ドラッカー先生と「日本の教育をどのように変えるのか?」について考えてみる
「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。
御覧いただき、ありがとうございます。
今年、一発目の記事は下記のようなものでした。これ、ただ問題提起をするだけでは無責任だなーと思っており、今年中をかけて、これらをどう問題解決するのか、理想的な姿は何か、ということを考えていこうと思っております。
今日はこのうち、「5.機能していない学校」の話題です。
というのも、ひとつ考えるきっかけをいただきました。SNSで知人がシェアしていて、意見を求めていたこの記事。すぐにコメント書こうと思っていたのですが、ちょうど自分の大学での非常勤講師での授業の評価のタイミングと重なり、ちょっと遅くなってしまったので記事にまとめることにしました。
普段なら他人の記事の内容を批判的にコメントするのは避けているつもりですが、ちょっと気になったので、シェアしつつ、意見を書いてみます。
この記事の内容を簡単にまとめると、下記のようになるかと思います。
戦前期では、教員養成は公立(官立)の師範学校で行われていたが、2024年のデータでは、教員就職者の出身大学・学部のランクは、全学生でみた場合よりも、低いほうに偏っている。教員の不人気もあり、最近では学力が同世代の中央値にも満たない人が教壇に立つことも多くなっている。教員の不人気を解消し、優秀な人材に来てもおうとしているが、そもそも教員は、教えることの専門職であるので、この原点に立ち返り、役割革新を進めるべき、ということになる。
おっしゃっていることはもっともな部分もあり、参考になりますが、この記事の本文中の見出しに違和感がありました。
新規採用教員のうち4割近くの出身学部の入試偏差値は50に満たない
これ、ものすごく違和感があります。
そもそも偏差値というのは、その名の通り、他人との比較の数値です。その人の能力を示すものではありません。例えば逆な例ですが、私は入試で早稲田の法学部と教育学部と第一文学部に合格して、最終的に第一文学部に入学したのですが、当時、これらの学部の偏差値はものすごく高かったと思います。でも、これは、英国社の文系科目に限っての話です。高校入学してすぐに理系科目は見切ったので、高校の生物のテストは14点とか、地学は19点とか、惨憺たる成績でした。ですので、もし、総合学力を測るということでしたら、私の凸凹はすごくて、とてもそんな大学に行ける偏差値にはなっていなかったと思います。(ちなみに後に、高度情報処理試験を受ける際に高等数学を学びなおすことになり、それで面白さに気づいて、もっとやっとけば良かったな、と後悔しました。)
というか、入試制度がどういうものかに合わせて、何を勉強するのかを変えるのは当たり前のことで、教員免許が欲しいと思ったら、何に時間を使えばいちばん楽に教員免許を取れるのか、ということを考えて、最も楽なルートを取ろうと考えるはずです。この文章の言う通り、教員が人材不足であるとするのなら、どんな大学に行こうが免許さえ取れればどこでもいいや、という考えになる学生が一定数居ても、それは不思議ではないですし、だからといって、その学生が専門分野での学力が低いという証明にはならないはずです。
さて、偏差値についての違和感はここまでにして、この方の主張は本当はそこではなく、「そもそも教員は、教えることの専門職であるので、この原点に立ち返り、役割革新を進めるべき」というところにあって、その通りだな、と思います。
ふと思い出したのが、下記の「教える場」を「学び場」に変えたい人のためのコーチング講座をしていた時の学校の先生方のエピソード。
上の記事から4本の記事を書いていますが、あまり意味のあることを書いていないので(笑)、ここに書いていないエピソードを紹介します。
ある先生が顧問をしている部活で生徒からの質問に答えられないと悩んでいたのを手放して、自分で答えを探すように促したら、YouTube動画でテクニックを学ぶという流れが出来て、生徒も自分もハッピーになった。
という話。これ、何がポイントかというと、部活において部活の顧問だからといって、その部活の専門家ではない、さらには、その分野を教える専門家ではない、ということです。
これは部活はOK。では、先生の役割とは何か。生徒の話を聴いたり、自分で考えさせたり、あるいは生徒達をチームとしてまとめるためのサポートをする、ということが目的となります。
ドラッカーは1993年に書いた『ポスト資本主義社会』の第11章に「教育の経済学」というタイトルの文章を書いています。ちなみに、次の第12章が「教養ある人間」となっていて、情報=知識じゃないよ、ということを言っています。
第11章の冒頭の文章を引用します。
パソコンや通信衛星の技術が、学校を呑み込む。その結果、学び方と教え方が一変する。教育の経済学が変わる。学校は労働集約的な存在から資本集約的な存在になる。
この文章はその後、学校の役割が変わり、成人教育の役割も学校が担っていく、というお話に展開します。が、その前に、この最後の文章。確かに、今の学校が労働集約的である、という指摘は正しいと思います。ですから、冒頭で紹介した記事が懸念するような、教員不足という事態が生じるわけです。
でも、その後の「資本集約的な存在になる」というのはどういう意味でしょうか? 同じ文章から、それっぽいことが書いてある箇所を引用してみます。
本来教師の果たすべき役割は教えることであって、動機づけし、指示し、激励することである。教師はリーダーとなり、相談相手となるべき者である。明日の学校では、学ぶことについては生徒自身が自らの教師となる。パソコンが道具となる。実際のところ、若いほどパソコンを好み、パソコンによって学ぶことができる。こうして、これまで完全に労働集約的だった小学校さえ、優れて資本集約的となる。
繰り返しますが、1993年に書かれた文章です。未来予測がすごいですね。資本集約的というのはつまり、生徒ひとり一台にパソコン、という話になります。
ちなみに、日本で小学校に「1人1台端末環境」と言い出したのは、2019年のことですから、ドラッカーのこの文章からは実に26年後のことになります。(ただし、パソコンではなくタブレットなのは、おそらくセキュリティの問題が大きいかな、という気がします。)
しかも、くばりゃいい、という発想なので、こういう記事も出ていました。
ドラッカーの文章に戻りますと、ドラッカーは端末を配ればいい、と言っているのではなく、その前に、教師の役割を見直しなさい、と言っています。大事なところなので、もう一度、引用します。
本来教師の果たすべき役割は教えることであって、動機づけし、指示し、激励することである。教師はリーダーとなり、相談相手となるべき者である。明日の学校では、学ぶことについては生徒自身が自らの教師となる。
さらにこの前段で、ドラッカーは学校の役割の変化についても述べています。
知識社会における学校は、ちょうどコメニウスが350年前につくった学校が、印刷された教科書を導入する前の学校とまったく違うものになったように、現在の学校とはまったく違うものとなる。知識社会において、学校に求められる要件は次のとおりである。
第一に、読み書きを超える高度の高等教育をする。第二に、学習の意欲、特に継続学習の習慣を与える。第三に、すでに高等教育を受けた者、および高等教育を受けられなかった者に門戸を開く。第四に、他の機関と競争し、かつコラボレーションする。企業、政府機関、NPOなどあらゆる機関が、学び教えるための機関とならなければならない。学校は、それらの組織とコラボレーションしなければならない。
もうひとつ、「学校の責任」ということで、強烈なメッセージも伝えています。
教育にあまりに金がかかるようになったために、学校も責任をもたないわけにはいかなくなった。(中略)教育があまり重要な存在となったために、学校は自らの成果について考えるとともに、その成果の達成について責任をもたないわけにはいかなくなった。
制度が違い学校が違えば、この問いに対する答えは違ってこようし、違うのが当然である。しかし、あらゆる国の学校が、間もなくこの問いを発し、真剣に考えなければならなくなる。やがてわれわれは、「生徒たちが勉強せず、できが悪いので」との校長の言い訳を受け入れられなくなる。知識が中心的な資源となった社会においては、勉強しない生徒や、できの悪い生徒は学校の責任である。仕事のできる学校と、できない学校があるだけである。
学校はすでに教育の提供者としての独占的地位を失いつつある。
繰り返しますが、1993年に書かれた文章です。しかし、これは誰もが知っている事実でありながら、関係者の誰もが事実として受け入れてこなかった事実であるように思います。現代型の学習塾というものが日本で出てきたのは1960年代だそうですが、その後、様々な形で国がその盛り上がりを潰そうとしてきた歴史もあるようです(岩瀬 令以子「現代日本における塾の展開 : 塾をめぐる社会的意味の変遷過程」)が、私自身、中学受験も経験していますが、学校で勉強を教わった記憶はあまりなく、塾の勉強で学力を伸ばしたという印象しかありません。(そのためか、私の今の学習スタイルも、人の話を聴くようなインプット型が苦手で、テストやレポートなどのアウトプット型になっています。)
その学習塾でも、当時、行きはしませんでしたが、面白いビジネスモデルだな、と思ったのが東進ハイスクールでした。カリスマ講師によるビデオや衛星通信による講義、というモデルであり、これはまさに、ドラッカーの言う「労働集約型」から「資本集約型」の教育モデルの先駆けなのではないか、と思います。
ドラッカーの言うように、「学校はすでに教育の提供者としての独占的地位を失いつつ」あり、「あらゆる機関が、学び教えるための機関とな」って、「学校は、それらの組織とコラボレーションしなければならない」としたら、学校はいわゆるハブのような場所になるはずです。そしてそこに居る教師はもはや教育の提供者ではなく、「動機づけし、指示し、激励する」「リーダー(導き手)となり、相談相手となるべき者」である、ということになります。
過去にこういう記事も書きました。
ドラッカーの言うように、YouTubeも「あらゆる機関が、学び教えるための機関」のひとつかもしれません。教育に金がかかる以上、資本力のあるところに既存の学校ひとつひとつが戦うのには、無理があります。
教育の労働集約型であるところを解消するのには、何をどうすればいいのか、ということを考えてみると、いかに日本の学校制度が無駄な人件費の使い方をしているのか、ということがよくわかります。考えてみればわかることなのですが、例えば、こちらの記事によると、日本の小学校の数は2023年で約1万8,900校だそうです。こちらの記事によると、小学生の数は、2023年度で約605万人。例えば、35人学級だとして、17万クラスがあって、この1クラスにそれぞれ先生が居て、生徒に授業しているわけですが、この授業実践が何の蓄積にもならず、つまりは資本化されていない。これを延々ずっと繰り返しているのです。先生によっては教えるのが上手な先生も居れば、そうでもない先生も居る。それは学力とか出身大学の偏差値とか、そういうことではなく、合う先生も合わない先生もいます。
自分の経験で言えば、中学2年生のときの数学の先生が個人的に嫌いで、そのために学力がぐぐっと落ちました。3年になって、1年のときの先生に戻り、「お前の学力はもっと高かったはずだ」と言われて、ぐぐっと伸びました。中学生の学力なんて、そんなものです。
言ってみれば、質も向上しないし、マッチングもうまくいっているか検証できない無駄な授業を日本全国で毎日毎日垂れ流しして、それで人が足りないとか言っているわけです。これは、『ジョジョの奇妙な冒険』のディオでなくとも、「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァーーーッ」と叫びたくなります。
日本の文部科学省は、日本全国の教えるのがうまい先生の授業を何タイプか動画で用意して、それをすべての学校の共有財産として使用するようにすべきなんじゃないか、と思ったら、あ、そういうサービス、既にありますね、と。
これで良くね?
話を戻します。簡単に言いますと、機能しなくなった学校が機能するためには、まずは、教育の提供者としての独占的地位を失ったことを自覚すること。
教師の役割は、コンテンツ提供ではない、ということを自覚すること。
勉強しない生徒や、できの悪い生徒は学校の責任であることを自覚すること。
学校は学ぶ人にとってのハブとなる場所であり、教師は、教育の提供者ではなく、自ら学ぶ者である生徒の導き手として、相談相手となり、動機づけし、指示し、激励することによって、学び続ける人を育成する者であること。
その目的を果たすため、様々な外部サービスや外部人材とコラボすること。
そういう道筋が見えてきます。
従って、冒頭の記事への最終的な結論は、
コンテンツを教えることの専門職という認識の教員は、学校を辞めてスタディアプリかYouTubeで教えるべき
学校には何かの教科の専門家ではなく、生徒の支援者(サポーター)、コーチを配置すべき
ということになります。
最後にドラッカーの言葉を紹介して終わりたいと思います。
何を行うべきかは明らかである。事実、何千年も前からとはいわないまでも、何百年も昔から継続学習者への動機づけとそのための規律は知られている。優れた美術の教師、スポーツのコーチが知っている。組織内の優れた助言者たちが知っている。彼らは、本人が驚くほどの成果をあげさせる。その結果、教わる者は刺激され、意欲をもつ。
現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。面白かった、参考になった、という方は是非、高評価お願いします。フォローも大歓迎です。
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