哲学を蘇らせるとはどういうことか?
「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。
御覧いただき、ありがとうございます。
木曜は本からインスパイアされた内容を投稿していきたいと思います。
今日はちょっと楽しみにしていた、こちらの本が届きましたので、こちらの本の話題としたいと思います。
以前、竹田青嗣先生の講義を聴いたものをまとめた記事を書きました。
実は記事にはしていませんが、苫野先生の講義も同じNHK文化センターで受けたことがありまして、この2人が師弟関係ということは知っていたのですが、一緒に話しているところを聴いたことがなかったので、とても楽しみにしていました。
それというのも、上の講座の後、竹田青嗣先生の本を何冊か買ったのですが、講義ではあんなにわかりやすいのに、どうして本は難解なの?と悩んでしまったことがありました。
今回の本は、対談ということですから、話し言葉ですので、わかりやすいだろうと期待を込めて手に取った次第です。
実際に読んでみると、この本が苫野先生の企画で、苫野先生が竹田先生に「中高生にも分かるように語ってください」というリクエストを何度もしているのが笑えます。どこまでも優しく愛を以て説明する竹田先生と、うっかりするとすぐに自分の仕事の宣伝を始めてしまう苫野先生のそれぞれの個性も楽しめる面白い一冊でした。
内容についてですが、第1章はいきなり「哲学は瀕死の状態である」から始まり、ポストモダン的相対主義と科学的実証主義がこの世界を覆ってしまったために、「どうすればよいのか」ということがわからなくなってしまった、と語られます。そしてそれを受けて第2章では哲学の思考のリレーが時代を追って解説されます。第3章では、では哲学的な思考方法をどのように現代社会に当てはめたら良いののかが語られ、第4章ではそれが具体的な言葉について語られます。第5章で将来のあるべき姿が模索され、第6章はまとめですが、苫野さんの活動として、現象学の本質観取を教育に取り入れるために、教科書を書いたりファシリテーターを育てたりしている、という話が語られます。光村図書の小中学校の道徳の教科書には既に本質観取の哲学対話が取り入れられているという話も出てきて、なるほど、苫野さんとしては、その背景にある竹田現象学の、それこそ「中高生でもわかる」解説書が欲しかったんだな、ということがわかります。
さて、この本の内容については、個人的には第2章をじっくり読みたいと思うのですが、ここで書きたいな、と思ったのは、「瀕死の哲学を再生させることの意味」ということですが、そもそもで言えば、「哲学」ってなーに?ということです。竹田先生はこの本で、下記のように説明しています。
哲学は、いろんな問題について、誰が考えてもそう答えるしかないよね、という答えを探す思考であって、そのような答えを「原理」というんです。この「誰が考えてもそうなる」答えの道を探して進むのが哲学の思考、これが哲学にとって一番大事な原則で、まず心にとめて欲しい点です。
私が個人的に大好きで、いつも引用している鷲田清一さんの『「聴く」ことの力 臨床哲学試論』で、鷲田さんは「哲学はこれまでしゃべりすぎてきた」と書いています。しゃべりすぎてきた結果、何が起こったか。あまりにもいろいろな人がいろいろなことを喋るものだから、「それはあなたの意見ですよね?」という相対主義に陥ってしまった。
苫野さんは竹田先生から受け取った重要な考え方が、「欲望ー関心相関性の原理」と「自由の相互承認の原理」だと言っています。ですので、竹田先生が言っている「誰が考えてもそうなる」は、「この考え方が唯一絶対に正しいのだ」という押し付けではなく、「いろいろな人がいろんな関心でいろんなことを言っているけど、ちゃんとお互いに話して意見交換すれば、誰が考えても確かにそうなるね」ということをおっしゃっていると私は解釈していて、これってとても対話主義的な考え方だと思っています。
そこで、最初の哲学として、本質観取のワークとか、そのファシリテーターという苫野さんの活動に対して好意的に思っているのだと思います。竹田先生は、苫野さんの本質観取教育について触れて、下記のように語っています。
本質観取は、いってみれば、他人の言葉、その意をよく聴き取る「よい耳」と、自分の感じたことを飾らずによい表現で語る「よい口」と、両方もっている必要がある。それって日常の人間関係の中で人が聡明であることの基本ですね。
「哲学とは何か?」と言われましても、と戸惑ってしまう人でも、「哲学がない、とはどういうことか?」と考えると、イメージが湧きやすいのではないかな、と思います。行き当たりばったりで八方美人、あるいは利己的なものですぐ動く人、というイメージは誰しも持つのではないでしょうか? また、「哲学のない会社」と言えば、儲かりそうなら何でも手を出して、本業がおろそかになってしまう会社をイメージできるのではないか、と思います。
逆に言うと、「哲学がある」というのは考え方に一貫性があるとか、一本筋が通っている、というような、そんな風なイメージができるのではないでしょうか?
では、その一貫性とか筋というのはどうやって生まれるかというと、それはもう、考え続けることしかないわけで、そのための他人との対話だったりします。
おふたりの先生は「瀕死の哲学」と言っていますが、どちらかというと、「既に死んでいる哲学」あるいは「死体の山となった哲学」と考えた方が良いのかもしれません。その心はアクティブではない、ということ。過去にこういう人が居て、こういうことを言っていた、という事実だけがあるわけで、それが実際に今、生きている人の思考に影響を与えていない状態。哲学が「偉い先生が言っている難しい話」になっている状態、とも言えるでしょう。
だからといって考えることを止めてしまっては、そこに対話も共鳴も、その先にある「自由の相互承認」もできなくなってしまう。
と、ここまで書いていて、この考えは昨日の先日の記事で取り上げました、「子どもに選択権を与えて自分の意思決定の結果から学びを得させるべき」という、ウィットモアの教育観とも近いものがあるな、と思いました。
私は個人的にVUCAとか、不確実な時代、という言い方があまり好きではないのですが、それは、かつて過去に予測可能な時代があったっけ?と思っているからなのですが、「哲学」によって「自分で考え、他人と理解し合える」人が増えることによって、相対主義の希望無き世界から、明るい未来を創造できる人類に生まれ変われるのではないかな、そんなことを思った一冊でした。
現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価いただけると嬉しいです。フォローも大歓迎です。
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