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備忘録:大西洋奴隷貿易*アフリカで拉致され新大陸のプランテーションへ

有名なシルクロードが始まった紀元前2世紀頃は、占星術サイクル(800年)で考えると「風の時代」にあたり、衰退した15世紀はサイクル的には(13、14世紀が風の時代だった)「水の時代」の始まりでした。

シルクロード衰退の遠因に、14世紀のヨーロッパに広がった「黒死病(腺ペスト)」の大流行があると言われています。

黒死病は後期中世ヨーロッパを襲った2番目に大きな自然災害 (一番目は大飢饉 (1315年-1317年)であり、欧州人口の30-60%が死亡したと推定されている。
中世後期を通して追加の感染爆発があり、他の要因(戦争など)も相まって1500年まで欧州の人口は1300年の段階へと回復することがなかった。

現代の研究では、ペスト菌はかつて言われていた中国起源ではなく、天山(キルギス)でペスト菌の株が発見されたことが指摘されています。



奴隷貿易と黒死病

この頃にはヴェネツィア共和国(18世紀にフランスに併合)やジェノヴァ共和国(19世紀にサルデーニャ王国に併合)のような海洋都市国家が奴隷貿易に乗り出しており、イスラム諸国への奴隷の売り上げで東方の貴重な香辛料やその他贅沢品を買いつけ、ヨーロッパで品物を売買していました。

とくにジェノヴァは「ビザンツ(東ローマ帝国)」から自由交易権のほとんどを与えらえれ、エーゲ海も勢力下に置いていました。
つまり、貿易ルートが陸路から海路に変わったわけですね。
それによってシルクロードの衰退に追い打ちがかかっただけでなく、モンゴル帝国崩壊の原因の一つともなったそうです。

またヨーロッパではアニミズムが消滅し、一神教信仰が強まったと言えるかもしれません。


ジェノヴァ(赤)とヴェネツィア(緑)の地中海地域の交易路。


パンデミックが起きた主要都市を辿ると、奴隷貿易のルートとも当然ながら重なります。
1347年にジェノヴァ共和国の植民地だったクリミアの港町カッファ(現在のフェオドシヤ)で最初の兆候が現れました。奴隷船に潜んでいたネズミに寄生するノミによって運ばれた可能性が最も高いと言われています。


ヨーロッパで最初のパンデミックは、アラゴン連合王国(アラゴン王国およびカタルーニャ君主国を中心とする複数の君主国の同君連合)で起きました。
当時のイベリア半島はレコンキスタ(国土回復運動)の最終目的地であり、711年からイスラムに支配されていたアル・アンダルス(アル・アンダラス奴隷貿易地)には1492年までグラナダ王国が残っていました。

しかし興味深いことに、アル・アンダルスでは9世紀以降にユダヤ教徒の人口が多くなり、相対的にキリスト教徒よりもユダヤ教徒の影響力が強かったそうです。
前回の記事で書いたように、アル・アンダルス奴隷貿易における中心だったユダヤ商人(ラダニテ)がコミュニティ支援を行なっていたのでしょうね。
レコンキスタが行われなければ、ハザールのようなユダヤ教国家になっていたかもしれません。

1347年秋までに疫病はエジプトのアレクサンドリアに到達し、同時代の証言によるとコンスタンティノープルから海路で奴隷を運ぶただ一隻の商船から伝染したとのこと。
1348年の晩夏にはカイロに到達し、60万人のカイロ住民の3分の1以上が死亡したと言われています。 2年以内にペストはアラビアから北アフリカにわたるイスラム世界全体で蔓延しました。

ムスリム宗教学者はこのパンデミックが神から下された「殉教と慈悲」であると教え、楽園における信者の地位を保証した。非信者にとっては懲罰だとされた。
一部のムスリム医師は、神から遣わされた病気を予防したり治療したりすることのないよう警告した。

黒死病は天体の影響?

最も権威ある当時の記述として、パリの医学部からフランス王フィリップ6世 に宛てた報告書が見つかっており、その書簡は大疫病(瘴気)の原因として1345年の天体の合を問題視していたそうです。
キリスト教徒の医師の中には「黒死病は占星術的要因によって引き起こされた不治の病」と述べた有名な医師もおり、1348年にパリ大学医学部は原因は惑星の合にあったという公式声明を出しています。


1345年の合とは、宝瓶宮(水瓶座)で木星、土星のコンジャンクションが起きたことを言っています。調べたところ水瓶座18度付近でコンジャンクションが起きていました。

1345年の出来事に関する最も有名な小冊子は、フランスの占星術師によってヘブライ語で書かれ、1990年まで英語に翻訳されていませんでした。
彼は「土星と木星の合は大きな出来事、そして広範な出来事を意味することが経験的に知られている」と述べ、火星が水瓶座でこの二つの惑星に合体するトリプルコンジャンクションを指摘しました。
実際に1345年3月21日に火星、木星、土星のトリプルコンジャンクションが起きました。
これは「異なる宗教を持つ国家による国家と王国の滅亡」の前兆とされ、さらに彼は「長く続くであろう病気と死」を予言しました。

また同年3月18日の月食についてフランスの天文学者ヨハネス・ド・ミュリスが記しており、ミュリスは「この日食が人間の性質に及ぼす影響がより強くなり、一部の人々に長期にわたる病をもたらすだろう」と予言していたと言われています。
どちらの予言も1345年の出来事が今後何年も続くであろうことを示唆していたため、この惑星の合は疫病のスケープゴートにされました。

当時は説明がつかないパンデミックだったので、天体のせいや天罰ということにしたんでしょうけれどね。
この時のパンデミックではユダヤ教徒の死者が少なかったらしく、ユダヤ教徒が井戸へ毒を投げ込んだ等のデマが広まり、迫害や虐殺が起きたと言われています。


木星と土星のコンジャンクションは約20年毎に起きます。
近々では2020年12月21日に水瓶座0度でコンジャンクションが起きました。
今回は火星ではなく、冥王星がトリプルコンジャンクションでした。
(コロナパンデミックは計画された)


メメント・モリ(死ぬことを忘れるな)

ミヒャエル・ヴォルゲムート 『死の舞踏』1493年


黒死病の流行は、「死の舞踏」はじめ絵画や文学のテーマにも大きな影響をあたえ、「メメント・モリ(Memento mori, 死を思え)」というラテン語の標語が流布し、どのような態度や振る舞いをとったら無事に天に召されるかを説いた「往生術」についてもさかんに著作がなされたそうです。

14世紀の黒死病は、私たちも数年前に経験した行動制限、感染者の隔離や都市封鎖で感染拡大を抑制し、免疫を持つ人々の増加や小氷河期になりノミの活動が抑制されたことで収束したとみられます。

パンデミックの真っ最中の1349年から1353年にかけて著されたジョヴァンニ・ボッカッチョの『デカメロン』では、富裕な市民は空気が清浄な農村へと疎開し、都市政治は混迷し、家族の絆は失われたと述べられています。

黒死病の大流行は、ヨーロッパの社会、特に農奴制に大きな影響を及ぼしたほか、社会崩壊の大きな推進力となったと言われています。
人口の激減は農民の地位を高め賃金など待遇がよくなった一方で、労働力不足から農奴制強化が起こり、それに反対する民衆蜂起が相次ぎました。

黒死病以後の労働者需要により、イタリアとスペインで奴隷制が復活し、エジプトでは奴隷制に捕虜の需要が増加しました。


大航海時代*オランダとポルトガル

1453年にビザンチン帝国(東ローマ)のコンスタンティノープルが陥落した後、オスマン帝国は西側諸国の貿易を閉鎖し、奴隷貿易はイスラム教徒の奴隷商人に引き継がれました。

コンスタンティノープルの陥落は、風の時代の終わりの象徴的な出来事と捉えることができます。
ほぼ同時期に始まる大航海時代は、占星術では「水の時代」に印象付けられています。

大航海時代は、ポルトガルの探検家によってインド航路が開かれたことが発端となり、1492年にクリストファー・コロンブスの探検隊によってアメリカ大陸が発見され、大航海とヨーロッパの拡大の時代が到来しました。

スペインのレコンキスタを終わらせたばかりのカトリック両王は、コロンブスの計画に同意し資金を提供しました。


ポルトガルの新大陸構想

ポルトガルは新大陸よりも東アジア貿易(日本を含む)に執着するあまり、新大陸の探検&植民地化には遅れを取りました。
トルデシリャス条約

16世紀のポルトガル植民地帝国(緑)

1488年にアフリカ大陸南端に到達したポルトガルは東洋の香料貿易独占とキリスト教布教を目的としてインド洋に進出、沿岸各地に拠点を築いてムスリムと戦い、インド洋の覇権を握った。
このため、エジプトのマムルーク朝などイスラム勢力から香料を仕入れて欧州での供給を独占していたヴェネツィア共和国の経済は大打撃を蒙った。

17世紀になると、スペインと独立戦争をしていたオランダが、当時スペインと同君連合だったポルトガルの船を拿捕したり、マレー半島のマラッカなどのポルトガル植民地を占領しました。(1641年)
日本が鎖国に際して、ポルトガルを完全排除しキリスト教を禁止しつつも、オランダとは交流を続けたのはここらへんも関係しています。

オランダ・ポルトガル戦争(1624年から1654年まで)


オランダ東インド会社ならびにイギリス・東インド会社がインド・アジア貿易の覇権を握ったため、閉め出されたポルトガルはようやく新大陸の開拓に本腰を入れるようになったのですが、すでにスペインに大きな遅れを取っていました。

ポルトガルは、ブラジルの植民地にサトウキビを導入し(当時はブラジルにサトウキビはなかった)、プランテーションの労働力としてアフリカ奴隷を輸入しました。

1600年頃のスペイン(黄色)とポルトガル(緑)の個人的な連合。(淡黄色:スペインが領有権を主張)


砂糖と奴隷貿易を支配するために、オランダはオランダ西インド会社を設立し、すぐにブラジルに侵攻しました。オランダ領ブラジル(1630–1654)

オランダ東インド会社、ならびに西インド会社は、設立以降からクリプトユダヤ(隠れユダヤ)教徒やマラノスによって運営されていたと研究者は述べています。

クリプトユダヤ教徒とは、ユダヤ教を秘密裏に信奉すること。
この用語は、歴史的に表向きはカトリックを公言したスペインとポルトガルのユダヤ人に適用されます。
マラノスは、15世紀から16世紀にかけてスペインまたはポルトガルの王室の強制によってキリスト教に改宗したが、秘密裏にユダヤ教を実践し続けたユダヤ人を指します。
ふたつはほぼ同じ意味です。

オランダ領ブラジルには、スペインの強制改宗から逃れてきたセファルディ系ユダヤ人、ニュークリスチャン(レコンキスタ達成後にカトリックに改宗したユダヤ人やムスリム)によって、1636年にアメリカ大陸で最初にシナゴークが建てられました。
彼らは、奴隷プランテーションの所有者でした。

現在はユダヤ博物館になっている。


皮肉なことに、オランダが砂糖の生産地を占領した結果、アムステルダムの砂糖価格が上昇しました。

1640年12月、ポルトガルは継承戦争を経てスペインから独立したことでイギリスと同盟を結ぶことができ、オランダと戦えるようになりました。
ぶっちゃけイギリスは、オランダのスパイス貿易の独占に対して遺恨を持っていたのですよね。

1652年にオランダがイギリスと戦争(英蘭戦争)をし、植民地に援軍を派遣することができなくなった際に、ポルトガルの王ジョン4世は軍艦13隻と武装商船64隻で構成された戦隊を送りました。(第二グアララペスの戦い)
ブラジル人にとってオランダ領のままがよかったのかはわかりませんが、オランダは1654年についにブラジルから撤退しました。



大西洋奴隷貿易(三角貿易)

オスマン帝国に黒海奴隷貿易を奪われた後、ジェノヴァ共和国は新しい大西洋奴隷貿易に関与するようになりました。
新大陸では鉱山採鉱やプランテーションにおけるサトウキビ栽培のために多数の労働力が必要とされていました。

ジェノヴァのサン・ジョルジョ(セント・ジョージ)銀行は、ヨーロッパ中に巨額を融資を行ないました。コロンブスはその代表的事例で、カトリック両王がコロンブスに提供した活動資金はこの銀行から出ていたようです。

サン・ジョルジョ銀行は海上貿易に深く関与し、オランダ東インド会社などと競争しました。これには当時の日本の「南蛮貿易」も含まれます。
(日本が鎖国の際にポルトガルを排除したのはオランダの陰謀だったと私は思っています(苦笑)

サン・ジョルジュ銀行は、アジア貿易から締め出されたポルトガルにも融資しました。
スペインのカール5世(ハプスブルク家)は、治世の大部分でこの銀行に多額の借金を抱えていました。スペインが国家破産したとき、サン・ジョルジュ銀行は大損害を受けたそうです。

大西洋奴隷貿易は大西洋に面した3大陸の関係する人身売買取引であった。
赤が奴隷供給地、青が需要地。


三角貿易と死のミドルパッセージ

三角貿易の船は、まずヨーロッパの港から銃火器、火薬、衣類、ラム酒などを積んでアフリカ市場に向かい、捕虜となったアフリカ人と取引されました。
船は今度はその捕虜を積み込んで、大西洋を渡ってアメリカ大陸に輸送しました。そこで奴隷として人々を売却するか、砂糖、タバコ、綿花、ラム酒の原材料などとの交換が行われ、ヨーロッパに戻ります。その繰り返しです。
とにかく船はカラでは動かさない。


1525年、ヨーロッパ初の奴隷船が、アフリカ人捕虜をニュースペイン植民地に輸送しました。
時代によって奴隷貿易の勢力図にも変遷があり、16世紀と17世紀にはポルトガルとオランダの商人が貿易を支配しましたが、18世紀までにイギリスとフランスに取って代わられました。
ほかに関与したヨーロッパ諸国は、スペイン、デンマーク-ノルウェー、スウェーデン、プロイセン、イタリアの都市国家、および米国の貿易商でした。


現地の奴隷商人によって、アフリカの諸地域から拉致誘拐や人身売買で集められた奴隷は、奴隷船で輸送され新大陸に連れて行かれました。
この船旅は「ミドル・パッセージ」と呼ばれています。ミドルパッセージの航海は大規模な金融事業であり、一般的に個人ではなく企業や投資家グループによって組織されました。

直接奴隷を集めるのは現地の奴隷商人や部族の長などでした。
奴隷化された人々は、西アフリカ沿岸にいくつか築かれた要塞まで歩かされ、そこでヨーロッパ人やアメリカ人の奴隷商人に売却されました。
奴隷船が到着するまで何ヶ月もの間、要塞の中で待たされることも多かったそうです。

現代の研究によると400年間にわたって、通算約1,500万人の奴隷化されたアフリカ人がアメリカ大陸に輸送されました。
ミドル・パッセージに要する日数は、1ヶ月から6ヶ月かかりました。16世紀の平均移送期間は数ヶ月、19世紀になると6週間未満だったとのこと。

大西洋奴隷貿易の最盛期(1570年から1808年)の奴隷船は、従来の貨物船よりも小さく、奴隷を輸送するほとんどの船の重量は150〜250トンでした。
奴隷船ごとに約350〜450人のアフリカ人奴隷が運ばれていたとみられます。

数百人の奴隷と約30人の乗組員が乗船した奴隷船はすし詰め状態で、男性奴隷はペアで鎖に繋がれることもよくありました。奴隷たちが日中に動き回ることを許されることもあったが、多くの船では航海の間中鎖でつないだままにされたそうです。
奴隷たちに与えられた食べ物はごく僅かで、毎日与えられるとは限らず、大勢の奴隷が飢えと渇きのために死亡したと言われています。


すし詰め状態の奴隷たちの様子を示す絵


排泄物が垂れ流しの不衛生な(ある意味、刑務所以下)環境で、赤痢、壊血病、天然痘、梅毒、麻疹が一般的な病気でした。
もちろん精神的にも劣悪だったので、自殺は頻繁に発生しました。
死体は海に投げ捨てられましたが、船員たちは感染を恐れ船倉に入ることを避けたたため、何日も死体のペアと生活することもあったそうです。

奴隷はいろいろな理由で処罰を受けた。たとえば、病気になったり、あまりに劣悪な船内の環境により精神が参ってしまったりしてものが食べられない場合でも、殴られたり鞭で打たれたりした。
女性や子供の奴隷はしばしば水夫による強姦や性的虐待を受けた。

国立アメリカ歴史博物館に展示されている奴隷船の断面模型

ゾング号事件は、イギリスの奴隷船ゾング号で船員がアフリカ人奴隷を海に捨てて死亡させた事件である。1781年11月29日から合計132人の奴隷が死亡した。

船員たちの待遇

船員たちにとって奴隷船の仕事は気が進むものではなく、強制的にだったり、故意に借金を負わせられ、その借金を免除すると言われて引き受けるケースもあったそうです。

奴隷船の所有者や船長は莫大な利益を期待できましたが、一般の船員は給料が不十分でした。
船員たちは、甲板下のスペース全体が奴隷によって占められていたため、大西洋航海中ずっとオープンデッキで寝なければならなかったことがよくあり、マラリア、黄熱病、または奴隷の蜂起の結果として死亡することもありました。
とくに帰路での乗組員の死亡が多く、給料の支払いを減らすために殺害された可能性もあったそうです。


18世紀になると、「貨物保護」として乗船者全員の生存率を高めることを目的に船が改良されました。
一部の船には、側面と砲口の間に換気口が組み込まれました(ハッチ付き)。
改良により、空気の流れが増加し、生存率が向上し、潜在的な投資損失が減少しました。
医療従事者を乗船させるのは費用がかかるため、代わりにさまざまな医薬品が積み込まれたこともありましたが、薬がないよりはましという状態で死亡率は相変わらず高いままでした。


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こうして大西洋奴隷貿易の奴隷の大多数は、カリブ海植民地や南米の砂糖プランテーションに連れて行かれ、1740年代にジャマイカとサン=ドマング(ハイチ)は世界の主要な砂糖生産国となりました。

1807年、イギリスは奴隷の売買を禁止しました。この法律は、イギリスの支配下にあったカリブ海のプランテーションにも適用されました。
さらに1833年、1838年の奴隷解放法により、カリブ海地域で50万人以上の人々が奴隷制から解放されました。

しかし奴隷商人たちは、イギリスから独立したアメリカ合衆国にすでに軸足を移していたのでした。

長くなりましたので今日はこのへんで。
お読みくださりありがとうございました。

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