お金は自己責任という重圧の正体
前回の「お金について考えたい」は…
お金の不安は、いつから自分の責任になったのだろう。
はっきりした記憶はない。ただ気がつけば、足りないと感じた瞬間に、反射のように自分を疑う癖が身についていた。計算が甘かったのか。判断を誤ったのか。努力が足りなかったのか。問いはいつも、外ではなく内に向かう。
不思議な話だ。
天気が悪い日は、空を見上げて文句を言うのに、お金が足りないときだけは、自分の性格を責める。誰に教えられたわけでもないのに、そう振る舞うのが当然だと思っている。その当然さこそが、少し怖い。
お金は、生きるための道具にすぎない。
空気や水と同じように、本来はあって当たり前のものだ。けれど現実には、その道具をうまく扱えない人は「能力が低い人」として見られる。
稼げないのは工夫が足りないからで、貯められないのは自制心が弱いからだ、という物語が、静かに共有されている。
この物語は、とても便利だ。
誰かが困っていても、社会全体の話をしなくて済む。
制度や仕組みを疑わなくて済む。本人の努力不足という言葉で、すべてが片づく。だからこの物語は、長く、深く、私たちの身体に染み込んでいくのだ。
気づかないうちに、私たちは二重に疲れている。
ひとつは、お金そのものが足りないことによる疲れ。
もうひとつは、足りない理由を自分の価値の問題だと受け止め続ける疲れだ。 後者は目に見えない分、厄介で、呼吸や姿勢にまで影響を及ぼす。
肩が上がり、首が固まり、眠りが浅くなる。
何も起きていないのに、身体だけが警戒を解かない。
それは怠けているからではない。常に「評価される側」に立たされているからだ。残高や収入が、そのまま自分の点数のように感じられる環境に、長く身を置いてきたからだ。
ここで、ひとつだけ確認しておきたい。
お金に困ることと、人としての価値は、まったく別の話だ。
この当たり前のことが、なぜか私たちの生活では、簡単に混ざってしまう。その混線こそが、不安を深くしている。
もし、不安の正体が「足りない数字」だけなら、増やせば終わる話だ。
でも実際はそうならない。
なぜなら、本当に削られているのは、安心して存在していいという感覚だからだ。その感覚は、通帳には載らないし、誰も保証してくれない。
だからこそ、お金の不安は、いつも静かで、重たい。
誰にも見えない場所で、長く居座る。けれど、それに名前を与えた瞬間、少しだけ距離が生まれる。これは私の失敗ではなく、こう感じるようにできた構造の問題だ、と。
この連載は、その距離をつくるためのものだ。解決するためではない。勝つためでもない。ただ、もう必要以上に自分を責めないために、言葉を置いていく。
深く沈んだ場所に、まだ言葉が届くのか。
次は、その問いから先へ進みたい。
