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新しい学びの場をどのように作るのか?

「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。

御覧いただき、ありがとうございます。

前回、こちらの記事で、日本の教育をどう変えようか、みたいな話を書きましたが、そもそも、今、あるものを変えるより、新しい学びの場を作ってしまった方が簡単じゃないか、という気がしてきました。

ということで、それ以降、いろいろと考えていたのですが、どう考えても、実際に世の中でいろいろ学びたい、と思っている方々が行っていることと、いわゆる学校制度のようなところで制度化されていることとの間に、想像以上の「言葉の壁」のようなものがあるな、ということに気づきました。

例えば、論文集や学会誌などでは、「論考」「研究ノート」「論文」などとう言葉が使われていますが、これらを見ると、なんとなくハードル高そうに感じます。

しかし、これを英語に訳してみると、essey(エッセイ)、note(ノート)、report(論文)となります。こうなると、ハードルがぐぐっと下がります。

じゃあ、研究ってなんなのよ、というと、これも study あるいは、research なので、学ぶこと、調べることという意味になります。でも、日本語で研究テーマは?とか訊くと、なんかアカハラの香りまで漂ってきます。

ということで、これはもう、推し活で良い、と。推し活をしていると、推しについて考えたり、考えたことを誰かに話したくなりますよね、と。話すだけでは消えてしまうので、それを何か文字にして残しましょう。それがエッセイやノートやレポートですね。

学び場って、それらを共有できればいいんじゃね?

と思ったのです。

で、例えば、何か文章に残した人を「先生」と呼び、それを誰かに伝える場を持った人を「講師」と呼び、その推し活を体系にまで仕上げた人を「教授」と呼ぶことにする、と。

例えば、私は旧来の麻雀ではない麻雀を、楽々麻雀と定義して、下記のような記事も書きました。

この時点で、私は、「楽々麻雀先生」になるわけです。

そして実際、月に2回、この楽々麻雀教室をやっています。この時点で、「楽々麻雀講師」になります。

さらに、まだそこまでは未達ですが、この後に、例えば「楽々麻雀」についてのレポートを書いたりすると、「楽々麻雀学」というものが形作られて、「楽々麻雀学 教授」となります。

研究とは、推し活のアウトプットである。

これくらいまでハードルを下げた方が、いわゆる生涯教育のイメージが現実に近くなってくるな、と思ったのです。

最後に、ドラッカー教授の言葉を引用しておきましょう。

 学び方は人によって異なる。それは指紋と同じように、本人だけのものである。全く同じ学び方をする者は二人といない。
 それぞれがそれぞれのスピードと関心をもつ。自分のスピードや、リズムや、関心の領域に合わない場合、人はほとんど、あるいは全く、学ぶことが出来ない。疲労と違和感が残るだけである。

P.F.ドラッカー(1989)『新しい現実』第16章「教育の変化」P.360

 問題は今日、学界の専門家たちの学識が、急速に、本当の知識ではなくなってしまったことにある。それらは、せいぜい専門知識にすぎず、悪い場合には、しかもそのほうが一般的だが、たんなるデータにすぎなくなってしまったことにある。
 しかも、過去200年間にわたって知識を生み出してきた学問の体系や方法論が、少なくとも自然科学以外の分野では、今日きわめて非生産的な存在となってきている。(中略)
 19世紀と20世紀において、教育、学習、研究の中心となってきた学問体系の枠内では、もはや、新しい知識は、得られなくなってしまっている。

P.F.ドラッカー(1989)『新しい現実』第16章「教育の変化」P.366

学習が、大人になればやめるものでなく生涯継続されるものとなるからには、学校もまた継続学習に向けて組織されなければならなくなる。学校は開かれたものとならざるをえない。

P.F.ドラッカー(1996)『ポスト資本主義社会』第11章「教育の経済学」P.258

開かれた学校=新しい学び場、作っていきたいと思っています。

現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価お願いします。フォローも大歓迎です。

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