革命の幕が開く2025・2026年の土星海王星コンジャンクション②*1917年のロシア革命&長い余談
2025年-2026年にかけて起きる土星と海王星のコンジャンクションについての解説の2回目です。
土星と海王星は、約36年毎にコンジャンクション(合)して新サイクルを始めます。20世紀は1917年、1953年、1989年の3回、土星海王星コンジャンクションが起こりました。
1989年のコンジャンクションについては、①のほうに書きましたので、良かったらご覧ください。
土星海王星コンジャンクションで生まれた有名人
今回は1917年の出来事を取り上げたいと思いますが、その前にちょうど今話題の故人、J.F.ケネディ大統領が1917年生まれだったので、ホロスコープをシェアします。
J.F.ケネディ大統領のホロスコープ

ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(John Fitzgerald Kennedy; 1917年5月29日 - 1963年11月22日)は、アメリカ合衆国第35代大統領(在任: 1961年1月20日 - 1963年11月22日)。
名前のイニシャルをとってJFKないし通称であるジャック(Jack)と呼ばれることも多い。在任中の1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された。

1917年5月29日生まれ、双子座です。
土星と海王星は10ハウスにあり、土星は蟹座27度、海王星は獅子座2度でオーブは5度。8ハウス太陽とはセクスタイル。
かなり警戒心が強いところがあったでしょう。
正義感が強く理想主義者ですが、他者の意見は聞かない感じ。
胃腸が弱くお腹をこわしやすかったんじゃないかと思いますが、たぶんほかに持病もあったはず。
8ハウスに天体が多いので、性的な魅力もあったでしょうね。(マリリン・モンローと不倫していたとか?)
天王星が8ハウスの天体とスクエアで、変化の多い人生でした。青年時代と戦争が重なるので致し方ないですが。
ネイタルチャートでは、天王星と冥王星が、火星と水星に対して厳しいアスペクトを作っていますね。
1953年の土星海王星コンジャンクションは、ケネディのアセンダント付近で起きました。この年に、マサチューセッツ上院議員に当選し、結婚もしています。

暗殺された1963年11月22日は、トランシット水瓶座17度の土星がネイタルの牡牛座火星、乙女座月とクインカンクス。
トランシットのノード(蟹座-山羊座)が17度にあり、MCにコンジャンクションでアセンディセン軸とTスクエアを形成していました。
またプログレスの新月でした。
トランシットでは水星(射手座9度)と冥王星・天王星の乙女座の合がスクエアになっていたことも関係していたでしょう。陰謀のアスペクトです。

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土星海王星コンジャンクション生まれは、人生が非常に困難になると言われますが、それゆえ忍耐力も強く、人一倍努力すると思います。
エイブラハム・リンカーン大統領は、1809年のコンジャンクションで生まれ、1953年のコンジャンクションでは、ロシアのプーチン大統領(1952年)、中国の習近平総書記(1953年)が生まれています。
チャールズ・ダーウィンは、リンカーンと同じ日の1809年2月12日が誕生日です。
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土星海王星コンジャンクションに見る独立革命
①に続き、土星海王星コンジャンクションで起きた革命について書いていきます。
【19世紀】
19世紀は、1809年に射手座6度でコンジャンクションが起きました。
ジェームズ・マディソンが、1808年の大統領選挙でトーマス・ジェファーソン大統領の強力な支持のもと、第4代アメリカ合衆国大統領に就任(任期1809年 - 1817年)しました。
マディソンは「アメリカ合衆国憲法」の主要な執筆者でした。1812年にイギリスからの経済的自立を図った米英戦争を率いたことでも知られています。
この時代はまだ、アメリカ合衆国の黎明期と言えると思います。
上の記事にも書いた(イギリスが武装させた)インディアンのテカムセや、トランプ大統領が敬愛する第7代大統領アンドリュー・ジャクソン(アイルランド系アメリカ人)が活躍した時代でした。
また1809年は、1808年から始まったスペイン独立戦争のさなか、植民地であったエクアドルがスペインからの独立を宣言しました。(エクアドル独立戦争)
1846年は水瓶座27度でコンジャンクション。
海王星の発見と、アイルランドでは政策の失敗によってジャガイモ飢饉が起こりました。
ジャガイモ飢饉では100万人が死亡し、150万人がアメリカに移住したそうです。その中にケネディ家の先祖も含まれていました。

1846年を印象付けるのは米墨戦争( Mexican-American War)です。
米墨戦争は、1846年から1848年の間にアメリカ合衆国とメキシコ合衆国(1810年に独立革命によってスペインから独立した)の間で戦われました。
1836年にアメリカからの不法移民が多数を占めていたテキサス共和国がメキシコからの独立を宣言し、1845年にテキサス共和国はアメリカに併合されました。
1846年4月、メキシコの騎兵隊がアメリカの分遣隊を捕らえたことから戦闘に発展し、ほどなくアメリカ軍はロサンゼルスを含むカリフォルニアのいくつかの都市を占領。(カリフォルニア征服)
その年の9月にはメキシコシティに到達していました。
1848年2月2日に、グアダルーペ・イダルゴ条約が調印され戦争は終結。
メキシコは、国土の三分の一を失いました。
翌1849年にカリフォルニアでゴールドラッシュが起こり、20世紀前半にはテキサス州で油田が発見され、石油ブームが起こりました。
もしも米墨戦争でメキシコが勝っていたら、現在のメキシコはかなり先進国になっていたでしょうね。


1882年は 牡牛座16度でコンジャンクション。
1809年のコンジャンクションで生まれたチャールズ・ダーウィンが死去。
スペインのサグラダ・ファミリア教会の建設が始まったのもこの年です。(2026年に完成予定)
同年、オスマン帝国から独立したセルビア王国は、1918年(前年に土星海王星コンジャンクションが起きた)に現在のユーゴスラビアの前身であるセルビア人=クロアチア人=スロヴェニア人王国となって消滅しました。
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1882年は、イギリスとエジプトの戦争(英埃戦争)が起きました。
きっかけは1881年、エジプト軍の将校アフメド・ウラビが、エジプトとスーダンの副王であるタウフィーク・パシャに対してクーデターを起こしたことから始まりました。
1882年6月11日、アレクサンドリアで反キリスト教徒による暴動が起こり、約50人のヨーロッパ人と250人のエジプト人が殺害されたと言われています。アレクサンドリア砲撃

イギリス政府が介入し、1882年9月13日のテル・エル=ケビールの戦い ((Battle of Tel el-Kebir) においてイギリス陸軍がエジプト陸軍を圧倒し、ウラビはスリランカへ流刑になりました。
その後エジプトはイギリスの保護下に置かれることになりましたが、1953年の土星海王星コンジャンクションのエジプト革命に繋がりました。
エジプト革命については別記事にします。
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ロシア革命(1917年)
1917年にはロシア革命(ボリシェヴィキ革命)が起きました。
ロシア革命とは、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に史上初の社会主義国家(ソビエト社会主義共和国連邦)樹立につながったことに重点を置く場合には、十月革命のことを意味している。
【ボリシェヴィキとは】

ボリシェヴィキは、ロシア社会民主労働党が分裂して形成された、ウラジーミル・レーニンが率いた左派の一派。
暴力革命を主張し、徹底した中央集権による組織統制が特徴である。その特徴は、そのまま後身であるソビエト連邦共産党へと引き継がれた。
ロシア革命時には「パン・土地・平和」をスローガンとして掲げた。平和を求める大衆の意見を尊重すべきとのトロツキーの意見が反映されている。
ボリシェヴィキの思想的、政治的立場はボリシェビズム(ボリシェヴィズム)と呼ばれました。
もともとはロシア社会民主労働党左派の思想で、革命的な闘争によってプロレタリア独裁を目指し、マルクス主義をロシアに適用させようと、コミンテルン(正式名称は「共産主義インターナショナル」)を中心に運動を展開しました。
ドイツでは、ボルシェヴィズムス(Bolschewismus)はロシアの共産主義者を指し、帝政ドイツからナチス時代には、急進的な過激派という意味でも用いられたそうです。
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第一次世界大戦ではドイツ軍に敗北続きだったロシア軍は、1915年7月にワルシャワで敗北しました。
1917年1月までに死者、負傷者、行方不明者など約600万人の死傷者を出し、軍の士気は最も低下していたため、ニコライ2世は自ら軍を指揮すると決定しました。

しかし、これは敗北の責任を皇帝が負うことになった上、皇帝が戦地に赴いたことで政治的真空状態が生まれたため、致命的な誤りでした。
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【2月革命(1917年)とロシア帝国】
国内では食糧不足が深刻化していました。
革命の始まりは、1917年2月23日にペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)に行われた女性労働者によるデモがきっかけでした。この日は国際婦人デーでした。
食料配給の改善を求める目的で行われたデモは、当初は穏便なデモでしたが、市内の労働者の大半が参加し数万人規模に拡大しました。
前線のニコライ2世は、ハバーロフ将軍に暴動を力で鎮圧するように命じ、ライフルで威嚇して群衆を解散させるようにと電報を打ったと言われます。26日のデモに警官隊が発砲したため、市民に多数の死傷者が出てしまいました。

この事件に対し兵士の一部が反乱を開始し、反乱兵と労働者の鎮圧に軍内部でも混乱が生じました。
首都が無秩序状態にあるとの連絡を受けたニコライ2世は、数個連隊を首都へと差し向け反乱を鎮圧するように命じましたが、反乱兵の規模はすでに数万人に達していました。
27日にはモスクワで、3月初めには他の都市でも革命が始まり、ほとんどの軍隊は革命家に味方しました。
左派の下院議員によってロシア臨時政府が結成されました。
ニコライ2世は列車で首都に戻ろうとしていましたが、臨時政府が列車の運行を阻止したため、その場で退位を余儀なくされました。
ニコライ2世は、帝位継承法の規定で本来ならば後継者として予定されていた皇太子アレクセイではなく、弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲った。
しかし、ミハイル大公は即位を拒否したため、300年続いたホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝は幕を閉じ、ロマノフ家の人々は一市民になった。


1918年、ニコライ2世一家は殺害され、弟のミハイル大公も殺害された。
ニコライ2世と日本との関係も書きたいのですが、またいつか別の機会に・・・
二月革命により、臨時政府とともに労働者代表ソヴィエトが成立しました。
※ソヴィエト(Совет)とはロシア語で「会議」や「評議会」を意味する語。
社会革命党とメンシェヴィキが多数派を占めるソヴィエトは、臨時政府を基本的に支持する姿勢を示しました。

ロシア革命とレーニン
ボリシェヴィキの指導者ウラジーミル・レーニンは、1897年に扇動罪で逮捕され、東シベリアへ3年間の流刑に処されましたが、刑務所や収容所の生活ではありませんでした。
警察の監視下に置かれていたにもかかわらず文通などは可能で、多くの革命家が彼を訪ねて来ました。レジャーや狩猟も許可されていたそうです。
1898年7月には、恋愛関係にあった革命家のナデジダ・クルプスカヤと結婚もし、彼女の母親も同居しています。
刑期が終わるとレーニンとナデジダは、西ヨーロッパを転々としながら政治運動を続けました。

ウラジーミル・イリイチ・レーニンは、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国およびソビエト連邦の創設者であり、初代指導者。
1919年にコミンテルンの創設を主導し、マルクス主義者として政治、経済の分析から哲学に至るまでさまざまな著作を残し、マルクス主義を理論的に発展させました。
ロシア共和国の人民委員会議議長(首相)として1922年のソビエト連邦の成立を指導し、1924年に死去するまでソ連人民委員会議議長の地位にあった。
2月革命後にロシア臨時政府が樹立されると、レーニンはチューリッヒからロシアに戻りました。
ドイツ政府は、レーニンの帰国によってロシアに政情不安が生じ、それが第一次世界大戦におけるロシアの降伏につながることを期待していました。

レーニンがロシアに戻ろうとしたとき、進行中の紛争のために国内へのほとんどの通路が遮断されていました。彼は他の反体制派と共に、ロシアと戦争中だったドイツを通る計画を交渉し、ドイツ政府はレーニンら32人が自国を鉄道で通過することを認めました。
ロシアに戻ったレーニンは、10か条からなる 「4月テーゼ(論文)」を発表しました。
4月テーゼの内容は、臨時政府を支持せず労働者代表ソヴィエトへの全国家権力の移行と、ソヴィエトの主流派が主張する「革命的祖国防衛主義」にいっさい譲歩しないことを主張したものでした。
【7月蜂起(1917年)】
7月になると、兵士や工場労働者たちが、臨時政府に対して武装デモを起こしました。デモ参加者は左翼社会革命党幹部、無政府主義者、ボルシェビキらに煽動され、総計40万人という大規模なデモが3日間続きました。
この蜂起では、デモ参加者のうち700人負傷、16人死亡、100人の逮捕者が出たそうです。

***
臨時政府の陸海軍相であったアレクサンドル・ケレンスキーは、イギリスの「ダーダネルス海峡の領有を認める」という口車に乗せられて、アレクセイ・ブルシーロフ将軍に攻勢を命じました。

2月革命で民衆と戦闘能力を失った軍は平和を強く求めており、この攻勢は軍の弱体化を促進することになりました。ロシア軍はドイツ軍とハンガリー軍に大敗し、6万人の兵士を失ったそうです。
また、これが七月蜂起の開始のきっかけとなったと見られています。
ブルシーロフは責任を取らされて更迭され、1917年7月にコルニーロフが後任となったが、コルニーロフは8月にクーデター(コルニーロフ事件)を起こした。
これは失敗に終わったが、ボリシェヴィキが急速に政治力・軍事力を増すことになり、十月革命に繋がっていく。
レーニンは逃亡と潜伏生活を余儀なくされ、他の指導者たちは逮捕されました。こうして一時的にボルシェヴィキの勢力は弱まりましたが、国民の不安は頂点に達していました。
【10月革命(1917年)】
臨時政府の実権はアレクサンドル・ケレンスキーら協調派社会主義者が握っていましたが、労働者や兵士らによる革命のための組織である評議会(ソヴィエト)も各都市にあり、二重権力状態が存在していました。
コルニーロフのクーデターに焦ったケレンスキーは、反対意見を押し退けトロツキー等ボリシェヴィキを釈放し、軍の再建を彼らに依頼しました。

トロツキーは軍を再建し、同時にコルニーロフ軍を内部から攻撃して、戦わずにクーデターを阻止しました。
しかし、これにより主導権が完全にボリシェヴィキに移りました。
かねてから暴力による革命は不可避であると主張していたボリシェヴィキの軍隊・赤衛隊は、10月24日にペトログラードの政府施設の占拠し、10月26日未明に臨時政府が置かれていた冬宮が制圧され、臨時政府のメンバーは拘束されました。

ケレンスキーは、ボリシェヴィキに反旗を翻しましたが、ケレンスキーが動員できる戦力は、「死の大隊」と呼ばれる女性大隊約500人のみでした(女性大隊は反ボリシェヴィキのために勇んで戦闘に参加したが、全員が捕虜となった)。
情勢の不利を悟ったケレンスキーは、イギリス人のスパイを伴って亡命しました。彼を除く臨時政府の閣僚は全員逮捕・監禁されたそうです。

ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)
「10月革命」の成功は、ロシアを社会主義国家へ変革しました。
ボリシェヴィキに権力が集中し、続いてロシア内戦(1917年 - 1922年)が起こりました。
1918年3月にボリシェヴィキ政府は、ドイツとブレスト=リトフスク条約を締結し第一次世界大戦から離脱しましたが、この講和条約は現在のバルト三国・ベラルーシ・ウクライナに当たる広大な領域をドイツに割譲しなければなりませんでした。
ロシア内戦(1917年 - 1922年)
内乱は主に赤軍(共産主義者・十月革命側)と白軍(ロシア右派、共和主義者、君主主義者、保守派、自由主義者)の間で戦われました。
ウクライナなど、地域によってはこれら両者に、ボリス・サヴィンコフなどの率いる緑軍(社会革命党系、農民パルチザン)や、ネストル・マフノ率いる黒軍(アナーキスト)、さらには民族主義者が参加する場合もあった。
白軍には英仏日米などが直接、または間接に支援を行っていました。

そして立ち上がってきたのが、ヨシフ・スターリンが率いる社会主義国家ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)でした。

レーニンが1924年1月に死去すると、その後継をめぐって起きたトロツキーとの権力争いをスターリンが制し、1929年にトロツキーを国外追放した。
スターリン自身が務めていた党中央委員会書記長に権限を集中させることで、最高指導者としての地位を確立した。
興味深いことに、1917年のコンジャンクションでロシア帝国が滅びた後にソ連が生まれ、それが1989年のコンジャンクション(ベルリンの壁崩壊)で解体されたのですね。
そして1991年にソ連邦は崩壊し、現在のロシアに再生しました。
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長々と書いてしまいましたが、土星海王星コンジャンクションの影響下では、革命によってあたかも固い山が崩れ落ちるがごとく状況が一変することを読み取っていただけたら幸いです。
以下は余談です。
ロシア革命とユダヤ人
レーニンの父イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤノフは、物理教師として教育面で顕著な功績を挙げ、1882年にロシア帝国により世襲可能の貴族に列せられています。


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