革命の扉が開く2025・2026年*土星海王星コンジャンクション①ベルリンの壁崩壊(1989年)
2024年12月7日に火星が2年ぶりに逆行を始め、その夜にノートルダム大聖堂でセレモニーが催されました。
パリ司教がドアをノックする場面は、とても印象的に思いました。

そして2024年のクリスマスの日、ローマ教皇フランシスコは25年ぶりにバチカンの「聖なる扉」(別名ポータル)を開きました。
2025年はローマ・カトリックにおける「聖年」になります。

たまたま「扉を開く」儀式が、パリでは「無原罪の聖母マリアの祭日」の前夜祭に、バチカンでは「イエスの生誕を記念するクリスマス」に行われただけなのですが、「偶然は必然」でもあるんですよね。
ちなみに教皇は、ノートルダム大聖堂のイベントは、政治的な意味合いが強いとして出席されていません。
土星海王星コンジャンクションがもたらす崩壊
2025年については、「ついに来た!」というのが星読みとしての感想です。
下図のように2025年は、トランスサタニアン(土星以遠)天体のサイン替え(星座移動)が起きます。

まず、日本時間では3月30日に海王星が牡羊座に移ります。
5月には土星も牡羊座へ、7月には天王星が双子座へ移ります。
ここで重要なポイントは、前の記事に少し書いたように、海王星と土星が牡羊座に入るときにコンジャンクションする(重なる)ことです。
海王星が現在の魚座に入ったのは2011年。土星が魚座に入ったのは2023年でした。現在、土星と海王星のオーブは約6度。
ぴたりと重なるのは2026年2月になりますが、2025年7月も非常にタイトにコンジャンクションします。
このコンジャンクションは、2027年2月までトータルで約2年間続きます。
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2020年12月から始まった「風の時代」の200年間では、約36年毎に今回を含め5回の土星海王星コンジャンクションが起きます。
近々で土星と海王星の接近が起きたのは、「地の時代」の1989年でした。
そのときは山羊座12度で重なりました。
その前は1952年に、天秤座22度で起きました。
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以下で、土星海王星コンジャンクションの影響下で起きた歴史上の事実を例を挙げて書いていきます。
これから起きる事柄も予測しやすいと思います。
【1989年の社会主義国家の崩壊】
1989年といえば、たびたび取り上げている「ベルリンの壁の崩壊」です。
ベルリンの壁は東西ドイツ分断の象徴でしたが、イギリスやアメリカなど西側諸国とソ連を中心とする社会主義諸国の対立である東西冷戦の象徴でもありました。


【タイムライン】
1945年5月 ドイツ降伏(第二次世界大戦)
1949年10月 東ドイツと西ドイツに分かれる
1961年8月 ベルリンに壁が建設される
1989年8月 汎ヨーロッパ・ピクニック
11月 ベルリンの壁崩壊
1990年10月 東西ドイツ統一
【第二次世界大戦後のドイツ】

第二次世界大戦後、ヤルタ協定、ポツダム協定に基づいてなどドイツの処分が行われた。
ポーランドを再建設するに当たって、ドイツ領東部をポーランド領とし、オーデル・ナイセ線を暫定的な国境とすることにされた。
また飛び地となっていた東プロイセン地方はポーランドとソビエト連邦が分割した。このため、かつてのポーランド分割以来、長く領有していた東部地域と、ドイツ帝国統一の立役者であるプロイセンを完全に失った。
これら喪失領土や、占領地にいたドイツ人はその地の政府に追放され、難民として残った国土に流れ込んだ(ドイツ人追放)。
ドイツには中央政府が存在しないとされ(ベルリン宣言)、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦の4ヶ国によって分割占領され、更に首都ベルリン市内も4ヶ国で分割された。

しかし、アメリカおよび西側諸国とソ連の「冷戦」が始まり、1948年、米・英・仏の占領地域が独自に通貨改革(ドイツマルク導入)を行うと、対抗したソ連が同年6月にベルリン封鎖を行ないました。
西ドイツの西ベルリンに向かう全ての鉄道と道路が封鎖され、西ベルリンが陸の孤島となったため、米・英・仏の三国は、西ベルリンへの物資供給のため大規模な空輸を実施して対抗。
1949年5月4日に米英ソ仏四国協定が成立して封鎖は解除されましたが、空輸は1949年9月30日にまで継続されました。
【1949年10月:東西ドイツ分裂】

ソビエト地帯、東ドイツ(赤)は西ベルリン(黄)を囲んでいた。
1949年10月7日、ソビエト占領地域にドイツ民主共和国(GDR)、通称・東ドイツが設立されました。
東ドイツは東ベルリンを首都とみなし、ソビエト連邦と他の東側諸国は外交的に東ベルリンを首都と認めました。
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【1952年の土星海王星コンジャンクション】
1952年5月、ソ連はスターリン・ノート(1952年3月10日)を通じて、ドイツの再統一と中央ヨーロッパからの超大国の撤退を提案しましたが、西側連合国3カ国(米・英・仏)は拒否しました。
このことで「ドイツは無期限に分割されたままである」ことが明らかになり、東ドイツは社会主義を加速していきました。
東ドイツのソビエト化の動きは、重工業に割り当てられた投資の大幅な増加、民間工業企業に対する差別的な課税、農業の強制的な集団化、および東ドイツにおける宗教活動に対するキャンペーンで構成されていました。
これらの変化の結果、東ドイツの労働者の生活水準は急速に悪化し、それは1953年前半まで続き、1947年の飢餓危機以来初めて東ドイツの人々の生活水準が明確に低下しました。

1952年の土星海王星コンジャンクションの影響は、翌年の東ベルリン暴動(6月16日~17日蜂起)で明らかでした。
事件の発端は、ノルマ未達成者の賃金カットという東ドイツ政府の新政策(ノルマ強化法)に反対する建設労働者のストライキでした。
ストライキの参加者は300人ほどだったのが、6月16日には4万人以上が抗議行動に参加しました。
東ベルリンのデモは、翌日、東ドイツ政府と与党社会主義統一党に対する広範な蜂起に発展し、全国の約700の地域で100万人以上が参加しました。
政府を転覆させる恐れがあるとして、東ドイツ政府はソビエト占領軍を要請しました。約50人が殺され、10,000人が投獄されたと言われていますが、正確な数はわからないようです。
【1961年8月:壁の建設】

1949年10月に東西2つのドイツ国家(ドイツ民主共和国(東ドイツ)と、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)に分断されましたが、1961年夏までは首都ベルリン市内での東西の往来は自由だったそうです。
しかし、東西に分かれて以後、東ドイツから西ドイツに大量の人口流出が起き、危機感を持った東ドイツは、1961年8月13日、ベルリン市内の東西の往来を遮断するため壁を建設しました。
国境が遮断されて有刺鉄線が張り巡らされたが、ある所では道路の真ん中に、或いは運河が、また橋の真ん中が国境線であった。
以後東西のベルリン間での市民の行き来は不可能となった。



1961年から1988年までに、総計23万5000人が西ドイツに逃れたと言われます。
そのうち4万人が国境警備をすり抜けて越境した者で、その中の約5000人余りが1964年までにベルリンの壁を乗り越えたそうです。
ベルリンの壁を超えようとした未遂及びその準備をした者はおよそ6万人以上とみられ、越境できずに死亡(その多くは国境警備兵による射殺と川を泳ぎきれずの溺死)した者も多く、約3,000人以上が越境を試みて失敗し逮捕されています。
刑罰は平均4年の禁固刑となり、逃亡幇助の計画準備の場合は実行者より重く終身懲役刑を科されることもあったそうです。
【ゴルバチョフの改革*共産主義の衰退】
東ドイツはソ連が創設した国であったため、ソ連の強制に依っていましたが、1985年にソ連の共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフ氏が「ペレストロイカ」政策を発表しました。
ペレストロイカとは、ロシア語で「再構築(再革命)」を意味する。
外交では冷戦終結、初の核軍縮条約、ドイツ統一がなされ、ソ連国内では表現の自由、集会の自由、信教の自由、出国の自由、選択肢のある選挙、複数政党制など、市民の権利と自由が獲得された。
ゴルバチョフが 「ペレストロイカは革命である。」と発言したことからゴルバチョフ革命や第2の革命とも呼ばれた。

ゴルバチョフは、ソ連における改革政策の一環として「新思考」を提唱しました。マルクス・レーニン主義の概念ではなく、地球規模の問題を解決するための共通の道徳的および倫理的原則に基づいた外交政策を追求したゴルバチョフの標語でした。
ゴルバチョフはソ連の軍事力を誇示する代わりに、外交関係や経済協力を強化し、「ブレジネフ・ドクトリン」(制限主権論)を撤廃し、「我々は東ヨーロッパにおける社会主義勢力を維持するつもりは無い」と宣言しました。
ゴルバチョフの「新思考外交」に対する東欧諸国の反応は様々でしたが、ポーランドとハンガリーは情勢の変化を巧みに読み取り、積極的に国内改革に取り組もうとする動きが起こりました。(東欧革命の始まり)
ポーランドの民主化は一気に進みました。
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しかし、「社会主義のイデオロギー」だけが国家アイデンティティであった東ドイツは、社会主義体制の放棄は国家の独自性、正当性を放棄するに等しいと考え、改革の実行を拒否し、ゴルバチョフ氏と対立しました。
(東ドイツカラーの社会主義)
ゴルバチョフ政権が東欧諸国への介入を縮小したため、東ドイツ政府はソ連の援助を得られず弱体化していくことになります。

1987年には当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンは西ベルリンを訪問し、ベルリンの壁の前での演説で「Mr. Gorbachev, Tear down this wall.(ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい)」と訴えていた。
【1989年8月:鉄のカーテンの撤去】
冷戦下では東西の境界線は、「鉄のカーテン」と呼ばれていました。
鉄のカーテンは、1945年の第二次世界大戦の終結から1991年の冷戦終結まで、ヨーロッパを2つの地域に分ける政治的および後には物理的な境界を説明するために使用された政治的な比喩でした。

1989年5月2日、西欧復帰を目指し民主化を進めていたハンガリーが、オーストリアとの国境にあった鉄条網が撤去し、これが鉄のカーテンに穴をあけることになった。
この報道を西ドイツのテレビ放送によって知った東ドイツ国民は、ハンガリーを経由して西側に亡命できると思い、同国に殺到した。
しかし、ハンガリー・オーストリア国境が開放されたといっても、通行を許可されるのはハンガリーのパスポートを持つ人だけでした。
結果として国境付近に東ドイツ国民が滞留し、夏の終わり頃には国境付近のキャンプ場におよそ10万人の東ドイツ人が集まっていたそうです。
【汎ヨーロッパ・ピクニック】
こうした状況の中、8月19日に「ピクニック」が開催されることになりました。
オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇太子であるハプスブルク=ロートリンゲン家当主のオットー・フォン・ハプスブルクを囲む夕食会で、民主フォーラム活動家らが「ハンガリーが鉄のカーテンによる分断から解放されたことを祝おう」と冗談を言ったとことから、汎ヨーロッパ・ピクニック計画が始まりました。
開催地は、ハンガリー・オーストリア国境地帯にある、三方をオーストリアに囲まれて、比較的オーストリアに脱出しやすいと考えられたショプロンが選ばれました。

ピクニック会場ではブラスバンドが演奏し、食べ物やビールが出され、チロル民謡やハンガリー民謡に合わせて人々が踊っていた。
ハンガリーとオーストリアの外交官が挨拶をして周り、見た目は単なる野外の祭典にしか見えなかった。
ハンガリーの国境警備隊は、1キロメートル以内に近づかないよう命じられていた。
午後3時、国境の検問所の一部が壊され、そこへ東ドイツ国民を乗せたバスが到着すると、その人たちはお祭りには目もくれず一目散に国境へ向かった。
国境検問所のゲートは大きく開かれ、東ドイツ国民は走ってゲートを抜けて行った。国境管理官は、あからさまに背を向けて、入国してくるオーストリア人のパスポートを入念にチェックした。
オーストリア人旅行者たちは、その光景を見て大笑いし、東ドイツ国民が通りやすいように道を開けた。
この日のうちに661人の東ドイツ国民がオーストリアへの越境に成功し、8月にハンガリーからオーストリアを経て越境した人々は3000人に達した。

汎ヨーロッパ・ピクニックを経て、9月11日にはハンガリーは国境を全面開放し、東ドイツ国民の西側諸国への出国を解禁しました。
ソ連のゴルバチョフ氏はこれを黙認。
オーストリア側は西ドイツと協定を結んで、東ドイツ国民をビザなしで国内を通過させました。
東ドイツ国民は用意されていた数十台のバスに分乗して、西ドイツ領内に建設された数万人が収容できる移民センターへ移動しました。
【東ドイツ国内のデモの激化】
一方、国内に留まって内部からの改革を目指す動きもこの時期には活発になっており、9月4日、ライプツィヒではおよそ1200人が「大量逃亡の代わりに旅行の自由を」と叫んでデモが行われました。
以後ライプツィヒを拠点にデモ(月曜デモ)が激化していていきました。
デモは2週間後の9月25日には8000人、10月2日に1万5000人、10月9日に7万人、10月16日に15万人、10月23日にはついに30万人がデモ行進に参加したそうです。

11月4日には、首都の東ベルリンでも百万人以上が言論・集会の自由を求める大規模デモが行われました。
11月までに東ドイツを離れた市民は約25万人に上り、労働者不足により残った市民の生活にも支障が生じるようになりました。
バス運転手には退職者が復帰し、兵士も動員されたほか、鉄道も運行に支障が生じました。トラック運転手が減少したため、食料品や生活必需品などの物流が滞り、また医師や看護婦が大量に退職して閉鎖寸前に追い込まれる病院もあったとか。
もはや国内は、収拾が付かない状態になっていました。
11月6日、東ドイツ政府が国民を統制するために「旅行による出国に関する法案」を成立させようとしたことが、結果的にベルリンの壁崩壊を招きました。
ベルリンの壁崩壊
ベルリンの壁崩壊は、1989年11月9日に、それまで東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表したことで、その日の夜にベルリンの壁にベルリン市民が殺到し、混乱の中で国境検問所が開放され、翌11月10日にベルリンの壁の撤去作業が始まった出来事である。略称として壁崩壊(ドイツ語: Mauerfall)ともいう。
新政令についての記者会見で、正しく理解していなかった担当者は新しい旅行規則が「今すぐに」効力を発揮すると発言しました。
このニュースを聞いた東ベルリン市民は、国境沿いのゲートに詰めかけ、その数は3万人にも及んだそうです。
本来の政令はあくまでも「旅行許可の規制緩和」であったので、東ベルリンから西ベルリンに行くのにも正規の許可証が必要でした。
国営テレビでは繰り返し「旅行には申請が必要です」と放送していましたが、それを顧みる者はいませんでした。

東側、西側の検問所ともに許可証の所持は全く確認されることがなかったため、許可証を持たない東ドイツ国民は西ベルリンに雪崩れ込みました。
西ベルリンの市民もゲート付近に集まり、祝いの花や酒を片手に抱き合ったり、歓迎の歌を歌い一緒に踊ったり、またどこからともなく持ち出された重機などで壁が破壊される様子は、テレビカメラに捕らえられて世界中に伝えられました。

私もテレビで見て、よくわからないままに感極まったのを覚えています。
この時期は、テレビが大きな役割を果たしました。
テレビによって、ほぼほぼリアルタイムとして世界中に配信されたので、同時代の人はこれを共通の体験として受け止めました。
現在は、テレビに変わってSNSプラットフォームが、とくにイーロン・マスク氏のX(旧Twitter)がその役割を担っていますね。
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こうして、1961年に設置された壁は28年後に崩壊しました。
28年は土星の公転周期とほぼ一致します。
翌1990年10月3日には東西ドイツの統一がなされました。
【冷戦の終結】
ベルリンの壁崩壊は、東欧革命を象徴する出来事でした。
この事件を皮切りに東欧諸国では続々と共産党政府が倒され、共産党時代の「鎌と鎚」と「赤い星」は、国旗と国章から全て抹消されました。
特に、冷戦が終結したことは大きかったです。
1989年12月3日、マルタにおいてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュとソ連共産党書記長(当時)のミハイル・ゴルバチョフが会談(マルタ会談)を行い、冷戦の終結が宣言された。

ブッシュ(マクシム・ゴーリキー号内で)
1991年7月1日にはワルシャワ条約機構が廃止され、同年12月25日にはソ連が崩壊しました。
土星海王星コンジャンクションの影響は、実はロシアの成り立ちにも大きな影響がありました。それについては次回に。
続きはまたなるべく近いうちに書きますね。
ではでは。
