見出し画像

「哲学を持つ」ということ ー 哲学を持たないとは基準を引き受けないこと:「哲学する」のススメ その2

「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。

御覧いただき、ありがとうございます。

noteのできるだけ毎日更新を実践しています。現在の曜日ごとのテーマはこちら。水曜は「読書と思想の日/哲学するのススメ(短期連載)・哲学・思想書紹介・概念整理」のテーマとなります。

しばらくは、「哲学するのススメ(短期連載)」をお送りしています。今回の記事は第2弾です。ちなみにこの連載は「哲学するの解放」「哲学を持つということ」「哲学するの始め方」の三部作になっています。

前回の記事はこちら。



「哲学を持つ」ということ ー 哲学を持たないとは基準を引き受けないこと

政治家にしても会社の上司にしても、言っていることが頻繁に変わる人物に対して、私たちは違和感を覚えます。状況に応じて柔軟に立場を調整することと、相手によって主張を変えることは同じではありません。後者は、自らの基準を引き受けない態度だからです。しかし、この曖昧さは必ずしもすぐに問題化されるわけではありません。平時においては、衝突を避ける柔軟さとして評価されることもあり、権力構造の内部では調整能力として解釈されることさえあります。

問題が露呈するのは、危機的状況や価値観の対立が顕在化したときです。その場その場で立場を調整してきたからではありません。自らの判断基準を明確に引き受けることを避けてきたからです。

同じ構造は、ネット空間の後出し的な批判にも見られます。ある意思決定の結果が出た後に、「もっとこうすべきだった」「なぜ分からなかったのか」と評価すること自体が問題なのではありません。しかし、その思考の位置取りは決断の内部ではなく、結果が確定した後の安全な地点にあります。意思決定とは常に他の選択肢を捨てる行為であり、選ばなかった未来のリスクを引き受けることでもあります。そこには不確実性が伴う。後出しの立場は、そのリスクを負わない。ここにも、基準を持つことを避ける態度が現れています。ここではあえて、このような状態を「哲学を持たない」と呼びたいと思います。

ここで「責任」という言葉を整理しておきます。英語にはいわゆる責任にあたる語が少なくとも二つあります。ひとつは responsibility、応答可能性としての行動責任です。もうひとつが accountability、説明可能性としての責任です。私たちは日常的に多くの responsibility を果たしています。役割を引き受け、業務を遂行し、状況に応答している。しかし、accountability の水準は別の問題です。自らの判断がどの基準に基づいているのか、なぜその選択を引き受けるのか、その説明可能性を自覚しているかどうか。哲学を持たないとは、基準を持たないことではありません。基準を引き受けないことです。

基準を明示すれば、対立も生まれる。批判も受ける。立場を固定することは安全ではありません。曖昧さは平時には機能します。しかし決断を迫られる局面では、回避は支えにならない。

問題は個人にとどまりません。私たちの社会はしばしば responsibility を処理することで accountability を回避します。不祥事が起き、誰かが辞任し、謝罪会見が開かれる。一定の形式が満たされると事態は収束したように見える。しかしそこで問われているのは多くの場合「誰が責任を取るか」という行為の水準です。その意思決定はどのような基準に基づいていたのか、組織はどの前提に依拠していたのか、その判断原理は妥当だったのか。そこまで遡って説明可能性を引き受ける場面は必ずしも多くありません。形式的な責任処理が緊張を緩和し、出来事を終わらせる。しかし基準の再検討が行われなければ、構造は温存される。

思想史を振り返れば、人類は折に触れて自らの原理を明示化してきました。枢軸時代に、人間は世界を原理として語る位置を獲得し、思想と言葉によって世界を捉え直し得るという希望を持ちました。近代にその原理は制度として固定され、科学や国家や市場の枠組みの中で拡張されました。そして現在、その拡張の帰結の中で私たちは改めて基準を問われています。人類が成熟したからではありません。扱うべき条件が増えたからです。条件が増大する社会において、基準を引き受けないことはもはや安定ではありません。

哲学を持たないということを直視することは、基準の説明可能性を引き受けることへとつながります。そしてそれは第一弾で述べた「哲学する」に戻ります。「哲学する」とは状況への応答であり、「哲学を持つ」とはその応答を説明可能なものとして保持することです。思想史は偉大な体系の一覧ではありません。人類がその都度、自らの基準を言語化し、引き受けてきた痕跡です。その系譜に参加することは特別な資格を要しません。判断を引き受ける立場にいる限り、私たちはすでにその入口に立っています。


現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価いただけると嬉しいです。フォローもコメントも記事の引用・紹介も大歓迎です。

ご意見・ご感想・記事で取り扱って欲しい話題のリクエストも専用フォームより募集しております。


いいなと思ったら応援しよう!

市井カッパ よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!