「哲学する」の解放 ー 哲学をするのに、哲学を学ぶ必要はあるのか?:「哲学する」のススメ その1
「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。
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noteのできるだけ毎日更新を実践しています。現在の曜日ごとのテーマはこちら。水曜は「読書と思想の日/哲学するのススメ(短期連載)・哲学・思想書紹介・概念整理」のテーマとなります。
前回からしばらくは、「哲学するのススメ(短期連載)」をお送りしたいと思っています。
前回の記事はこちら。
今回の記事は「哲学するのススメ(短期連載)」の第1弾です。ちなみにこの連載は「哲学するの解放」「哲学を持つということ」「哲学するの始め方」の三部作になっています。
「哲学する」の解放 ー 哲学をするのに、哲学を学ぶ必要はあるのか?
哲学をするのに、哲学を学ぶ必要はあるのか。
この問いは、ある会話をきっかけに明確になりました。大学教員を務める知人が、哲学は難しい、英語で読んだほうが理解しやすいと語ったのです。日本語の哲学語彙は翻訳語として整備され、概念を精密化してきました。しかし同時に、思索の入口を語彙理解に置く構造を固定してしまった側面もある。その結果、「まず体系を学びなさい」という順序が当然視される。
この順序は、近代的な時間観と結びついています。世界は未熟から成熟へ、無知から理性へと直線的に進む。知は段階的に積み上がる。だから過去を順に踏破することが条件になる。
しかし、この物語自体が歴史的産物です。
思想史を振り返ると、いわゆる枢軸時代は人類史上の大きな飛躍でした。中国、インド、ギリシア、イスラエルなどで、超越的原理や普遍倫理、理性的探究が同時多発的に現れます。人間は自らの世界観を外側から眺め、言葉によって原理を定式化する位置を獲得しました。そこには強い希望がありました。思想と言葉によって世界を捉え直し得るという確信です。リベラルアーツがこの時代のテキストを読み続けるのも、その飛躍の強度と無関係ではないでしょう。
しかし、これは進歩の始まりではありません。人間が別の存在に変わったわけではない。扱いうる原理が増えたのです。
近代は、その原理を制度へと組み込みました。理性は科学や国家や市場の枠組みの中で外在化され、拡張されました。ここでも人類が変質したわけではありません。認識と操作の範囲が広がっただけです。そして現在、私たちはその拡張の結果の中に生きています。
地球規模の相互接続、技術的影響、制度の複雑化。考慮しなければならない条件は増え続けています。これは進歩の最終段階ではありません。人類が成熟したという話でもない。単に、扱うべきパラメータが増えたのです。
人間の本質は変わらない。しかし、前提を無自覚のまま適用できる状況ではなくなった。ここで「哲学する」という営みが意味を持ちます。
それは学問制度への参入ではありません。自らが依拠している前提を意識化し、その妥当性と限界を引き受けることです。
進歩史観の内部では、「まず学ぶ」が条件になります。しかし、条件の増大に直面したとき、人はすでに判断を迫られています。思索は、制度の許可を待たない。もしあなたが大人として生きているのなら、すでに「哲学する」局面に立っている。
ここで言う大人とは、年齢のことではありません。自らの判断が、自分だけでなく他者や社会に影響を持つ位置にいるという意味です。
私たちは日々、選択をしています。仕事を通じて、消費を通じて、発言を通じて、制度の内部で作用しています。その判断は、国家や市場や技術の枠組みと無関係ではありません。扱うべき条件は増え続けています。かつては考慮しなくてもよかったことが、いまは判断材料になります。環境への影響、情報の拡散、社会的帰結。この状況で、自分が依拠している基準を意識せずにいることは、むしろ困難です。
だからこそ、「哲学する」ことは特別な営みではない。
学んでから始めるのではない。判断せざるを得ないから、すでに始まっている。その営みを、私は「哲学する」と呼びたい。
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