使徒ペトロの殉教とサン・ピエトロ大聖堂
キリスト教会では、十二使徒の一人ペトロが最初のローマ教皇だったと言われています。
それはペトロがイエスにもっとも信頼された弟子であり、教会(会衆)の指導者として任命されたことに由来するのでしょう。
ちなみに、ペトロかペテロかということでは、カトリックではペトロと呼ばれ、プロテスタントではペテロと呼ぶことが多いようです。
「わたしはあなたに天国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」

ピエトロ・ペルジーノ 1481–1482年ごろ
「つなぐ」「解く」はユダヤ法によく使われる言葉で、何かを禁止したり解禁したりするために使われていました。
つなぐ事と解く事は教会戒規にも当てはまり、ペトロ(イエスの使徒たち)は戒規を行い、悔い改めない会員を除名する権威を持ち施行しました。
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サンピエトロ大聖堂の由来
バチカンの有名なサン・ピエトロ大聖堂は、本来はコンスタンティヌス1世(在位:306年-337年)により、ペトロのものとされる墓を参拝するために建設されました。


この構造物の真下にピトロの墓がある。
歴史学的には、ペトロがローマで殉教したとする確実な資料が存在していないので、建設地がほんとうにペトロの墓地だったかどうかについては古くから反論がある。

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ペトロは、西暦67年頃にローマで殉教したと言われています。
西暦44年にエルサレムでヘロデ・アグリッパ1世によって処刑されたという説もありますが、キリスト教会では2世紀の教父たちにより「ペトロは皇帝ネロによる迫害に遭い、逆さ十字に架けられ処刑された」と言い伝えられています。

カリギュラのサーカス
ペトロが処刑された場所は、第3代皇帝カリギュラ帝の時代に造られた「カリギュラのサーカス(キクルス)」でした。
カリギュラのサーカスは、現在バチカンがあるバチカンの丘にありました。
古代ローマのキルクス(戦車競技場)は、ローマ劇場やアンフィテアトルム(円形闘技場)と共に、ローマ市民にとって最も人気のある娯楽施設の一つであった。キルクスでは戦車競走や競馬が催されるだけでなく、帝国の重要な記念式典なども開催されていた。

カリギュラ帝が建設したのに「ネロのサーカス」という呼び名が一般的になっています。
この土地にはもともとカリギュラ帝の母で、ネロの祖母でもある大アグリッピナの別荘と庭園がありました。
カリギュラはその土地を相続し、戦車レースのための競技場を作りました。
上の絵には中央にオベリスクが描かれていますが、現在はバチカンのサンピエトロ広場に移設(1586年)にされています。
ピラミッド(メタ・ロムリ)は、1499年に破壊されたそうです。


ネロ帝の治世(54年-68年)では、サーカスはローマ大火(西暦64年)で被災し住居を失った人の避難場所になりました。
歴史家タキトゥスによれば、ローマ大火の後しばらく、罪人の処刑はサーカスで行われていたそうです。
タキトゥスは年代記でキリスト教徒の迫害について述べているが、ペトロについては具体的には触れていない。
「(キリスト教徒は)正式に有罪判決を受けて十字架にかけられることはほとんどなく、裁判もなしに猛獣に投げ込まれたり、生きたまま焼かれたり、溺死させられたりした。」
大火で市内が壊滅状態になり大掛かりな再開発が進められることになったため、処刑をサーカスで行うことにしたそうですが、大火の罪を着せられたキリスト教徒が見世物を兼ねて処刑されたと言われています。
血を流す競技を禁じていたはずのネロが、サーカスで処刑を行ったというのは腑に落ちないところではありますが。
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ローマの城壁の外には、墓地やサーカスのほかにも居酒屋(売春宿)などの遊興施設がありました。
サーカスでは祭りも開催され、「フローラの勝利」という絵画には売春婦たちの裸踊りを見て、ウヒョヒョ~となっている兵士が描かれています。

4月27日に豊饒の女神フローラを讃えるフローラリア祭が開催され、売春婦によるエロティックなダンスとストリップが人気だったそうです。
ちなみに古代ローマでは売春は合法でした。
性別を問わず、売春婦と自由に関わることができたそうです。
売春婦は、自立した女性の職業と見られていたようです。詳しくはまたいつか。
男性売春(男同士)は、主に公衆浴場(テルマエ)で行われていました。
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オールド・サン・ピエトロ
カリギュラのサーカスに隣接するバチカンの丘の南斜面は、ネクロポリスでした。
ネクロポリスとは、巨大な墓地または埋葬場所。語源は、ギリシャ語の「nekropolis(死者の都)」。
以前「ポメリウム」の記事に書いたように、法律で城壁内に死者を埋葬することを禁じていたので、おのずと墓地は城壁外に造営されました。
サーカスのすぐ横には、野外共同墓場が造られていました。
この時代のローマは火葬でしたが、ユダヤ教徒とキリスト教徒は復活のために死体を保存するという考えから火葬に同意しませんでした。
ペトロもそこに葬られただろうという推測をもとに、第3代教皇アナクレトゥス 1 世(在位79年頃 – 91年頃)によって小さなオラトリオ(礼拝堂)が建てられたそうです。
オラトリオは、たぶん下の写真のようなものだったと思います。

反キリストと中傷された皇帝ユリアヌスは、西暦363年に著作『ガリラヤ人への反駁の書』の中で、ペトロの墓は秘密の礼拝の場であったと記していたそうです。
皇帝ヴァレリアヌスの治世中には、ペトロとパウロの遺体はローマ人による冒涜から守るために、聖セバスティアヌスのカタコンベに隠され、その後、ヴァレリアヌスの治世が 終わった260年に元の墓に戻されたと言われています。
コンスタンティヌス1世によって、大聖堂が建てられる土台を築くためにこれらの場所は埋められました。
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コンスタンティウス1世(大帝)は、教皇シルウェステル1世の要請によりオラトリオがあった場所に318年頃から40年かけてオールド・サン・ピエトロを建てました。
これはとても大掛かりで、莫大な資金を必要とした建設工事でした。
完成を見ることなく、コンステンティヌス1世(大帝)は亡くなっています。

この工事には大きな問題がありました。
一つは、ローマ法が禁じていた墳墓の冒涜に値すること。当時も使用されていたネクロポリスを埋めてしまうのは法に反することでした。
また傾斜地のため、大聖堂を建設するには10mもの高低差を整地しなければならなかったのです。
しかし、皇帝の権威で推し進められました。
西暦800年のカール大帝(シャルルマーニュ)の戴冠式は、このオールド・サン・ピエトロで行われました。


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ローマのカタコンベ
カタコンベは、死者を葬る為に使われた洞窟、岩屋や地下の洞穴のこと全般を指します。厳密には3、4世紀のローマやその周辺地方の地下墓所をカタコンベと呼ぶそうです。
ローマのカタコンベは、キリスト教徒のみに限定されておらず、ユダヤ教や古代ローマの宗教の崇拝者も共に葬られているそうです。
ローマで埋葬が盛んになったのは4世紀。
カリギュラのサーカスは2世紀後半には使われなくなっていました。
2世紀のローマでは人口過剰と土地不足という2つの問題が起き、さらには墓地不足にもなったため、使われなくなったカリギュラのサーカスにも墓が浸食していきました。
また、聖カリクストゥスや聖セバスチャンのようなカタコンベは、そこに埋葬されたと思われる殉教者の名にちなんでいますが、約80%はキリスト教が迫害された時代以降の死者が埋葬されているとのことです。

バチカン地下にある古代ネクロポリス
キリスト教会では、ペトロはバチカンの丘に埋葬されたと言われていますが、確実な資料は存在していません。
ペトロの殉教と埋葬に関する数多くの文書は、ほとんどすべて 5 世紀以降に書かれたものです。
ペトロの墓がバチカンのネクロポリスにあるという確実な証拠は無いままに、莫大なお金が注ぎ込まれたオールド・サン・ピエトロ大聖堂は、1626年に新しく建て替えられました。
1940年から1949年にかけてサン・ピエトロ大聖堂の地下の発掘調査が行われ、地下5~12メートルのところにネクロポリスの一部が発見されました。
現在のサン・ピエトロ大聖堂は3層構造になっており、観光で入れる大聖堂1階の下に歴代教皇の石棺が置かれているグロッタ(地下)があり、さらにその下に古代のネクロポリスがあります。
この発掘調査は第二次世界大戦中に行われていますが、プロジェクトの責任者ルートヴィヒ・カースは、ナチス・ドイツとバチカンの政教条約(ライヒスコンコルダート)成立に関与していました。

バチカンの地下には、長さ約32メートルの道に、独立した高さが異なる7つの霊廟が一列に配置されていました。
これはマッドフラッドで埋まったわけではありません。
上述のオールド・サン・ピエトロ大聖堂を建設した際に、傾斜地を平らにならすために埋められたのです。

陵墓は何世代にもわたって使用され、複数の家族が共有していたことがわかっています。すでに発掘された22の墳墓の遺体と骨壷の埋葬数を概算すると、1,000体以上の葬儀が行われたことになるそうです。
ペトロの墓があったとされる場所はP(ペトロ・キャンパス)と名付けられていますが、発掘調査ではペトロの遺骨は発見されなかったそうです。
イタリアの考古学者マルゲリータ・グアルドゥッチは、コンスタンティヌス1世(大帝)がオールド・サン・ピエトロを建設した時にペトロの遺骨は取り出されたのだろうと言い、祠の壁にギリシャ語で「PETR...EN I」(「ペテロはここにいる」と書かれているとグアルドゥッチは主張)と書かれた不完全な文字な碑文があると指摘しました。
しかし、グアルドゥッチの主張には科学的根拠はほとんど得られませんでした。
ピーターは一般的な名前であり、同様の落書きはローマの他の発掘現場でも発見されていました。キリスト教徒は、ペトロとパウロを殉教者として記念するのが慣習だったからです。

地下のネクロポリスの見学は、事前予約制で10人程度の小規模なツアーとして開催されているそうです。
サン・ピエトロ大聖堂のペトロの墓

聖堂地下(グロッタ)の見学は、聖アンデレの柱の下と、聖ロンギヌスの柱の下にある階段から入るそうです。
いくつかあるマンホールから地下階を覗くこともできるそうです。

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