけて守ろうとした「性の多様性」という概念も、戦後半世紀以上の時を経て、ようやく現代のリベラルな社会において結実することとなった。

現代のベルリンに立ち並ぶ、かつての犠牲者を悼む「シュトルパーシュタイン」や、同性愛者追悼碑は、私たちが現在享受している自由が、決して天から降ってきたものではなく、多くの流血と敗北の末に、かろうじて守り抜かれたものであることを、今も静かに告げている。

民主主義とは、一度完成すれば永遠に機能する装置ではない。それは、絶え間ない対話と、他者への果てしない想像力、そして不寛容に対する「寛容の闘い」によってのみ維持される、危ういバランスの上に成り立つ。

ワイマール共和国の興亡は、単なる過去の物語ではない。分断が深まり、理性が感情的な扇動に飲み込まれようとする現代において、それは今なお、私たちへの痛烈な警告として響き続けている。

自由を守るためには、その自由がどれほど貴重で、かつ壊れやすいものであるかを知り続けなければならないのだ。

参考文献

ロバート・ビーチー著『ゲイ・ベルリン:現代の性の誕生』、エリック・D・ワイツ著『ワイマール・ドイツ:希望と悲劇』、デートレフ・ポイカート著『ワイマール共和国:古典的近代の危機』、ピーター・ゲイ著『ワイマール文化』、リチャード・J・エヴァンス著『第三帝国の到来』、マグヌス・ヒルシュフェルト性科学研究所 記録アーカイブ。

ヘッダー画像:ドイツ、ワイマール共和国、ベルリン。あらゆるデモが禁止されていたにもかかわらず、共産主義者のデモが解散した後に発生した暴動。1929年5月(写真:ullstein bild/ullstein bild via Getty Images)

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