イエスから「岩」と呼ばれたシモン・ペトロと象徴
※以前に書いた記事の無料部分のほとんどをこちらに移し、追記しました。
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タイトル画はAI生成しました。イエスの最初の弟子であるシモン(ペトロ)とアンデレ兄弟のつもりです。
二人は洗礼者ヨハネの弟子でしたが、ヨハネがガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス(ヘロデ大王の子孫)に捕らえられてしまったため、故郷に戻り漁師をしていました。
『マルコの福音書』4章によると、イエスがガリラヤ湖畔を歩いているときに、漁をしていたシモンとアンデレに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけると二人はすぐに従いました。
唐突なスカウトのように思ってしまいますが、実はイエスと二人はすでに知り合いだったのです。
人間をすなどる漁師の意味

「人間をとる漁師」という言葉は誤解を受けやすいのですが、原文の直訳では「人々の(人間の)漁師」になっているそうです。
これは旧約聖書の『エレミヤ書』16:16に由来しています。
私が持っている聖書にはこのように書かれています。
「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。そののち、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩りだせる。」
「漁師に釣り上げさせる」「狩人に狩り出させる」というのは、
どんなに神の目から隠れようとしても無駄である。神はすべてをご覧になっているという意味があるようです。
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預言者エレミヤ
紀元前7世紀末から紀元前6世紀前半に活動したエレミヤは、ユダヤ教とキリスト教の双方において重要な人物です。
イスラム教でもエレミヤは預言者とみなされており、イスラムの伝統の中で語り継がれています。

エレミヤは、ヘブライ語で「ヤハウェが高める」という意味。
エレミヤの時代、ユダの国(首都エルサレム)は乱れていました。
人々は神と神の言葉をないがしろにし、乱交パーティーや異教の儀式(供物として子供を焼いた)を行っていたそうです。
エレミヤは「北からの災い」(バビロニア王国の侵攻)を預言し、人々に悔い改めを呼びかけましたが、人々は「エルサレムに神殿があるかぎり、敵は攻めて来ない。」と油断していました。

ユダ王国は、紀元前10世紀から紀元前6世紀にかけて古代イスラエルに存在した。もともとあった統一イスラエル王国が北(イスラエル王国)と南に分裂して出来たもの。族長ヤコブの子であったユダの名前に由来している。
エルサレムの民衆の多くは、率直過ぎるエレミヤの預言を疎み、楽観的な預言を行う職業的預言者の言うことを支持していました。
いつの時代も、人間は楽なほうに流されます。
捕らえられたエレミヤは、拷問を受け牢に繋がれ、預言することを禁じられました。
結局、エレミヤの預言はバビロン捕囚という形で成就し、人々は捕虜となってバビロンに曳かれて行きました。

「人間を漁る」とは、人々の罪を明らかにし、神の裁きが下ることを告げる、大変厳しい役目を担うことなのです。
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シモンは「岩」と呼ばれるようになる
『ヨハネの福音書』1章には、シモンとアンデレの兄弟がイエスに出会った時のことが書かれています。
彼らの師である洗礼者ヨハネが、イエスのことを「見よ、神の小羊だ」と言ったことに関心を抱き、アンデレはイエスが泊まっている家に行き、一晩共に過ごしたと書かれています。
アンデレはイエスがメシア(油注がれた者)であると確信し、翌日、シモンをイエスのもとに連れて行きました。
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シモンの名は、ヘブライ語ではシメオンとなります。
当時、イエスが「ナザレのイエス」と呼ばれたように、彼も「バルヨナのシモン」と呼ばれていました。「〇〇〇の」は出身や家系を表しています。
バルヨナは、「ヨナ(ヨハネ)の息子」という意味です。
イエスはシモンに「あなたをケファ(アラム語で岩の意味)と呼ぶことにする」と言ったそうです。(ヨハネ1:42)
ケファはギリシャ語ではペトロであることから、新約聖書ではシモン・ペトロと書かれています。
ちなみに、ペトロかペテロかということでは、カトリックではペトロと呼ばれ、プロテスタントではペテロと呼ぶことが多いようです。
また、現代の言語では英語はピーター、フランス語はピエール、イタリア語はピエトロ、ドイツ語はペーター、スペイン語・ポルトガル語はペドロ、ロシア語はピョートルと発音されています。
イエスがシモンをケファ(岩)と呼んだ理由
私は懐疑的な性分なので、「なんで?岩?」とずっと思っていたんですが、明確な答えは見つかりませんでした。
さらに『マタイの福音書』16章には「私は、この岩の上に私の教会を建てる」と書かれています。
そこで、ありがちなキリスト教の創作なんじゃないか?とまで思いました。
でも、やっとわかりました!!たぶんですが(笑)
『マタイの福音書』16章で、シモン・ペトロはイエスに向かい「あなたはメシア、生ける神の子です」と言いました。
『ヨハネの福音書』6章では「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と述べています。
それに答えてイエスは「あなたをケファと呼ぶことにする」、そして「私は、この岩の上に私の教会を建てる」と言ったわけです。
つまり「岩」とは、大祭司としてのイエスの言葉すなわち神の言葉を信じ、信仰の上に立つ者の比喩で、ペトロ(岩と呼ばれたシモン)=教会ではなかったのです。

ペトロ(ペトロス)とは小さな石をさす言葉でもあり、ペトロ自身も「教会は多くのペトロス、小さな石から建て上げられている」と書いています。(『ペテロの手紙』)
これらの小さな石は、ペトロと同じようにキリストに対する信仰を持ったキリスト教徒達のことでしょう。※教会=キリスト会衆
キリスト教徒ではない私がなかなか理解できなかったのも道理(苦笑)
ただし、イエスは「私の教会」とは言わなかったんじゃないかな~。イエスはユダヤ教徒ですから。
ペトロに渡された天国の鍵
ペトロは十二使徒のリストでは最初に名が挙げられ、イエスの特別な秘跡に同席を許されるなど、初期キリスト教コミュニティのリーダーでした。
イエスの弟子になったときにはペトロは結婚しており、中高年だったとみられています。『マルコの福音書』(1:29–31)には、イエスがシモン・ペテロの義母を癒したことが書かれています。
『マタイの福音書』16:19で、イエスは「わたしはあなたに天国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言っています。
「つなぐ」「解く」はユダヤ法によく使われる言葉で、何かを禁止したり解禁したりするために使われていました。
つなぐ事と解く事は教会戒規にも当てはまり、ペトロ(イエスの使徒たち)は戒規を行い、悔い改めない会員を除名する権威を持ち施行しました。

イエスがペトロに天国の鍵を授与した理由は、弟子の中でもペトロが一番、イエスの言葉と働きを理解していたからだと言われています。
ペトロは初代ローマ教皇
カトリック教会では、ペトロが天国の鍵を授かったことから初代のローマ教皇とみなしています。
バチカンの国章にはペトロの鍵が描かれています。
でも、なぜ、鍵は2本なのでしょうか。
右の金の鍵は天の国における権威を示し、左の銀の鍵は地上における教皇の霊的司牧権能を意味しているそうです。


足もとで2本の鍵がクロスしている。
ペトロの否認
そんなイエスの1番弟子のペトロですが、新約聖書の福音書では、ペトロが「イエスを知らない」とを否認したことが記されています。
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最後の晩餐の後、イエスと弟子たちはオリーブ山へ出かけました。
そのとき、イエスはペトロが「イエスを知らない」と言うと予言し、翌朝鶏が鳴く前にペトロはイエスを「3度」否認する(見捨てる)だろうと述べたと記されています。
イエスが逮捕された後、ペテロはイエスを3度知らないと否定したが、3度目の否定の後、鶏の鳴き声を聞き、イエスが振り向いてペテロを見たとき、予言を思い出した。するとペテロは激しく泣き始めた。
この最後の出来事はペテロの悔い改めとして知られている。

レンブラントが描いた『聖ペテロの否認』は、ろうそくの光でペテロの顔を照らしている召使いの少女がペテロだと認識する様子が描かれている。
ペテロが話している間、2人の兵士が疑わしげに見つめており、遠くには両手を後ろで縛られたイエスがペテロのほうを向いている。
ゲッセマネの祈りと剣をふるう使徒
オリーブ山に到着し、イエスはゲッセマネの園で祈るため、ペトロとヨハネ、ゼベダイのヤコブの3人を連れて行きました。
イエスがゲッセマネで祈るのは習慣的に行われていましたが、この晩のイエスは非常にナーバスになっており、弟子たちにこのように言われました。
「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」( マタイ 26:38)
「目を覚ましていなさい」には、見守ってください、という意味で言われたと解釈されています。
しかし、弟子たちは眠ってしまい、3度もイエスに注意されました。



イエスがまだ話している間に、イスカリオテのユダと祭司長や長老たちがやってきて、イエスは捕らえられました。
そのときペトロが剣を抜き、大祭司の召使マルコスの耳を切り落としてしまいました。

イエスは「剣をもとに納めなさい」と制止し、その召使の耳に触れて癒しを行なったとされています。
しかし、ペトロはどうして剣を持っていたのでしょうか?
レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』でペトロがナイフを握っているのが描かれています。
この場面は、イエスが「あなた方のうちの一人が私を裏切ろうとしている」と予言した瞬間の弟子たちが動揺している様子を描いたものです。
ペテロは、イエスの隣に座っていたヨハネに「誰のことを言っているのですか?」と尋ねるように囁いています。(ヨハネ13:24 )



とされる「最後の晩餐」のペテロ
多くの人が十二使徒に持っているイメージは、大人しく無害なグループだと思いますが、当時の彼らは衣服の下に剣を隠していたのです。
ルカの福音書 22:36
しかし今は、手持ちの物があれば、旅行袋も財布も持って行きなさい。剣がなかったら、着物を売り払ってでも手に入れなさい。

ペトロは三度、イエスを知らないと言う
イエスが逮捕された 後、ペトロはイエスを捕らえた大集団の後をついて行きました。ペトロ以外の弟子たちは逃亡したと言われています。
大祭司アンナスの家にイエスは連れていかれ、ペトロは群集の中に紛れ込みます。しかし、召使の少女がペトロに気づき「この男が彼と一緒にいた!」と声を上げたため、ペトロは慌てて「私は彼を知らない」と言ってしまいます。

2度目は、別の召使が周りの人々に「この男は彼らのうちの一人です。」と証言したためでした。
3度目は、ペトロに耳を切り落とされたマルコスの親戚が尋ねたときでした。ペトロは「あなた方が言っている人を私は知りません」と誓いました。
直後(夜明け)、鶏の鳴き声を聞いて、ペトロはイエスの予言を思い出し、激しく泣いたと書かれています。(ヨハネ18:15~27)

この出来事は、ペトロがイエスの第一弟子であったことに大きな意味があります。最初に召使の少女から周囲の人(傍観者)、そして親戚(群衆)に対して否認する展開になっています。
これは、あのペトロでさえもイエス(信仰)を否定したのだから、「すべての人は躓きやすい」ことを自覚しなさいという戒めなのでしょう。

ペテロの再任命

この話には続きがあり、イエスが復活後にペトロに「シモン、あなたは私を愛しているか」と三度繰り返して質問する伏線になっています。(ヨハネ21章)
ペトロは仲間の前で、自分は本当にイエスを愛していると宣言し、完全にイエスの直弟子として復帰することができました。
イエスは、ペトロに三度問うたびに「わたしの羊の世話をしなさい」と命じました。「羊」は、新約聖書で神の民を指す比喩です。
(プロテスタントの聖職者が「牧師」と呼ばれるのは、「羊飼い」に由来しています)
イエスは、再びペテロを教会の使徒および指導者として任命したのでした。

それからイエスは、ペトロの将来について言及します。
「あなたは、若いときは自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(『ヨハネ福音書』21:18)
これは、ペトロがどのような「最期」で神の栄光を現わすかを予言したと言われています。
これらすべてを語った後、イエスはペトロに「私に従いなさい」(ヨハネ21:19)と言い、ペトロは自分が完全に許されたことを悟りました。

ペトロの宣教活動
『使徒行伝』2章には、ペンテコステの日にペトロが群衆に演説したことが書かれています。
ペトロのその後については『使徒行伝』に書かれていることからしか察せられないのですが、ヨハネと一緒にパレスチナのサマリアに派遣され、その地域の信者たちに聖霊が降臨するよう祈ったとされています。(使徒行伝8:14)
西暦42~44年頃、(ヨハネの兄弟でゼベタイの)ヤコブとペトロは、エルサレムのヘロデ・アグリッパ1世王によって投獄されました。
『使徒行伝』12章によれば、ヤコブは殺害されてしまいますが、ペトロは天使によって救いだされ、エルサレムを離れて宣教旅行へ出発しました。(ヘロデ王は天使によって撃ち倒される)


かつてステファノを殺害し、キリストの弟子たちを迫害したサウロ(のちのパウロ)は、この頃(36年頃)にユダヤ教から改宗してペトロを訪ねています。
ペトロはエルサレム会議(西暦50-51年)において重要な発言をしており、パウロはイエスのメッセージは異邦人(非ユダヤ人)にも伝えられなければならないと主張しています(使徒行伝15:1-11)。



アヴァンツィーノ・ヌッチ、1620年
ペテロの殉教
ペトロは67年頃に殉教したと言われています。
(ところが、ヘロデ・アグリッパ1世に投獄された44年に処刑されたという説もあります)
『ガラテヤ人への手紙』によれば、ペトロはアンティオキアで7年過ごし、アンティオキアに教会を創設した後にローマに移り、そこで亡くなったと書かれています。
しかし、聖書にはそれ以上の記述がないペトロの最期は、2世紀以降に出現する教父たちによって、ペトロは皇帝ネロの命令により殺害されたと言い伝えられています。
最初の教父(聖師父)は、イエスの弟子である使徒たちから直接教えを受けた人々であり、彼らを「使徒教父」ないし「使徒的教父」という。
Quo vadis?(どこへ行くのですか?)
聖書にはペトロがローマにいたという明白な証拠はありません。
西暦60年から62年頃にローマに2年間滞在したパウロの記述(使徒行伝28章)にも、ペトロのことは書かれていません。
しかし、2世紀に書かれた外典の文書『ペテロの行為』には、ペトロがローマで逆さまに十字架にかけられて死んだことが記されています。

ペトロが迫害が酷くなったローマから夜中に避難していると、イエスが道向こうから歩いてきたので、「主よ、どこへいかれるのですか(Domine, quo vadis?)」と問うと、イエスは「 Romam eo iterum crucifigī 」(私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ行く)」と答えました。
ペトロはそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻りました。
ペトロは、ヘロデ・アグリッパ2世の妾たちに禁欲と貞潔を守るよう説いたため、激怒したアグリッパによって投獄されました。
十字架にかけられた際、十字架を逆さまにしてほしいと要求しました。
一般的な解釈は、ペトロが逆さまに十字架にかけられるように要求したのは、イエスと同じ方法で死ぬに値しないと感じたためだと言われています。
実際は死人に口なしですが。

古代の歴史家ヨセフスは、ローマの兵士が犯罪者をさまざまな姿勢で磔にして楽しんでいたことを記述しています。
ペトロの弟アンデレは、サルタイア(斜め十字架、アンドレ十字)に架けられました。
シンボリスム的解釈では、十字(架)が太陽の象徴であるのに対し、斜め十字(架)は月の象徴です。

伝承では、ペテロが殉教したのはネロ帝の「サーカス」であるとされていますが、それについては以前に書いた有料記事をもう一度編集してまとめました。後半は有料ですが、よかったらご覧ください。
今日はこのへんで。
お読みくださりありがとうございました。
