フリーメイソンの友情*自由の女神とスエズ&パナマ運河の意外な関係
先日(3月17日頃)、フランス選出のEU欧州議会議員のラファエル・グリュックスマン氏が、アメリカに「自由の女神像を返還してくれ」と言ったことが話題になりました。
フランスの政治家、米国に自由の女神像返還求める 「暴君の側に寝返った」から(1/2) - CNN.co.jp

熱心なウクライナの擁護者でもあるグリュックスマン氏は、集会で「暴君の側に立つことを選んだアメリカ人、科学の自由を求めた研究者を解雇したアメリカ人に『自由の女神像を返せ』と言うつもりです」と語って、アメリカの戦争政策の急転換やトランプ大統領の反科学政策を強く批判しました。
フランスの政治家「自由の女神像返せ」 米国はもはや価値観体現せず pic.twitter.com/oy8cRYNE71
— AFPBB News (@afpbbcom) March 17, 2025
グリュックスマン氏は、トランプ大統領がロシア側に寄ったことと、イーロン・マスク氏が率いる政府効率化省(DOGE)が、NASAやアメリカ国立衛生研究所(NIH)などの予算や人員の削減をしていることを批判していたわけですが、「自由の女神像を返せ」は本気ではなく言葉の勢いだったでしょう。
トランプが嫌なら米研究者おいで ブリュッセル自由大学(共同通信) - Yahoo!ニュース

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これに対してホワイトハウスの報道官カロリン・リービット氏は、「返還は絶対にあり得ません。フランスの下級政治家に対する私のアドバイスは、フランス人が今ドイツ語をしゃべらずに済んでいるのは、合衆国のおかげだと思い出すことです」と反論しました。
フランスの欧州議員が「自由の女神像を返せ」と要求、アメリカ側は「フランスの下級政治家」呼ばわりして断固拒否

リービット氏は、第二次世界大戦中でアメリカとフランスが同盟を組んで、ナチスドイツに対抗したことを言っているんですが、京都人が大阪人に言う「(大阪の人が生きていられるのは)琵琶湖の水のおかげですわ」と同じぐらいのアメリカンジョークかなと私は思いました(苦笑)
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返すわけがないけど、自由の女神を返したらどうなるか。興味深いです。
なんか埋めている気がするし(苦笑)
この記事では「自由の女神」じゃなく、「自由の女神」にも関わったフランス人の実業家フェルディナン・ド・レセップスについて書いていきます。
よかったらお付き合いください。
自由の女神(Liberty Enlighting the World)
Liberty Enlighting the World=世界を啓蒙する自由
ニューヨークの象徴でもある自由の女神像は、1886年に「アメリカ独立100周年の記念」としてアメリカ独立運動を支援したフランスからの贈り物でした。

フランスの彫刻家フレデリック・オーギュスト・バルトルディによって設計され、その金属製の骨組みはギュスターヴ・エッフェルによって建てられました。像は1886年10月28日に奉納されました。
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「自由の女神プロジェクト」は、フランスの法学者エドゥアール・ルネ・ド・ラブーレのアイデアから発しました。
南北戦争の間、ラブーレは北軍の大義と奴隷制度廃止の熱心な支持者でした。1865年の戦争終結後、彼はアメリカで解放された奴隷を援助するフランス解放委員会の委員長になり、自由を表す像をアメリカに贈るというアイデアを思いついた。
友人の一人である彫刻家フレデリック・オーギュスト・バルトルディがこのアイデアを実現させた。
フリーメイソンの贈り物

以前の記事に書きましたが、フレデリック・オーギュスト・バルトルディは、フリーメイソンでした。
バルトルディは、ノートルダム大聖堂の改修に携わったウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュクとも親しくしており、自由の女神プロジェクトにもデュクは主任技術者として参加していました。
デュクは、自由の女神が完成する前年1879 年に亡くなりました。
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自由の女神像は、フランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物であり、台座の記念盤には以下の文言が刻まれています。
(この地にて1884年8月5日、「世界を照らす自由の女神」の像の台座の礎石は、ニューヨーク州メイソン団のグランド・マスター、ウィリアム・A・ブロディーによる式典とともに設置された。
グランド・ロッジの構成員ら、合衆国およびフランスの政府の代表ら、陸軍および海軍の将校ら、諸外国の使節団の構成員ら、ならびに名高い市民らが参列した。この銘盤はかの歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイソン団により捧げられる。)
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自由の女神のデザインは、1860年代後半に、バルトルディがエジプトの副王イスマーイール・パシャに持ち掛けた、スエズ運河の入り口に「ローブを着て松明を高く掲げた古代エジプトの女性の巨大な灯台「進歩、あるいはアジアに光を運ぶエジプト」を立てる計画が原案でした。
(スエズ運河には建てられなかった)
イスマーイール・パシャは、ムハンマド・アリー朝のムハンマド・アリーの長男で優秀な政治家だったイスマーイブラーヒーム・パシャの次男でした。

1869年、スエズ運河が開通。
イスマーイール・パシャは、運河の権利を主張しスエズ運河会社の株式を取得する。首都カイロにパリに倣った新市街を建設、カイロ・アレクサンドリア間の鉄道敷設などエジプトの近代化を推し進めた。オペラ『アイーダ』の依頼主でもある。
スエズ運河会社のレセップス男爵
スエズ運河会社は、1858年にフランス人の実業家フェルディナン・ド・レセップス(1805年11月19日 - 1894年12月7日)が設立し、1859年から1869年までかけてスエズ運河を建設しました。
レセップスは、ナポレオン3世の皇后ウジェニーのいとこにあたります。

レセップスは、1825年からリスボン・チュニスで領事を務めていました。1833年に駐アレキサンドリア副領事としてエジプトへ着任する途上、船内でコレラが発生して上陸が一時停止された際、暇つぶしに読んだフランス人技師ルペールのエジプトに関する報告書から、スエズ運河構築の夢を抱いたそうです。
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ルペールは、1798年のナポレオンのエジプト遠征に同行した際に「ファラオの運河」の遺跡を発見しました。ナポレオンは運河の再建を検討しましたが、1801年にエジプトから撤退し、再建も中止されました。

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父のマチュー・ド・レセップス(1771年3月4日 - 1832年12月28日)が、モロッコのフランス領事に任命され、1800年にエジプト軍との連絡係および貿易関係の監督官に任命された際に、レセップ家とムハンマド・アリーは親交を深めました。
レセップスは1834年から1837年までカイロ領事に赴任した際に、のちの4代ムハンマド・アリー朝君主となる少年時代のサイード・パシャ(1822年3月17日 - 1863年1月17日)の家庭教師を務めました。
そのため、サイードはヨーロッパ好きに育ちました。サイードはパリに留学中もレセップスの家を頻繁に訪ねていました。
エジプト滞在中にレセップスは、フランスのサン=シモン主義者、バルテルミー・プロスペル・アンファンタンと出会っていました。
彼は秘密結社カルボナリのメンバーでもありました。

カルボナリについては、こちらの記事に書きました。
1820年代、サン=シモン主義者は、地中海と紅海の間に運河を建設するというアイデアに夢中になった。1833年、アンファンタンと彼の信奉者数名は、このアイデアをさらに推進することなどを願ってエジプトへ旅した。
彼らは、総督 ムハンマド・アリー・パシャの興味を引くことはできなかったが、フランス領事レセップス、エジプト公共事業局の高官エンジニアであるリナン・ド・ベルフォン、陸路の開発者であるワグホルン中尉と彼のアイデアについて話し合うことに成功した。
1846年にアンファンタンは、スエズ運河研究協会を設立しました。
メンバーには、フランスの鉄道・運河技師ポーリン・タラボット、イギリスの土木技術者ロバート・スティーブンソン、オーストリアの土木技師アロイス・ネグレリなど、すでに鉄道建設のキャリアを積んだ面々が連なっていました。
このころのイギリスの首相ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)は、大英帝国の国益や英国民の利益が損なわれることを許容しない強硬外交を行ったことで知られていました。
イギリス政府は、運河をすべての人に開放するとインドとの貿易に支障が出ることを恐れ、アレクサンドリアからカイロを経由してスエズまで鉄道で結ぶことを希望し、スティーブンソンがそれを建設しました。

ナポレオン3世のスケープゴートとして
天王星と冥王星がコンジャンクションした1848年、ヨーロッパ各国で「諸国民の春」と呼ばれる政情不安が起きました。
フランス二月革命の影響で、11月15日にローマ暫定政府首班ペッレグリーノ・ロッシが暗殺され、教皇ピウス9世も市民軍によって軟禁されました。
ピウス9世は11月24日にガエータへ逃れ、ローマ共和国の建国が宣言されました。

フランス政府は旧教皇領から経済的利益を有していたため、教皇領を取り戻したいと考え(教皇にバチカンに復帰してもらう必要があった)、1849年4月に遠征を開始しました。
一方で政府はレセップスをローマに派遣し、教皇ピウス9世のバチカン復帰交渉に当たらせました。
政府の目的は、レセップスが交渉している間に、チヴィタ・ヴェッキアに遠征していたシャルル・ウディノの隊に秘密裏に援軍を送る時間稼ぎでした。

レセップスが交渉中にフランスでは選挙が行われ(第1回投票5月13日〜14日、第2回投票5月27日〜28日)、第2次オディロン・バロ内閣の発足によってアレクシス・ド・トクヴィルが外務大臣に就任し、政府の外交政策が変更されました。
ナポレオン3世は、ウディノに宛てて都市を包囲するよう命令し、レセップスにはフランスへ戻るよう命令しました。
しかし、これらの手紙がローマに届いたのは5月31日だっため、その間にレセップスはローマ共和国の指導者たちとの協定に署名していました。
憤慨してパリに戻ったレセップスは外交官を辞任し、その後、彼は国務会議で敵との共謀の罪で告発されました。
ウディノはレセップスが協定を結んだことを知らないまま、6月1日から3万人の兵士で攻撃を開始しました。

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ジュゼッペ・ガリバルディなどのローマ防衛軍は、ローマ大学の戦いにおいて一時フランス軍を撃退するが、抵抗もむなしく7月3日にフランス軍に降伏した。教皇も1850年にローマに戻った。
ジュゼッペ・ガリバルディについても以下の記事に書きました。よかったらご覧ください。

ナポレオン3世のローマ侵攻に批判が集まり、6月に暴動が発生しました。
6月暴動事件で左翼議員30名が国を追われ、左翼勢力は壊滅的打撃を受けましたが、同時に敵がいなくなったことでナポレオン3世と秩序党の対立が表面化しました。
ナポレオン3世はスケープゴートを必要とし、レセップスは格好の標的となりました。
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スエズ運河建設プロジェクト
レセップスは外交官の職を辞したあと、二度と公職に就くことはありませんでした。
レセップスは1851年8月30日に第334代塔剣勲章大十字勲章を受章し、その後第200代塔剣勲章大十字勲章を受章した。
詳しい事情はわかりませんが、1853年に数日の間にレセップスは妻と息子のフェルディナンド・ヴィクトルを亡くしました。
悲しみにくれる中、スエズ運河建設に反対していたアッバース・パシャが何者かに暗殺されたため(1854年)、教え子だったサイードが4代ムハンマド・アリー朝君主に即位しました。

レセップスはさっそくエジプトを訪問し、サイードにスエズ運河開発の同意を取り付けました。
しかし、エジプトの宗主国であるオスマン帝国は、運河がトルコとエジプトの国境になるのを恐れ反対しました。
レセップスの最初の計画は、エジプトに勤務していた 2 人のフランス人技術者、ルイ・モーリス・アドルフ・リナン・ド・ベルフォンとムージェル・ベイによってすぐに練り上げられました。
この計画は、それまでに提案された計画や反対された計画とは異なり、地中海と紅海を直接結ぶものでした。
若干の修正が加えられた後、この計画は1856年にスエズ地峡貫通国際委員会を構成する土木技術者によって採用されました。
レセップスはフランス人の出資者を募り、会社設立に必要な2億フランの資本の半分以上を集めることに成功しましたが、イギリスや他の外国の一般大衆から実質的な資本拠出を集めることはできませんでした。
エジプト政府は、8千万フラン相当の株式を引受けました。
1863年1月にサイード・パシャが急死し、後継には甥のイスマーイール・パシャが就きました。
そういえばこの頃、フランス系ユダヤ人のシュウォブ一家が、ムハマンド・アリーの孫カリル・シェリフ・パシャのもとで働いていました。
カリルはのちに、ウィーン大使に就任しましたが、1879年1月に急死しました。
イギリス政府は、オスマン帝国を通じてスエズ運河建設をたびたび妨害しましたが、ナポレオン3世が仲裁に入り、1869年11月17日スエズ運河は正式に開通しました。

伸ばされた手は、東への道が開かれたことを示していたという。
レセップスは、スエズ運河の功績によりレジオンドヌール勲章大十字章を受章しました。
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イギリスの買収
イギリス政府は、1865年にパーマストン子爵が亡くなった後、2度目のジョン・ラッセル内閣が半年で終了し、エドワード・スミス=スタンリー(第14代ダービー伯爵)が3度目の首相になっていました。
ダービー伯爵は「イギリスの名誉が傷つかない程度であれば、戦争を回避する」スタンスでした。
のちに首相になるベンジャンミン・ディズレーリは、ダービー内閣で大蔵大臣を務め、貴族主義的なダービー伯爵をサポートしていました。
ダービー伯爵の退任後、首相になったディズレーリは1875年にはスエズ運河を買収し、エジプトの半植民地化に先鞭をつけました。

イタリアからの移民のセファルディム系ユダヤ人の裕福な家系に生まれる。父は作家のアイザック・デ・イズレーリ。
13歳の時にイングランド国教会に改宗した。
ユダヤ人でありながら保守党内で上層部に上り詰めた、当時としては大変珍しい成功例。

ベンジャミン・ディズレーリがスエズ運河の株式を買収した後、レセップスは英国政府から3人を取締役会に迎え入れ、英国の利益に有利な行動をとりました。
パナマ運河建設
1881年、レセップスがパナマ大洋間運河ユニバーサル会社(パナマ運河会社)の社長に就任したとき、彼は74歳になっていました。
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パナマ運河建設は、16世紀の大航海時代から構想されていました。
スペインのカール1世(神聖ローマ皇帝・ハプスブルク家のカール5世と同一人物)が1534年に調査を指示しましが、当時の技術力では建設は不可能でした。

19世紀に入ると、産業革命や蒸気船の開発などによって船舶交通が盛んになり、また土木技術の進歩によって運河の建設は現実的になりました。
1848年に始まったカリフォルニアのゴールドラッシュでは、大陸横断鉄道がまだなかったため、アメリカ東部から大勢の人々が西海岸へ行くためにパナマ地峡に押し寄せました。
ロッキー山脈を駅馬車で越えるよりも、パナマからの船旅のほうが安全と判断したためです。1855年にはパナマ地峡鉄道も開通しました。
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建設プロジェクトの開始
スエズ運河の成功によって名声を博したレセップスに、ダリエン大洋間運河国際民間協会(別名トゥール・シンジケート)からアプローチがあり、1876年からレセップスはプロジェクトに参加しました。
ハンガリーの軍人で運河建築家のイシュトヴァーン・トゥールは、イタリア統一運動のガリバルディの友人であり、千人隊の指揮官でもありました。
また「黄禍論」(日本人脅威論)という言葉を公に使った最初の人物と言われています。

トゥールの妻アデリーナ・ボナパルト・ワイズは、その名前からもわかるようにナポレオン「ボナパルト」の血筋(ナポレオン1世の弟の子孫)であり、ナポレオン3世の従妹でした。
アデリーナの弟ルシアン・ボナパルト・ワイズは、トゥールをビジネス・パートナーとして助けました。
ルシアン・ボナパルト・ワイズが、コロンビア政府から得たパナマ運河建設の許可(「ワイズ許可」として知られる)は99年間有効でした。
1879年、トゥール・シンジケートは、ワイズ鉱区を含むその金融権益をレセップスの会社(パナマ大洋間運河会社)に売却し、トゥールとボナパルト・ワイズを含むシンジケートの取締役は、投資額の3000パーセントを超える利益を得た。
彼らがプロジェクトから撤退したことで、フランスのパナマ・プロジェクトの崩壊(1889年)と、パナマで何千人もの労働者が病気で亡くなったことに対する公的責任を免れた。
1881年以降、トゥールはギリシャのコリントス運河のプロジェクトに携わり、1888年にコリント海運会社が倒産するも、政府や個人にさらなる投資をさせる取り組みを成功させ、1893年8月6日に開通させました。

レセップスは、友人のギュスターヴ・エッフェルらの協力を得て、パナマ運河会社を設立しました。
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パリ証券取引所の暴落(1882年)
レセップスの会社は、1882年から1888年にかけて無記名証券の7シリーズの債券を発行しました。
当初、レセップスは、パナマ運河の建設費用を半分の6億フランと発表していました。(本当はその倍以上)
1882年1月、ユニオンジェネラルと言う名の銀行が、突然倒産しました。
創設者のポール・ウジェーヌ・ボントゥーはロスチャイルド銀行の元部長でした。
ユニオンジェネラル銀行は、1879年にバルカン半島の新しい鉄道路線のための資金調達と管理を主な目的とする投資銀行としてリヨンに設立されていました。
株式の買い手は主にカトリック教徒と正統派で、購入者の中には多数の司祭や教皇庁自体が含まれていました。
1881年、銀行はセルビアで最初の鉄道路線であるベオグラード-ヴラニェ鉄道の建設に1億フランを投じました。また保険会社や株式を買い取り、リヨン水道照明会社(Société Lyonnaise des eaux et de l'éclairage)を設立しました。
しかし、倒産の原因はよくわかっていないそうです。
ボントゥーはフランスの刑務所に5年間収監されたのち、回想録でロスチャイルド家や他のユダヤ人金融家による陰謀が銀行の破綻の原因であると主張しました。
ユニオンジェネラルの失敗は、投資家にとって予測可能な悲惨な経済的結果に加えて、反ユダヤ主義のポピュリストと反資本主義の形態の広がりに貢献しました。
ユニオンジェネラル銀行の倒産は、パリの証券取引所に混乱を引き起こし、その後ヨーロッパでは不況が数年間続きました。

当時まだアマチュアの画家で、株のブローカーだったゴーギャンもこの大暴落に巻き込まれ、彼はブローカーを辞めて絵に専念するようになりました。
1882年の土星海王星コンジャンクションは牡牛座16度で起き、ゴーギャンのMC(牡牛座18度)のほぼ上で起きています。

1882年の土星海王星コンジャンクションで、イギリスはエジプトを占領しました。詳しくは別記事で。
倒産とパナマ・スキャンダル
この不況はレセップスの会社にも影響を及ぼしました。
1882年にパナマ運河工事が始まりましたが、熱帯雨林での難工事、マラリアと黄熱病の蔓延で死者続出、資金調達にも難航していました。
1888年には政府の許可を得て宝くじ付き債券を発行し資金を賄いましたが、その年の12月に倒産し、プロジェクトを放棄せねばなりませんでした。85,000人以上の出資者が破産したそうです。
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1892年に上記の宝くじ付き債券の発行を巡って、大規模スキャンダルが発生しました。パナマスキャンダルと呼ばれるこの事件は、当時のフランス政界を大きく揺るがしました。

ジョルジュ・クレマンソーら多数の大臣が運河会社から賄賂を受けていたと新聞が報じた。続いてレオン・ブルジョワら6人の大臣を含む510人の政治家が、運河会社の破産状態を公表しない見返りに収賄したとして告訴された。
政治家らは、前開発大臣が有罪判決を受けただけで大多数が無罪となった。
調査委員会が設けられ、104人が収賄したとされたが訴追されなかった。
贈賄工作に直接関わったとされたのは、レセップスの財務顧問だったジャック・ド・レーナック男爵 (Jacques Reinach) とコーネリウス・へルツ(Cornelius Herz) でした。


レーナックが贈賄先リストを反ユダヤの新聞「ラ・リブレ・パロール(La Libre Parole)」紙に持ち込んで事件発覚のきっかけを作りました。
1892年11月にレーナックは自殺し、へルツはイギリスに亡命した(1906年に無実が証明された)と言われています。
2人はいずれもドイツ系ユダヤ人であったことから、「ラ・リブレ・パロール(La Libre Parole)」のエドゥアール・ドルモンはこれを利用して大衆の反ユダヤ感情を煽り立て、ドレフュス事件(1894年)につながったともいわれています。
1893年2月に、レセップス、息子のシャルル(1849年生まれ)と他の数人が裁判にかけられ、有罪判決を受けました。
シャルルは半年ほど収監されました。
エッフェルも債務不履行で有罪判決を受けましたが、最高裁判所で無罪となったそうです。

レセップスは罰金と懲役刑を命じられましたが、犯罪が行われてから3年以上経過しているという理由で服役は免れました。
しかし、レセップスは心労で翌年亡くなったそうです。89歳。
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レセップスは1884年から前任者が亡くなったため、自由の女神プロジェクトのフランス委員長を務めていました。


1886年10月28日に行われた自由の女神像の除幕式で、レセップスは演説を行っています。式にはグロバー・クリーブランド大統領も出席していました。
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コロンビア領パナマが独立した1903年にアメリカとパナマとの間にパナマ運河条約が結ばれ、アメリカは1904年から建設作業を再開し、1914年8月15日に開通しました。
開通後、アメリカが運河を管理していましたが、1999年12月31日にパナマに完全返還しました。

US President-elect Donald Trump is threatening to reclaim control of the Panama Canal, sparking a diplomatic standoff with Panama.
— TRT World (@trtworld) December 24, 2024
Here's a summary of what you should know about the Central American waterway pic.twitter.com/uJOyGRVKlW
アメリカ大統領ドナルド・トランプは、パナマ運河の支配権を取り戻すと脅しており、パナマとの外交的対立を引き起こしている。
ところで、1892年のパナマ・スキャンダル、翌1893年には大恐慌が起き(1893年は、双子座8度~9度で海王星と冥王星がコンジャンクションしていた)、1894年にドリフュス事件・・・確証はないけれど繋がっている気がして・・・気になるんですよね~。
ということで、今日はこのへんで。
最後までお読みくださりありがとうございました。
ではまた。
