備忘録*きつねの紋章のトッド家の歴史
スコットランドを起源とするトッド姓は、主に北イングランドとスコットランドに見られます。
珍しい名前でキツネを意味する「todde」に由来します。
おそらく祖先はハンターだったか、あるいは王室の領有地でキツネ狩りのためにキツネの飼育をしていたかもしれません。
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イングランドでリチャード2世が「人頭税」(百年戦争 (1337年 - 1453年)の戦費を調達するために12歳以上のすべての人に課税した)を導入した際に、姓名を登録する必要があり多くの人々が苗字をもうけました。
それまでは下の名前だけしかなかったので、住んでいる土地や職業を苗字にすることが一般的でした。
※カルバート(Calvert)は牛を飼っていた人を表す姓。
日本では1875年(明治8年)にすべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けました。平民苗字必称義務令
この布告により苗字のない者たちは苗字を創設することが義務付けられたが、何という苗字にするかは全く当人の自由であった。
旧士族だった者は武士時代の苗字を戻す者が多く、百姓や町人の大部分は祖先の地を付ける者が多かった。屋号や職業名を名字にする者もあった。
トッド姓の最も初期の記録は、ノーフォーク州で1168年に記録されたヒューゴ・トッドという人物だったそうです。
何世紀にも渡って名前のスペルは変化し、Todd、Tod、Todde(トッデ)があります。
アメリカで名門と言われるトッド家、リンカーン大統領夫人メアリー・アン・トッド(1818年 - 1882年)の祖先もスコットランドに遡ります。

この記事では、主にアメリカに移住したトッド家について書いていきます。
歴史上の人物の家系を調べることは、私にとっては事柄の整理のようなものです。家系を知ることによって点と点が繋がって、その時代の人が何に影響されてなぜそうしたのかがわかって、私の脳内も整理されます(笑)
マニアックな内容ですが、よかったらお付き合いください。
スコットランドのトッド家

メアリー・アン・トッドの祖先と言われているジェームズ・トッド(1639-1679年)は、イングランド兼スコットランドの国王チャールズ1世、ならびチャールズ2世の宗教政策に直面したカヴェナンター(盟約者)の家に生まれました。
カヴェナンターの反乱
ジェームズ・トッドの青春は、チャールズ2世と弟ジェームズ2世によるカヴェナンターの迫害が酷かった時代(殺戮時代)でした。
1679年、ジェームズ・トッドは、ボスウェル橋の戦いで捕虜になりました。
この戦いでは約1200人が捕虜になり、全員が反逆者および裏切り者としてグレイフライアーズ教会刑務所に投獄され、処刑された者も多くいました。

その後、ジェームズ・トッドは(おそらく奴隷として)アメリカへ輸送されている途中に、船が嵐に巻き込まれオークニー諸島付近で難破し、ジェームズは溺死したと言われています。
船に乗っていた囚人257人のうち、生き延びた48人は逃亡したそうです。
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先祖の紋章
彼らの先祖をたどると1287年生まれの「David Todd I」という人物までは調査が出来ているようでした。
15世紀になるとトッド家の紋章(3匹のキツネ)が出て来ました。ヘルメットがついているので貴族だったんですね。

その次の世代(William Todd I、1430年 – 1456年)には、もうひとつ紋章が追加されていました。
詳しい情報はわかりませんでしたが、個人に与えられた紋章(褒章)なのでしょう。青い鳥のマークがありますが、子孫のバージョンでは「ペリカン」あるいはエジプトの不死鳥「ベンヌ」のように描かれています。

William Todd I の孫(15世紀後半、Alexander King Coiner Todd)の職業が「Kings Coiner」と書かれていました。
当時のスコットランドの王様は、ジェームズ2世・ステュワートです。
kings Coinerの役割
中世のkings coinerは、王のために貨幣を鋳造する役職で、権力の象徴、経済の統制、貨幣の信頼性を示すために貨幣に彫刻しました。
権力者は、貨幣に自分の顔や名前を刻むことで自身の支配力を示し、その統治力をアピールした。
また、貨幣の発行権を握ることで経済そのものをコントロールし、仮に偽造されたとしても、権力者の顔や名前を削ったり、溶かしたりした時点で権力者は偽造しようとする人物を処罰できる口実もできました。
富の長期保存性においても金属貨幣は有効で、生モノのよう腐ったり、動物のように突然動いたりはしないので富を保存するには便利だった。
これらの要素が存在したため、中世ヨーロッパでは銀貨が普及し、全ての人々ではないけれども貨幣経済が一部では利用されたりした。

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グレイフライアーズ教会の有名な埋葬者一覧にアーチボルド・トッド卿(1584–1656)と言う名がありました。
アーチボルド・トッド卿、その父トーマスは共にエディンバラ市長を務めており、調べてみるとジェームズの祖先でした。(下図参照)


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ジェームズ・トッドの子孫
ジェームズには息子が2人いたそうですが、息子の一人は、ボスウェル橋の戦いで戦死したか、ジェームズと一緒に沈没した船に乗っていたかです。
もう一人の息子ジョンは、「血まみれのグラバー」(ジョン・グラハム)の迫害を逃れて、アイルランドに移住しました。

ジョン・トッドの子、ロバート(1697-1775年)とアンドリュー(1702年 - 1791年)は、1737年以前にアメリカに移住しました。
(ほかの兄弟ウィリアムは、1725年以前に移住していました)
どうやら彼ら二人は、ジャコバイトだったようです。
ジャコバイトは、1688年イングランドで起こった名誉革命の反革命勢力の通称である。彼らは追放されたステュアート朝のジェームズ2世およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を支持し、政権を動揺させた。ジャコバイトの語源はジェームズのラテン語名(Jacobus)である。


トッド家はカヴェナンターなので「長老派」ですが、前の記事に書いたようにスコットランドの長老派は王権は必須だと思っていたんでしょうね。
ジャコバイトの最大の支持基盤がスコットランド、特にハイランド地方であった。もともとスコットランドにはイングランドとの根深い対立意識があったばかりでなく、ステュアート家がスコットランド出身ということもあって、スコットランド人はジェームズに同情的であった。
一方アイルランドでは、宗教的側面からジェームズが支持された。
清教徒革命以降、アイルランドは少数の国教徒が多数のカトリック信徒を支配する構図が成立しており、カトリックに対する宗教的寛容を求めてジャコバイトとなる者が少なくなかった。
ロバートとアンドリューは、イギリスのジョージア植民地におけるスコットランド開拓地への移住計画によってアメリカに渡ったようです。
フリーメイソンのジェームス・オグルソープ将軍に徴募されたスコットランド人177名(男女と子供)が1736年に移住しました。

彼等は新しい開拓地を造ることと、南のスペインから守る緩衝材としての役割を与えられた。スコットランド人移民は周辺地域に多くの軍事用砦を急速に建設し、農業であまり成果を上げられなかった後は、生き残りのために牛の飼育と木材の伐採に特化した。
スコットランド人の新大陸移住計画は、1690年代からいくつかあったそうですが、ジョージア植民地への移住は大成功だったと思われます。
1690年代のスコットランドは、過去750年間で最も寒かった10年間だったそうで、不作と経済不況が相まって深刻な飢饉をもたらしていました。
アメリカに移住したトッド家
メアリー・アン・トッドの高祖父にあたるのがロバートです。
ロバートは2回結婚しました。
最初の結婚(1717 年にアイルランドでアン・ジーン・アン・スミスと結婚、アンは1723年に死去)で、少なくとも 2人の息子をもうけました。
兄・ジョンは、バージニア州の長老派教会の牧師になり、弟デイヴィッド・レヴィはアメリカ独立戦争の兵士となりました。
デイヴィッドがメアリー・アン・トッドの曽祖父です。

ロバートは2回目の結婚(1725年にアイルランドでイザベラ・ボドリー・ハミルトンと結婚)で、9~11人の子どもをもうけました。
そのうちのメアリー(1739年頃 - 1789年頃)の孫娘である、エリザベス・リッテンハウス・ポーター(後述)が、のちにメアリー・アン・トッドの母方の祖母になります。

メアリー・アン・トッドの祖父リーヴァイ・トッド将軍(1756年 - 1807年)は、兄弟のジョン(1782年独立戦争で戦死)とロバート(1814年死亡)と共に現在のケンタッキー州レキシントンの設立に貢献したそうです。
リーヴァイ・トッドは、21人の奴隷を所有していました。
晩年、ケンタッキー・レキシントンにあるウォルナットヒル長老派教会に土地を寄付しています。(建物は1973年に国家歴史登録財に追加されました)
トッド家はずっと長老派教会に属していました。
ケンタッキー州トッド郡は、ブルーリックスの戦いで戦死したジョン・トッド大佐に因んで名づけられました。

ジョンの息子、ジョン・ブレア・スミス・トッドは、アメリカ合衆国下院議員で、南北戦争時には北軍の将軍でした。

メアリー・アン・トッドの家族
メアリー・アンの父、ロバート・スミス・トッド(1791年 - 1849年)はケンタッキー州の州上院議員でした。

ロバートは、若い頃に著名な法律家ジョージ・ビブ(後に1840年代に財務長官になった)に師事していました。
ジョージ・ビブはフリーメーソン。
ラッセルビルロッジ第17号。ケンタッキー州の最初のマスターであり、レキシントンロッジ第1号のマスター。1804年にケンタッキー州のグランドマスター。
父のリチャード・ビブ・シニア牧師は奴隷解放を支持していたが、ジョージ・ビブは自分の奴隷は解放しませんでした。
米英戦争(1812年6月から1815年2月まで)後に、ロバートはタバコ、砂糖、小麦粉、コーヒーなどを販売する乾物店を始め、綿花工場を共同経営し、ケンタッキー銀行のレキシントン支店の頭取も務めました。
1827年、母校であるトランシルバニア大学の理事になり、治安判事や保安官として地方政治にも関わりました。
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メアリー・アンの母方の先祖
ロバートは、1812年11月13日にエリザベス・"イライザ"・パーカー(1794年 - 1825年)と結婚し、メアリー・アンを含む9人の子どもをもうけました。

イライザの母、エリザベス・リッテンハウス(旧姓ポーター)・パーカーは、アンドリュー・ポーター大佐(1743年 - 1813年)の娘でした。
ポーター家の先祖はアイルランドですが、ポーター大佐の妻のエリザベス・マクダウェル家の祖先をたどると、12世紀のスコットランド・ギャロウェイの領主ファーガス・オブ・ギャロウェイ(Fergus of Galloway、1161年5月12日没)が出て来ました。

ファーガス・オブ・ギャロウェイは、12世紀のギャロウェイの領主。
彼の家族の起源は不明であるが、ノルウェー・ゲール人だった可能性がある。
ファーガスは、イングランド王ヘンリー1世(在位:1100年 - 1135年)の庶子エリザベス・フィッツロイと結婚していたと言われています。
リンカーン大統領夫人には、イングランド初期のノルマン朝の血も何パーセントか混じっているということになるんでしょうかね。

メアリー・アンの弟にジョージ・ロジャース・クラーク・トッド博士(1825-1900)がいるのですが、南北戦争当時、アメリカ連合国(CSA:南部連合)の外科医でした。
北軍捕虜に対してサディスティックな行為を行なったと言われています。
どんなことが行われたのか・・・ネットで調べようとしてもアクセス拒否のページが多く実態はわかりませんでした。

メアリー・アンが6歳のとき母親が亡くなり、2年後に父はエリザベス・ベッツィ・ハンフリーズと再婚し、9人の子供をもうけました。
エリザベス・ベッツィ・ハンフリーズの父(アレクサンダー・ハンフリーズ博士)はアイルランド出身の医師で、教え子に有名な外科医エフライム・マクドウェル(上の図①を参照)がいます。

エイブラハム・リンカーンとの結婚
メアリー・アンは、1839年10月頃から既に結婚していた姉のエリザベス・ポーター・エドワーズの家に同居し、姉の家でエイブラハム・リンカーンと出会ったそうです。
エイブラハム・リンカーンの先祖については別記事にします。


1842 年 11 月 4 日に、スプリングフィールドにある姉エリザベスの家でふたりは結婚しました。メアリー・アンは23歳、リンカーンは33歳でした。
4人の男子が生まれましたが、成人するまで生きたのはロバート・トッド・リンカーンだけでした。

長男ロバート・トッド・リンカーン
エイブラハム・リンカーンの長男ロバートは、ハーバード大学卒業後、北軍に入隊しました。
リンカーン大統領が暗殺される前の年のある日(1864年後半か1865年初頭)に、ニュージャージー州ジャージーシティの駅の混雑したプラットフォームにいたロバートは押されてホームと車両の間に落ちてしまいました。
その時、列車が動き出し・・・コートの襟が勢いよくつかまれ、素早く引き上げられてプラットホームの安全な場所に移された。救助してくれた人に感謝しようと振り向くと、それがエドウィン・ブースであることがわかった。
もちろん彼の顔はよく知っていた。私は彼に感謝の意を表し、そうする際に彼の名前を呼んだ。
エドウィン・ブースは有名な舞台俳優(ブース家は有名な演劇一家)だったので、ロバートはすぐに自分を助けた人物がエドウィン・ブースだと気づいたのでした。
皮肉にもエドウィンの弟ジョン・ウィルクス・ブースがリンカーン大統領を暗殺したことで、ブース一族はさらに有名になりました。
兄が命を救った青年の父親を、弟が殺してしまったなんてシェイクスピア劇にありそうな展開です。
エドウィン・ブースは、自分が命を救った青年が大統領の息子だったとは知りませんでした。のちにロバートの手紙の内容を伝え聞き、兄弟が大統領を殺害してしまったことを悔いていたブースにとって、いくらか慰めになったと言われています。

ロバートは、1876年から1877年までサウスシカゴ(のちにシカゴ市に吸収された)の町長を務め、1881年から1885年までは陸軍長官でした。
ロバートの在任期間中の1884年、56人死亡、300人以上が負傷したシンシナティ暴動が勃発しました。
共和党員だったロバートは、何度も大統領候補または副大統領候補として名前が挙げられましたが、彼はどちらの役職の指名も受けないと固辞したそうです。
ロバート・リンカーンは、3人の大統領の暗殺事件が発生したときに偶然その場に居合わせたか、その近くにいたかのどちらかの体験をしている。
◆父親のエイブラハムが暗殺されたとき、彼はフォード劇場にはいなかったが、近くのホワイトハウスにいた。大統領は銃撃後、ピーターセンハウスに移され、そこで彼は父親の臨終に付き添った。
◆1881年7月2日にワシントンD.C.の6番街駅でチャールズ・J・ギトーが ガーフィールド大統領を銃撃した事件を目撃していた。ロバートは当時、ガーフィールド大統領の下で陸軍長官を務めていた。(ガーフィールド大統領暗殺事件)
◆1901年にニューヨーク州バッファローで開催された汎米博覧会に出席していたマッキンリー大統領がレオン・チョルゴッシュに銃撃されたとき、ロバートは目撃者ではなかったが、発生時に会場内にいた。 (マッキンリー大統領暗殺事件)
ロバート・リンカーン自身もこれらの偶然を認識していた。
彼は後に大統領の招待を「いや、私は行きません。なぜなら私が出席する大統領の行事にはある種の致命的なことがあるからです」とコメントして断ったと言われている。

ロバートは、ベンジャミン・ハリソン政権下では駐英米国大使(1889年-1893年)を務めました。この頃、息子が敗血症でロンドンで亡くなっています。
政治を退いた後、1897年に鉄道車両を製造していたプルマン社の社長に就任し、1911年に退任した後は1924年までプルマン社取締役会長を務めました。
以前の記事にも書いたように、アメリカの金ぴか時代は鉄道開発が盛んだったので、プルマン社も事業拡大していただろうと想像できますが、1893年のウォール街大暴落以後は鉄道業界は大変だった時期ですね。
プルマン・ストライキ

Website
https://www.hildene.org/
ロバートは熱心なアマチュア天文学者でもあり、ヒルデンに天文台を建設しました。
彼が最後に公の場に姿を現したのは、1922年5月30日、ワシントンDCで行われたリンカーン記念館の献堂式だったそうです。

リンカーン大統領直系の子孫
1868年にロバートは、アメリカ合衆国上院議員で内務長官を務めたジェームズ・ハーランの娘メアリー・ハーランと結婚し、2人の娘と1人の息子をもうけました。
・メアリー・「マミー」・リンカーン(1869年10月15日 - 1938年11月21日)
・エイブラハム・リンカーン2世(愛称「ジャック」、1873年8月14日 - 1890年3月5日)
・ジェシー・ハーラン・リンカーン(1875年11月6日 - 1948年1月4日)
一人息子は若くして亡くなりました。
長女メアリーは、歴史家チャールズ・ブラッドフォード・イシャムと結婚しましたが、彼らの孫には子どもがいませんでした。
イシャム家はイングランドにルーツがあり、ノーサンプトンシャーのイシャム村で初めて記録されています。

イシャム準男爵家は、1560年から1976年まで約350年間、ノーサンプトンシャーのランポート ホールに住んでいました。
次女ジェシーは、3回結婚しました。
最初の夫であるウォーレン・ウォレス・ベックウィズ(野球選手)との間にもうけた、メアリーとロバートがリンカーン大統領の正式な子孫と認定されています。
ロバートがジェシーとベックウィズとの結婚を許可しなかったため、二人は駆け落ち婚だったそうです。

ロバート・トッド・リンカーン・ベックウィズは、1985年12月24日に亡くなりました。
メアリーもロバートも子どもを持たなかったため、国が法的に認めているリンカーン大統領の子孫は途絶えたと言われています。
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長くなりました。
最後までお付き合いくださった方、ありがとうございました。
今日はこのへんで。
